岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

冬の夜の月の歌:斎藤茂吉の短歌

2011年09月05日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・まどかにも照りくるものか歩みとどめて吾の見てゐる冬の夜の月・

「白桃」所収。1934年(昭和9年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」183ページ。

 先ずは茂吉の自註から。これが示唆に富んでいる。

「< ものか >の< か >は詠嘆の助詞で、万葉の、< 苦しくも降りくる雨か >の< か >と同じである。併し、どうしてこんなにも円満に照りかがやくものであらうか、といふ疑問もあって結局詠嘆に融合したものであらう。< 冬の夜の月 >< 秋の夜の月 >などといふ結句は一時歌壇に盛んに行はれたものであるが、陳腐になったために新派歌壇(=与謝野晶子・正岡子規・佐佐木信綱以降)では余り使はれなかった。さういふ点で、この歌の結句などは、復活させた役目をして居るやうである。内容は極めて単純で、中身が何もないやうな歌であるが、それがやがて此歌の特徴をなしてゐるやうである。」(「作歌40年」)

「天然を詠んだものに上の如きものがあって、前年のものに比して幾らか変化があるとおもふが、進歩といふ方面から謂えば、やはりおぼつかないものであらうか。」(「白桃・後記」)

 新しいものがいつまでも新しいとは限らない。かつての古いものが新しい形で現れる時がある。哲学の弁証法の中心的な考えのひとつ。問題はどういう「新しい形」をとるかだが、そういう意味では茂吉の言う通り「おぼつかない」のだろう。またこの作品が詠まれた時期が「柿本人麻呂」の執筆時期と重なることが、茂吉の詠法をかなり古風にしたであろうことは想像に難くない。

 日中戦争はまだ始まっていないが、世上騒がしく「新」を積む環境にはなかったのだろう。「新」が一点あるとすれば、三句目の字余りである。全体の音数は5・7・5・7・7ではなくて、5・7・7・7・7となっている。この破調は比較的効いていて、「まどか(=丸く)」に照り来る「冬の夜の月」という静寂な印象を乱して、一種の不安定感のようなものをあらわしている。結句が「・・・の・・・の・・・」と「の」を重出させて音を整えているのだが、「整い過ぎる」のを防ぐ効果もあるように思う。助詞以外も含めて「の」が4か所も出て来るので、その醸し出す単調さを中和する意味もあったのだろう。いずれにせよ計算された破調だと言える。

「三句で字余りになっているが、こういう歌調は意識された字余りで、前後にしばしばある。重く厚く行くのが志向する方向であったろう。昔からいいふるされた月光だが、讃嘆の声だけをもって単純に統一されている。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)

「いくぶんかあたたかく、< 歩みとどめて >見つついる作者とのゆたかな交感がある。・・・(茂吉の月の歌で)幾つも秀歌を拾うことができるが、ぼくの連想は純粋に月光だけを歌ったものとして佐藤佐太郎の< 静かなるしろき光は中空の月より来(きた)るあふぎて立てば >などにおよぶものである。」(長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」)と佐藤佐太郎へのつながりを指摘することもできよう。

 なお斎藤茂吉には次のような作品もある。

・中空に小さくなりて照り透り悲しきまでに冬の夜の月・「暁紅」

ほぼ同時期の作だが、冒頭の作と結句が全く同じ。同じく古風な表現だが、「柿本人麻呂」を研究・執筆して、余程この古調が作者の気に入ったのだろう。

 モダニズム短歌・プロレタリア短歌が世に広まっている時に、古風な詠みが逆に新鮮に見えることも時にはある、ということだろう。





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