・電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾・
「たかはら」所収。1929年(昭和4年)作。
異様な作品である。飛行機の上から「帝都」東京を俯瞰している「機上詠」なのだが、この漢語の連続の意味するものは何だろう。
茂吉の手による自註は、「作歌四十年」にも「たかはら・後記」にも見当たらない。佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」にもとりあげられていない。ただし佐藤佐太郎は見出し歌ではないが、鑑賞文の中で「自由律短歌」との関連の有無に関連させてふれている。
唯一、塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉まで・百首」のみがとりあげている。かなり厳しい批評である。
「名詞の縦書羅列は、この場合いささか幼いフォルマリズム(=極端な形式主義・虚礼・・・岩田ー註)的手法で、・・・そして更に奇異なのは、その飛行作品中に・・・本然の姿に還ったとも旧態依然とも言へる作品が、当然のやうに混ってゐて、あたりを睥睨(へいげい)してゐることだ。」
やや難解な文だが、「つたない極端な形式主義で、文体の統一性がなく、辺りを睨みつけている体だ」というのだ。僕自身の言葉で言えば、異様なまでの乱調とある種の興奮状態がうかがえる、とでも言おうか。
では茂吉は、なぜ乱調になり何をにらみつけているのか。僕は一首の中に「帝都」のインフラ、とくに戦争用の建造物が詠み込まれていたことに注目している。「電信隊」「射撃場」がそれである。
世界恐慌の年である。旧満州では既にきな臭い、いや血なまぐさい武力衝突が始まっていた。全面戦争の前触れである。その時代の中で、茂吉は次第に平常心をうしなっていったのではないか。
齊藤茂太の「茂吉の体臭」によれば、斎藤茂吉は「自律神経過敏」だったそうである。ある医者の話だが、こうした傾向の「気質」を持つ人は、冷静にものを考え言える場面と、興奮状態になる場面とがあるという。
感情の起伏が激しい面はあったのは事実ようだが、いずれにせよ時代の激流に飲み込まれようとしている茂吉の乱調気味の心情が思い浮かぶのだが、どうだろうか。