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書評:「従軍慰安婦」岩波新書 吉見義明著

2014年03月03日 23時59分59秒 | 書評(政治経済、歴史、自然科学)
「従軍慰安婦」吉見義明著 岩波新書


 本書の刊行は1995年。「河野談話」の3年後である。日本政府は「河野談話」で初めて「従軍慰安婦」の存在と、強制連行されたことを認めた。しかし「新しい歴史教科書を作る会」などによって、「従軍慰安婦」は存在しなかったとか、当時は売春は合法的だったとの主張がなされるようになった。

 しかし歴史学は日進月歩であり、新資料の発見も相次いだ。所謂「歴史認識」の問題は歴史学の進展を勘案したうえで検討するべきだろう。

 以下、本書の概要を示し、一部を引用する。


1、「従軍慰安婦」はなぜ設置されたか。

 「華北にいる全軍を指揮する北支那方面軍は(兵士による)強姦事件が各地で頻発していることを認め、住民の怒りをかったために治安維持上、作戦上に支障をきたしているといわざるをえない状況であった。その対策として、方面軍参謀長は、指揮下の各部隊に軍慰安所をつくるように指示したのである。」(本書30ページ)

 (=つまり「従軍慰安婦」のいる「慰安所」は、日本兵によるレイプ事件の多発を受け、兵士の性欲のはけ口として設置されたのだ。)


2、「従軍慰安婦」はいつから設置されたか。

 「確実な資料によって確認された最初の軍慰安所は上海で作られた。・・・(満州事変のとき)上海に派遣された本陸海軍が軍慰安所を設置した。・・・陸軍で軍慰安所設置に当たったた上海派遣軍(司令官.白川義則大将)の岡村寧次郎参謀副長の回想によれば、慰安婦制度は、上海にいた日本海軍にならったものだというから、海軍がまず、軍慰安所を設置したらしい。」(本書14ページ)

 (=つまり「従軍慰安婦」は軍の作戦司令部の指示で設置されたものなのだ。)


3、「従軍慰安婦」はどのように集められたか。

 「朝鮮からの徴集で最も多いのは、だまされて連れて行かれたケースだった。・・・身売りのもっとも典型的な例は、キタムラ(北村または喜多村か)という慰安婦業者夫妻がビルマでアメリカ軍の捕虜になったときにのべた供述に示されている。・・・たとえ本人が自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ。・・・名古屋の高校教諭高橋信らが発見した『軍』慰安婦急募」という募集広告は、・・・『00舞台慰安所』のために、年齢18歳以上30歳以下の身体強権の者、数十名を募集するというものであった。・・・しかしこの前後には同様の広告はない。・・・むしろ新聞に公告がのせられたというこの事実から、読み取るべきことは、総督府が慰安婦の送出を認めていたということであろう。」(本書86ページから104ページ)

 (=つまり「慰安婦」を集めるには、「人身売買」「誘拐」「直接、間接の強制」があったのであり、行政府も設置を認めていたということだ。)


4、「慰安婦たちが強いられた生活」「国際法と戦犯裁判」。これは本書の130ページから192ページで述べられる)


5、さらに敗戦後「連合国軍用慰安所」も、京浜地区、名古屋、北海道などにも設置され、府県、警察、右翼が設置にかかわり、右翼の資金源となったことが述べられる。(本書194ページから220ページ)

6、史料、資料について。

 「従軍慰安婦」問題は、事実関係で争われることが多いが、本書が基礎とする資料、史料は次の3点だ。
 
 Ⅰ、これまでに発掘された内外の公文書。

 Ⅱ、元慰安婦からのヒアリング。

 Ⅲ、日本の戦争責任資料センターがおこなった、
             国立国会図書館所蔵の部隊史、戦争体験記録調査。


7、この問題についての著者の認識。

 Ⅰ、内外の公文書については、連合軍に占領される直前、大量に隠蔽された。しかも警察資料、植民地統治に関する資料、戦犯裁判資料は非公開の者が多い。政府に資料の公開を求めている。
  (=本書の内容は氷山の一角だ)

 Ⅱ、「軍慰安婦」という言葉は、「なぐさめ」という一種の慈愛のニュアンスがあるが、実態はかけ離れているので、他に適当な言葉はないか。

  「売春婦」「芸娼妓」「酌婦」「女給」といった用語もまた、「性的搾取を受けた女性」という意味をもつ用語にいいかえる必要がある。

 (=つまり論ずるときの焦点は、あくまで女性の人権問題としてとらえよ、ということだ。「慰安婦」に金を払っていたからといって、正当化は出来ない、ということだ。そして巻末の膨大な参考文献が、資料による裏付けを感じさせる。)




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