斎藤茂吉は「みちのくの農の子」(西郷信綱「斎藤茂吉」)と言われるほどだから、山を詠った作品が多い。岡井隆著「茂吉の短歌を読む」でも「山の歌と難解歌をめぐって」の一章を設けている。
せっかく熱海まで行って、山の歌を作っているほどだ。それでも海の歌を全く作らなかった訳ではない。いくつか紹介しよう。( )の数字は岩波文庫「斎藤茂吉歌集」のページ。
・目のまへの岩のひまなる湛へ潮(たたへしお)しろき水泡(うたかた)うごきて止まず・「暁紅」
・浪ちかく乾きてありし砂のうへ一つの鴎はしづかになりぬ・「同」
・とどろきは海(わた)の中なる涛(なみ)にしてゆふぐれむとする沙に降るあめ・「霜」
・いのちもてつひに悲しく相せめぐものにしもあらず海はとどろく・「同」
ずしりと重量感のある叙景歌である。叙景歌を詠んだことのある人ならわかると思うが、こういう歌は難しい。
海の波は重量感がある。とりわけ磯の岩にぶつかり砕ける波はおそろしいほどの迫力がある。引き潮になるわずかな間に露出した岩を伝って岸から少し離れたところで磯遊びをしたことがある。たしか小学校の6年生の頃だった。御前崎の海。
磯遊びといったが、遊んでいたのは父の方だった。僕はどちらかというと怖くて仕方がなかった。沖の波がまるで巨大な長い壁のように見え、今にも潮が満ちてくるように思えた。かなり遠くなのだが、一線に並んで陸に迫ってくるようだった。
思えば「遠州灘」に突き出た岬だから、普段でも波が荒いのだろう。その波が砂を打ち上げ、岸に沿って砂丘がある。浜岡砂丘と看板が出ていた。高さ20メートルほどの「すなおか」が岸に沿って長く続く。
磯遊びが終わって、砂丘をのぼった。足もとの砂が次々くずれていくので、なかなかのぼれない。ようやっとのぼったら遠くから潮風がふきつけてきた。その風に乗って砂がさらさらと動く。
土産店でメダル型のキーホルダーを買ったら、「南遠大砂丘」と刻印されていた。僕らがのぼった砂丘は、その大砂丘の端でしかなかったようだ。その砂丘の内陸側には松林があって、さらに森になっている。森の中には、今にも竜神が住んでいそうな池があった。水がやけに暗かった。たぶん森の影が映っていたのだろう。
1971年(昭和46年)だった。思えばそこが今、浜岡原発のあるところだろう。浜岡原発の着工はその直後、運転開始は1974年(昭和49年)だったと思う。
以前「身辺雑感」の記事にも書いたが、あの砂丘は津波を止められないだろう。それどころか、津波の濁流とともに大量の砂が原発に押し寄せかねない。それにもまして肝に銘じるべきは、地震・津波の危険性が明らかになる前に、立地・設計がなされたということだ。「東海地震」という言葉もまだなかった頃だ。
「なぜ浜岡原発だけが停止させられるのか」とよく言われるが、砂丘を実際に見た者としては「だから浜岡だけ」と強く感じるのだ。
・いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ・(石川啄木「一握の砂」)