一般的に1915年の第一次大戦後に「電化」が普及すると言われるが、それは都市部の話で、電気が全国に行きわたったのではない。斎藤茂吉は佐賀県西彼杵郡の湯治場に滞在し、そのランプの明かりのもとで、西行の「山家集」を読んだ。さぞ暗かったろう。
さて、この時代からさらにくだって、昭和初期。都市でも居間に電球一個という時代が続いた。僕の幼年時代もそうで、東京オリンピックの数年後に我が家に初めて蛍光灯がついた。部屋がいくつもあるなかで、ダイニングにだけ蛍光灯が点いた。やけに眩しかったのを覚えている。初めての夜はその蛍光灯を家族揃って見上げた。
急速に電気の使用量が増えたのは70年代以降だと思う。電子レンジ、エアコン、冷凍冷蔵庫が普及したのもこのころからだ。以来、電気炊飯ジャー(これも懐かしい言葉=保温機能つき電気炊飯器)、家庭用ビデオカメラ、ビデオ再生機、ワープロ、パソコン、携帯電話、電気ポット、電磁調理機・・・。
こういう生活の変化と同時に原発が建設されていった。ところが1981年にチェルノブイリ原子力発電所の事故がおこった。「日本の原発は発電システムが全く違うので安全だ」と盛んに言われた。
21世紀にはいる前後から言われ始めたのが、自然エネルギーの利用(風力・太陽光)、燃料電池(水の電気分解の逆に水素と酸素から電気を取り出す)、バイオマスエネルギー(植物がとりこんで地上に存在する炭素を燃焼させる発電、大気中の CO2 は増加しない)の積極的利用である。原子力に変わる新エネルギー開発が話題となった。「エネルギーシフト」という特集番組が NHK で放送されたのがこのころだった。
その風向きが変わって世界が原子力推進へ再び向いて行ったのは、「地球温暖化」の問題がきっかけだった。二酸化炭素排出削減の中心に浮上したのが、原子力発電。二酸化炭素が地球温暖化の原因になるというのは1970年代から言われていたから驚かなかったが、化石燃料の代わりに原発というのには首を傾げた。原発の抱える放射性物質や放射性廃棄物のほうが、二酸化炭素とは比べものにならぬほど危険だと思った。おまけに放射性廃棄物の処理は、ガラスの中に封じ更にドラム缶に詰めて地下へ保管するという。これは処理ではない。放射性物質・放射性廃棄物の移動に過ぎない。
こういう動きとともに、燃料電池開発や自然エネルギーの開発利用のスピードが鈍ったように思う。考えれば原子力発電所(ニュークリア・パワー・プラント)の建設費は獏大で、つい最近まで技術輸出・プラント輸出が「新成長戦略」とされていた。
どうもおかしい。原子力産業は巨大だ。運転は電力会社が行うが、建設は大手企業が手掛ける。工事の受注は巨額な利益を生む。こういった利益は利権につながる。それも巨大な利権だ。危険かどうかに関わりなくものごとが進む。何か釈然としないものを感じるのは僕だけだろうか。