・風さわぐ晩夏の一日(ひとひ)釣をする人ことごとく水に向きて立つ・
「群丘」所収。1959年(昭和34年)作。
佐藤佐太郎の自註がある。
「江戸川をわたって行徳の方に行った。釣をする人が水に向いて立っているのは、当然で何の不思議もないが、その当然が< 人の >生というものを思わせた。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
理屈で考えれば「釣をする人がみな水に向いて立つ」のは当然で何の不思議もない。しかし、何か面白いところがある。「人ことごとく」。何人かはわからぬが、おそらく、二、三人ではあるまい。江戸川の河口はそれほど広い。
その人々がみな水の方を向いている。釣に熱中しているのだろうが、その「ひたすらさ」が、佐太郎のいう「< 人の >生」だろう。人間の飾らぬ姿、心がそこにある。
この作品を読むと、なぜか釣り人の背後から様子を興味深く見ている作者が連想される。
「日曜など一日中、釣り糸を垂れている人がいる。それを後ろから見ている人がいる。もっとも、釣ばかりは後から見るもので、前から見ているひとは余りいませんが・・・。」というのは、先代の三遊亭円楽の「野ざらし」の枕の話だが、考えてみると釣に関する、故事成語の類は多い。古くは「太公望」の話もある。
だがそういう理屈付けも必要ないだろう。「釣をしている人の表情はどんなだろう」「どのくらい釣っているのだろう」と連想が膨らむ。そこに何か普遍性のようなものがみえる。理屈を超越した情感である。
佐太郎はこういう。
「私は意味のある感情が詩の内容だといいましたが、この意味があるというのは、これこれのいみがあるといって論理的に概念的に説明することのできないものであります。論理的・概念的意味をこえた感じとしてあるものです。むしろ意味のないものの中にある意味を発見するのが詩であります。」(「短歌指導」)
そういえば「釣りをしている人を、今釣れるか、今釣れるかとみている」のは何となく心惹かれる。時間が経つのも忘れて見ていた記憶が、僕にもある。
北原白秋はこういう詩を書いた。
「薔薇の木に、薔薇の花咲く、なんの不思議なけれど・・・。」
岡井隆とはまるで詠みぶりが異なるが、その岡井隆と佐太郎門下の尾崎左永子が「角川短歌」7月号の特集で、全体をリードしている。終戦直後の「青年歌人会議」に集い、戦後短歌はどうあるべきかを真剣に議論した世代の歌人の主張は影響力・説得力がある。
このことについては、別の記事で整理する積りである。