「8・15を語る歌人のつどい」。坪野哲久の妻、山田あきの提唱で始められた。今は渡辺順三を弟子筋の「短詩形文学」の人たちが事務局の中心となって運営されている。
今年で25回目を迎えたが、これにはなるべく参加するようにしている。僕の祖父は旧満州からの引きあげ者だ。戦争のために僕の一族は運命は狂った。全財産は紙切れとなった。父は大学進学の機会を失った。祖父が引き揚げ船の順番を3回譲ったからだ。こういう会話の絶えない家庭だったから、戦争を厭う気持ちはことさら強い。
ことしの講演の早乙女勝元も戦争を忘れられない原体験がある。東京大空襲だ。早乙女勝元の著書に『東京大空襲』(岩波新書)がある。ここで惨憺たる思いをしたそうだ。
早乙女勝元は、第11回の「つどい」でも講演した。
「平和への希求を諦めてはいけない。アメリカの一女性が提唱した「対人地雷禁止条約」が締結された。まずは個人が一人でも声をあげるのが大切だ。東京大空襲の資料を収集したので、記念館を作って欲しいと、東京都知事に陳情したときに、『行政だのみではなくて何か行動をしてからにしないか。』と言われ、記念館の建設用地の取得のための市民運動を始めた時も一人だった。世界には軍隊を持たない国がある。コスタリカだ。今度娘が監督して映画化する。」
こういう話だった。今年の講演の内容は四つほどある。
1.東京大空襲の記憶
「東京大空襲は無差別爆撃だった。無差別爆撃は日本軍による重慶爆撃が最初だった。言問い橋には足袋のコハゼが散乱が散乱していた。足袋を履いていた人間は燃えてしまった。そういう実態を政府は隠そうとした。都内には数万の焼死体があったが囚人まで動員して埋葬してしまった。この時代の日本人の平均寿命は、男性が23・9歳、女性が37・9歳。戦争で300万人の日本人が死んだ。」
2、日本人の加害責任
「海外での戦争で日本軍の戦闘により2000万の人間が死んだ。これはもっと認識されていい数字ではないか。日本には朝鮮戦争の朝鮮特需があった。背に腹はかえられないとこれで利益をあげたこともあった。」
3、軍隊について
「平和を希求すると公言する人間は、戦争に反対するが、戦争の手段について厳しい目を持たねばならないだろう。世界には軍隊のない国が40以上ある。日本と単純比較は出来ないが、こころに留めておくべき問題だ。ほどほどの装備ということで、ピストルを持つ、相手は機関銃を持つ、こちらはバズーガ砲を持つ。こうしてエスカレートしていけば最後は核兵器だ。東日本大震災で、自衛隊が災害救助に活躍し、住民は感謝している。だが救えなかった命もある。材木の下敷きになった人だ。自衛隊は電動ノコギリを持っていない。それは戦争に必要ないからだ。だから自衛隊の半分でいいから災害救助に特化できないか。沖縄戦では県民の4人に1人が死んだ。だが一人も死んでいない島がある。前島だ。300人の集落だが、ここには日本軍の基地がなかった。米軍が上陸したが、民間人だけだったので攻撃しなかった。」
4、個人の役割について
「大事なのは一人でも声をあげることだ。自分は戦後、貧困や戦争体験について本を立て続けに出版した。自分史を書くことで平和を訴えられるからと思ったからだ。」
最後に早乙女勝元はこう結んだ。
「私の両親は貧しくて、何も残してくれなかった。しかし日本国憲法を残してくれた。憲法の制定に関わった訳ではないが同時代の日本人として、日本国憲法の制定時に生きていた。だから私たちもこの憲法を子孫に残す必要があるのではないか。」
一言一言に重みがあった。
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