・オリーヴの油の如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりしや・
「白き山」の一首である。これもまた様々な読みがなされている。
オリーブの油のごとき悲しみ:「どういう悲しみなのか、明瞭でない」(長沢一作)、「作者の独創・独想であろう」(塚本邦雄)、「オリーヴの油のような、とろりとした悲哀」(佐藤佐太郎)。
彼の使徒:「ペテロに焦点をしぼって考えることも出来る」(佐藤佐太郎)、「自分の使徒を据ゑて、作者の意中を計るのも一つの鑑賞方法」(塚本邦雄)。
使徒とはイエスの11人の弟子を示すが、聖書のなかのイエスの処刑の前後にオリーヴの林が描写されていることに注目する読み方もある。さらに11人の使徒はユダと同じくイエスを裏切った、とまで言及する読み方もある。
おそらくそれらこもごもが渾然一体となって一つの印象を形成しているのだと僕は思うし、使徒が誰かと限定する必要もなかろうとも思う。
ただ、「オリーヴ」と「使徒」には注目を払う。オリーヴの林が聖書に書かれていようがいまいがそれは構わない。ただ「オリーヴが茂る地中海沿岸、夏には砂漠のように乾燥するあの気候の印象」「手にまとわりつく粘着性のある悲しみ」「イエスの死後諸国に散らばってキリスト教を広めた11人の使徒(手帳の原案では< 使徒等 >になっていた)」の印象はこの一首の核心であると思う。
11人の使徒がイエスを裏切ろうがそうでなかろうが、イエスの死を悼みながら諸国へ散っていった「使徒等」のごとくに連想が無限に膨らんでゆく。そこにも一首の面白みがあるとぼくは思う。さまざまな読みが成立する。その意味で難解であり、まさに「赤光」的世界である。
「白き山」は戦後の作品(昭和21年から昭和22年)の作品を収録している。このたった二年間に茂吉の代表歌がいくつも含まれていること、その中には第一歌集的世界があらわれていることにも僕は注目している。