「ブナの木通信」『星座』72号より
『星座』では選者の作品批評欄を「00通信」としている。僕は選者となって、やっと一年経った。これまでは「ですます調」(丁寧語)を使っていたが、今号から、「である調」に変更した。丁寧語では、字数が多くなり内容が薄くなる。そこで、「である調」で執筆することとした。
選者になったばかりの頃は、『星座』の会員には、年長の方が多かったので、丁寧語を使っていた。だが「詩人の聲」を通して、抒情詩としての、批評の基準が僕の中で出来上った。これを機会に、「である調」に文体を変えた。
(暮れなずむ川の釣り人の影の歌)
(台風の近づくなか飛ぶ燕の歌)
(晩夏の紫苑に来ている翅の破れた蝶の歌)
(乾いた夏草を刈る歌)
自然を詠んだ作品を4首。それぞれ読者の脳裏に景が浮かぶ。時刻や季節の設定が明確で、場所も明らかである。その上で作者が何をどのように見たかが詠みこまれている。そして単なるスケッチではなく、寂寥感や生命力、生のあわれ、作者の思いやりなどが表現されている。見たものを見たまま詠んだのでは詩にならないが、ロダンが言ったとされる「内面の真」を明らかにすることにより抒情詩としての普遍性を得た。
(運河に架かる橋に感じる午後の静寂の歌)
この都市詠も先ほどの4首と同様だが、加えて下の句の「の」の連続が独特のリズムを醸し出し、人間を疎外するごとき都市の無機質性、冷涼観が表現されている。詠みこまれていない人間の生き様(いきよう)までが連想される。
(納棺の式に遺体に脚絆を結ぶ歌)
(帰宅して自分を見つめる歌)
(調弦のひとときに感覚を研ぎ澄ます歌)
(金木犀の花を待つ日、友と会いたいという歌)
(傷ある鯉が寄りくる歌)
心理を詠ったものを4首挙げた。これらは単なる感想文ではなく、自分の所作や景と結びつけて、気持ちを整理し、自己を見つめ直し、自分の人生観までをも暗示している。一首を仕上げる前に、心を整理し、何をどう表現するかを定める必要があろう。
最後に着眼点の独特なものを2首。
(居酒屋で鯖煮定食を食べる男の居る場所を「ブラックホール」と捉えた歌)
(無意識の善意、無意識の悪意、が同じ人間にあると捉えた歌)
この2首は批評が書けなかったのでここで書く。一首目。見逃してしまいがちな場面だが、把握の仕方に独自性がある。二首目。人間の心理への深い洞察がある。
なおロダンの「内なる真」とは、佐藤佐太郎の「純粋短歌論」で、引用されている一文だ。僕の著作『斎藤茂吉と佐藤佐太郎』で、書いたが、暗示、連想、は象徴に繋がる。佐藤佐太郎の作品が「象徴的技法を駆使した、写実歌」(篠弘)と呼ばれるのは、このためであろう。
岡井隆編『集成・昭和の短歌』の佐藤佐太郎のプロフィールより。
なおこの号で僕は、実験作「島の娘(こ)」5首を発表した。物語詩である。