「民主主義」
これは国家形態で言えば、主権は国民にあるということ。だが国民と言う言葉を使うと、国籍問題にぶつかる。日本国憲法は国民の基本的人権を保障しているが、日本に在住する外国籍の人に人権はないのか。そんなことはない。だから「この国の人々」と呼ぶようにしている。
さて運用の問題だが、これに関しては多数決による意思決定があげられる。ここで問題が発生する。多数意見がつねに正しいとは限らない。そこで意思決定に際しては、少数意見も含めて十分に議論を尽くすこと。十分に議論したと合意したときに多数決で決する。そういう意味では多数決で決まったことは暫定的であり、相対的である。多数決で決まったことも、常に見直してゆく必要がある。
多数決だけが民主主義と思い込むのは危険だ。ナチスは多数決で政権につき、多数決で憲法を停止し、多数決で独裁体制を構築した。多数決至上主義は危険だ。
そこで「立憲主義」が必要となる。どんな政治も憲法に基づくものでなければならない。だから憲法は、国の最高法規と呼ばれる。だがこれは一番尊重されるべき法律という意味ではない。
法は国家から「その国の人々への命令」だ。だが憲法は「国家権力に縛りをかける」ものだ。だから憲法を守る義務を負うのは、公務員、天皇、摂政である。
この民主主義のうちの、主権のありかを示す言葉が「国民主権」だ。日本国憲法にある「主権は国民に存する」に由来している。だが前述の理由で「主権在民」が的確だろう。日本国憲法が公布されて、当時の文部省が発行した「新しい憲法の話」では「主権在民」となっている。
終戦直後の話になったが、「新しい憲法の話」では、「民主主義」の説明からなされている。当時の日本人は「民主主義」の意味を知らなかった。「民主主義」は天皇主権の大日本帝国憲法に反するからだ。したがって当時の日本人は国際社会から「民主主義」を教えられたことになる。これが戦後民主主義だ。これには大変な意義がある。
安倍政権のいう「戦後レジュームからの脱却」。レジュームとは体制、旧体制のこと。だがこの「戦後レジューム」からの脱却は「戦後民主主義」の否定に他ならない。
立憲主義を理解しない、多数決至上主義の議会運営。これはまさしく「戦後民主主義」の否定だ。
いま日本社会が求められているのはそういう問題だ。