観測にまつわる問題

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竹島が日本のものと言える簡単な論証

2018-05-19 11:32:34 | 政策関連メモ
韓国は日本が竹島領有を主張すると一々騒ぎ出す国です。日本も自国の領土は主張しなければなりませんから、日本が発言する度に揉めることになります。自国の領土を主張するのは何処の国でも同じです。韓国が日本を監視して一々因縁をつけてくるから何時まで経っても喧嘩が絶えない訳です。これまで日本は自国の領土の主張は控えてきたかもしれませんが、これからはそうはいきません。韓国は日本の植民地ではなく、基本的には対等の関係です。日本は韓国のために自分の主張を控えるべきなどという甘えた考えは捨ててもらわなければなりません。

以下竹島が何故日本の領土と言えるのか簡単に纏めます。

前提1:対馬は日本の領土です。対馬国は魏志倭人伝(第3者の中国史料)でも日本のカテゴリーに入っていますし、疑う余地はありません。韓国人は日本が竹島を言うなら対馬は韓国などと主張しますが訳の分からない言いがかりです。対馬が独立した国であったことはなく、ずっと日本の領土でした。耽羅国(済州島)は15世紀始めまで独立していたようであり日本に朝貢したこともあるようですが、日本が済州島の領有権を主張することはありません。日本が済州島の領有権を主張するより酷い誤りが韓国の対馬領有の主張です。こんな荒唐無稽の主張が一定の力を持つのは韓国ならではで非常に残念な人達だと思っています。

前提2:対馬(や北部九州)は地理的に朝鮮との橋渡しの役を担ってきました。史料上の根拠もありますし自明ですね。

前提3:中国貿易の利権は強大(危険を冒す価値がある)ですが、朝鮮との貿易はそれほどでもありません。

前提4:竹島は飲料水にも乏しく居住に適しません。事実アシカが棲む島でした。

前提5:昔の地図はいい加減。韓国は竹島に国があって古来韓国の領土と主張していますが、あのような絶海の孤島(ほぼ岩山)に人が住んで国があった可能性はありませんし、証拠も出てきていません。逆に韓国がありもしない幻の島の領有を主張したことは現代になってもあります(バラン島)。

結論:朝鮮との交流に対馬近辺をあえて通らないルートは通常では考えられません。北部九州から対馬に立ち寄らずに朝鮮に渡ることはあるかもしれませんが、山陰方面から対馬付近を通らずあえて日本海を渡る必要がありません。隠岐や山陰における朝鮮の存在感は薄く橋渡し役を担ったという史料はないはずです。中国の場合は東シナ海ルートがありますが、朝鮮の場合は対馬ルートをあえて使わない理由がありません。幾ら史料を探してもないものはないということになるはずです。竹島は日本の主張通り日本が漁業が盛んになって鬱陵島にまで渡るようになるまで無主の地でした。鬱陵島は元々韓国の領土ですが、その先に行く必要がない重要性が低い島でした。重要性が高いなら日本が来るまで空にすることはありません。韓国は空島政策をとる国であり海洋国家ではありません。幾ら探してもちゃんとした竹島領有の根拠は出てこないでしょう。それは存在しないからです。バラン島を何時まで探すつもりでしょうか?

例外:日本海ルートは基本的に存在しませんが(漂流漂着の類なら存在するでしょうが、韓国は漂流者がいたから韓国領土だと主張していません)(安龍福が英雄とか笑止な話がありますが彼は鬱陵島で不法に漁労していたところ当地の開発していた日本に(強制)連行されて日本に渡ってきた人です。鬱陵島は史料上元々韓国だったので日本は住民がいなかった鬱陵島を韓国のものとして認め返しています)、例外があります。渤海使です。渤海は朝鮮半島の新羅と対立しており、新羅を牽制するため、朝鮮半島付近を通らず日本と通交する必要がありました。ですからわざわざ危険を冒して日本海を渡った訳です。逆に言えばそういう事情が別段ない限り、対馬付近を通らないルートが存在しません(このあたりで漁業で遠征が始まったのは江戸時代の日本になります)。渤海は韓国ではありませんし、韓国も竹島領有の根拠を渤海に求めている訳ではありません。

韓国が日本に対して竹島問題で高飛車に出られるのは自分の主張に自信があるからなのでしょう。根拠の無い自信は粉々に砕いておけば、一々言いがかりをしてくることもないでしょうし、それが原因で揉めることもないだろうと考えます。韓国内の議論にそれほど関心がある訳ではありませんが(中国と違って完全に実効支配されているので兵が出せないなら取り返す見込みも無い)、日本で報道されるなら目には入りますし、目に入ったら何か言わない訳にもいきません。韓国こそ認識を変える必要があるんじゃないでしょうか。

変えればいいという訳ではない(歴史)

2018-05-09 20:25:01 | 日記
「こんなに変わった!歴史の新常識」(青春出版)という本を買ってきました。勿論歴史の新常識を語りたい訳ではなく、寧ろその逆です。別に研究を重ねて新常識をつくるというなら、それが研究の目的でしょうし、総論反対はしませんけれども、変えてはいけないものを変えるなと主張したい訳です。日本人というのも中々軽躁なところがあるようで、変えなくてもいいものを変えようとしてないかと思うことがしばしばあります。本屋で手にとったこの本で産経の歴史関係の記事を思い出し、ちょっと書いてみようかと思った次第です。一々何処がどうと書きはしませんけれども、研究の結果説が変わったところを否定している訳ではありませんので(寧ろそれは良いことだと思っています)、誤解なきよう。

①聖徳太子→厩戸皇子の書き換え

聖徳太子にまつわるいろいろな議論があるのは承知していますが、厩戸皇子と呼びかえるのは感心しません。歴代天皇を諡号で呼ばず、名前で呼ぶのは外国人か左翼に決まっています。厩戸皇子も正式名称かもしれませんが、広く知られた通称でもある諡を一々呼びかえる姿勢は失礼そのものです。今は皇室以外で諡的な使われ方をする名前はないと言えますからやや現代においてはズレる例えになりますが、そういう人はペンネームで知られた作家を一々本名で呼ぶのでしょうか?それをするのは対象を馬鹿にする時に決まっており、皇室に対して一々不敬な強い意志は日本においては左翼にしか存在しません(今は不敬罪はありませんから、こうした連中は野放しになります)。元々歴史学はマルクス主義の影響が強いところがあって、その名残がまだ残っているのだと考えられます。一々厩戸皇子だろうと推定して歴史を修正する姿勢は史料を重んじ、当時の文脈を重んじているとは到底言えず、失礼したい以外に何か理由あるの?という話です。伝説を事実そのものと教えることに賛成はしませんが、伝説が史料に載っていることはしばしばあり、一々呼びかえるなんて馬鹿のすることだと思っています。中国の史書で例えると(日本の話だと揉めやすいので)、殷の紂王がやったことを丸々事実そのものと認定する人はさすがにほとんどいないと思いますが、本当は帝辛だなどと言うならば、中国の史書そのものを丸々疑わねばならず、じゃあ何をやった人なの?ということになります。まぁそんなに悪人でもないということを言いたいのかもしれませんし、そうなのかもしれませんが、紂王で検索して帝辛と言われれば「誰だよ?」ってことになりますよね。同様にかつて聖徳太子のお札があったのに、いやあれは厩戸皇子のお札だと言われれば「誰?」ということになります。聖徳太子のお札は1984年まで発行されており、筆者も昔は見たような記憶があります。10人の話を聞いたなどという話は○ン○ク○ー○の話のようなもので大人が信じることもないでしょうから、聖徳太子を聖徳太子と呼んで何が不都合なの?要らんことするなです。数々の史料に載る伝説的な人物を教えずして何を歴史学は教えようとしているのか、サッパリ理解できません。最近は聖徳太子に言及しないとか言いますが、世界遺産である法隆寺を建立した(とされる)人物を教えずして、あの時代に他に教えることがあるのでしょうか?勉強ができる馬鹿そのものだと思います。

②西軍盟主は石田三成ではない(毛利輝元である)

事実ですが、毛利輝元は担ぎ上げられただけで盟主というと誤解を招くところがあります。東軍の盟主は明らかに徳川家康ですが、西軍の真の盟主がいるとすれば豊臣家でしょうし、そもそも決起した首謀者が最後まで戦わないというようなことは有り得ません(毛利軍は関ヶ原にいただけで参加していません)。そのような文脈があって、盟主的存在の毛利家は長門・周防に押し込められるだけで済み、じゃあ真の首謀者は?ということで、石田三成だということになったようです。最近の研究で石田三成が真の首謀者であるかは怪しいところがあるとなったようであり(信憑性が比較的薄い史料にしかその手の話はないようです)、歴史学でそれは別に構わないのですが、その辺(毛利輝元が総大将であるという話になった訳ではなく、石田三成が真の総大将であるという話が怪しくなった)を曖昧にしていると、いい加減な話がまた広まるのではないかと思います。石田三成が首謀者と言えなくなったからといって、毛利輝元が首謀者に昇格する訳ではありません。断定的なことを学問が言えなくなることは分かりますが、西軍の総大将は?などと問いかけること自体が意地悪な引っかけ問題と言えます。専門家の傲慢ではないでしょうか?

③縄文時代は狩猟生活ではなく、農耕・定住生活だった

狩猟も採集もやっていたでしょうし、農耕をやっていたというのは新発見でしょうが(そんなに新しい発見でもありません)、別に狩猟民だと思っていた人はそんなにいないのではないかと思います。定住しない狩猟民が縄文時代を特徴づける貝塚をつくるなどということが有り得るか疑問でしょう。それはともかく、従来の通説通り弥生時代と縄文時代の間には大きな違いがあると思います。基本的には灌漑稲作を中心とする生活が広がると弥生時代と言えると思います(例えば本州最北の農耕の始まり 弥生時代とはどんな時代か NIKKEI STYLE 2016/10/27)。言いたいことは時代は少しづつ連続的に変わったと認識し弥生時代と縄文時代の区別をしない「新しい考え」こそが誤りだろうということです。

ここからは個人的見解ですが、筆者の場合大体言語で大まかな歴史の流れを見る癖があり、縄文時代と弥生時代に境目がないとすると、言語の分化はもの凄いことになって、日本という国は成立しなかったろうと思っています。別に縄文時代を全否定するつもりもありませんが、比較的近い時代に日本人が広がったからこその日本成立だという認識ですね。比較言語学が歴史的経緯から嫌われているところがあり、その辺が分かりにくくなっていると思っています。沖縄人も含めて基本的に日本は弥生文化の継承者であるはずです。こう書くと弥生人=朝鮮人と勘違いする人が現れますが、朝鮮語と日本語の系統関係は立証できず、朝鮮人は朝鮮人、日本人は日本人でしょう(恐らく縄文時代後期に灌漑農耕を覚えた北部九州人が日本人の大元であるはずです)。ただし、邪馬台国は普通に大和で近畿であると思います(論拠多数で確信していますが詳述しません)。日向国に関しても意見はありますが、特に書いたりはしないつもりです。

④鎖国は無い

これが実は一番言いたかったことですが、完全に(極めて有害な)誤りだと思います。鎖国をしろと書いた法律はなかったでしょうが、そんなことはどうでもいいことです。禁教令はありましたし、平戸や出島もあったのに鎖国が無かったも何もないはずです。こんな大嘘他にありません。鎖国が無かったら開国もありません。ペリーは日本に遊びに来たんでしょうか?当時は汽船ですし捕鯨船(日本のじゃありません!)などの補給港がほしいという理由で(他にもいろいろあったでしょうが)、日本は圧力をかけられ開国しろとなった訳です(日米和親条約批准書交換証書(文化遺産データベース)。鎖国は無かったなどという言葉遊びは有害無益以外の何ものでもありません。別に鎖国が日本の専売特許でもありません(鎖国という用語でそう勘違いする人がいるとすればそれも有害です)。当時は明から始まった海禁政策がアジアに広がっていた訳であり、そこからいち早く脱却して変わる情勢に対応したのが日本であったというのが常識的かつ事実に基づく歴史観で、一々それに挑戦したがる馬鹿は何を考えているのだろうかと思わざるを得ません。日本が一番近代化が早かったということが気に食わない連中(反射的に左翼じゃないのと思ってしまいます)が言葉遊びして素人を騙そうとしているのかもしれませんが、鬱陶しいことこの上ないです。

⑤日本最初の原人の名も教科書から消え去った

港川原人がいないとか書いていますが、筆者が知る限り港川人は原人じゃありませんし、その存在は否定されていません。それはともかく、本当のことが書かれていません。旧石器捏造事件で藤村という人が原人の捏造をし、バレたことが。これは日本考古学界最大の醜聞とされ、2000年の話ですから筆者もよく覚えています。これは日本の恥と言えますが、それが嫌なら原人に触れなければいいのであって、わざわざ新常識とかいう本で「新たなる大発見を期待したいところです」じゃねーよ、わざとやってんのかと言いたくなります。「新たなる大発見」なんて許さねーよ。本を買った時にここは読んでいませんでしたが、これは鎖国無かった論に劣らずムカつきますね。超特大の醜聞に触れた上、新たなる発見に期待するとは、何人が書いたよ?と言いたくなります。

⑥ヤマト政権

大和政権でいいでしょ。どうせ同じなんだから。邪馬台だろうが、倭だろうが、当時の日本人は中国人が使ったイメージの良くない漢字を嫌って、イメージの良い漢字に書き換えた訳です。日本語の読みが重要なのであって、史料の無かった時代もヤマトと呼んでいることに違いはありませんから、表記を一々変える必要もありません。あえて変えるなら倭・大倭が当時の用語だと思いますが、これではワと呼んでしまう人が出てきてしまいます。明らかにヤマトが日本人の自称であり、ヤマトという表記だって当時の表記でないという意味で大和と全く同じです。じゃあ中国を支那と読んでいた時代は支那と呼びかえるのかという話になるでしょう(支那と呼ぶなら全て支那にするのが妥当です)(まあ支那より漢や唐、つまりカラと中国のことを呼んできたと思いますが同じことです。漢も唐もカラだから全部カラに直しますか?)。同じものを一々違う表記にするのが誤りであり、当時無かった表記をわざわざ捏造する必要はありません。

どうでもいいですが、筆者はメモを結構片仮名でとる癖があります。これは漢字を省略するためであり、平仮名よりは片仮名の方が何となく使いやすいからです(平仮名は女手とも言われ柔らかいイメージがあって、無意識に片仮名の方を使ってしまうのでしょう)。そもそも平仮名も片仮名も漢字を崩す過程で生まれたとされます。筆者は崩し字を習っておらず、単に字が汚いことを正当化する意図はありませんが、日本語を楷書で書かないのはわりと伝統的なスタイルだと思います(専門家以外で昔の手紙の類を読める人います?)。意味が分かればいいのであって(時々自分の字が分からなくなりますが)、書道をやっている訳ではありません(勿論字が綺麗なのは良いことです。誤解なきよう)。英語でも筆記体の方が(外国の実情を知らない筆者のイメージですが)寧ろ一般的でしょう?これを全部ブロック体で書けというのが、楷書で全部書けという人達に例えられると思います。いずれにせよ、字が汚い筆者は敗北必至ですが、今の時代で良かったなとは思っています。せめて自分で見るために書いているんだよ!と遠吠えさせてもらいます。筆者の昔のノートを見れば筆記体を使いたがる癖を確認できると思います。

以下続く?

物品税という歴史

2018-05-09 19:08:57 | 日記
物品税(weblio辞書)

>流通用語辞典

>物品税

>間接消費税のひとつであり、主に自動車や貴金属などの高級ぜいたく品を課税対象として、メーカーの出荷時に課税される税金。物品税は所得税などと異なり間接税であるだけに、対象品目を拡大すると大衆課税になりやすい短所を持っている。昭和59年度予算では政府予算の歳入不足を補う目的で、物品税の課税対象が大幅に拡大された。また、物品税はそのまま価格に上乗せされるだけに、消費者には値上げと映り、売行き鈍化の要因ともなる。

自分ぐらいの年代だと消費税をつくるつくらないで揉めた子供の頃にあった訳ですが(この時誰に教えられるでもなく社会党を中心とした消費税反対勢力に違和感を感じて、そのまま自民党支持層になっていったところがあります)、贅沢品にかける税金がかつてはあったんですよね。消費税に賛成したというと、消費課税に賛成なのか左翼なのかと今の子は勘違いするかもしれませんが、全く180度全然違います(白を黒と言い張るぐらいの誤りですが、日本には何故かそういう人がしばしば登場します)。消費税の前に物品税があって物品税が贅沢課税でしたから、消費税創設はそもそも富裕層に対する重税という逆差別を解消する目的があった訳です。ですから、社会党を中心とする勢力が大反対した訳です。左翼はマルクス=レーニン主義の影響を強く受けた人たちで結果の平等を重んじる人達です。筆者は物心ついた時から実力で差が出るのは仕方がない派なので(親がそうだった訳ではなく、何故か最初からそうだった訳です。社会科系統が得意だったからかもしれませんが、これは自分でも良く分かりません)、左右対立があるなら完全に右であった訳です。また左は伝統的に革新を名乗ってきました。これは旧来の保守勢力に対して革命が必要という考え方からです。今では保守の方が通りが良いのか、猫も杓子も保守を名乗りたがりますが、社会党の流れを汲みマルクス=レーニン主義の影響を強く受けた方々は、左であり革新であることを自覚しろ、嘘をつくなと言いたい訳です。自分達が何者であるか隠し嘘をつく姿勢は卑怯そのものだと言えます。労組と自ら組みながら保守と名乗れる国があるとすれば、中国だけではないでしょうか?あの国ではより左が保守を名乗ります。共産党以外存在しないも同然ですが。嘘しか言わないようなあの連中が保守を名乗って捕まらないのですから、日本は言論の自由があると言えます。

話は逸れましたが、消費税は何もないところから出来た訳ではありません。物品税という名の贅沢品だけにかける一種の消費税の代替物として創設された訳です。消費税の創設をもって、日本における消費に対する税制が始まったかのようなことを言う人は、嘘つきであるか勉強不足であると断定して構いません。税金が無ければいいなとは思いますし、他の条件が全くなければ経済はその方が伸びるでしょうが、税率がゼロなら確実に国の収入はゼロで、よって国が何かすることは出来ません。経済発展させようと税金ゼロに日本がしたとすれば自衛隊は廃止になって、きっと明日には外国軍が攻めてくるので、日本という国は消えてなくなるということになります。つまり税金は少ない方がいいでしょうが、無くなることはありません。税金にもいろいろ種類があって議論が存在することは承知していますが、税金そのものを否定する人は日本を転覆させる気なのかなという気がしないでもありません。消費税ゼロなどとのたまう人は、社会保障が伸びる中、膨大に政府の支出が削れると勘違いしているのか(民主党政権の事業仕分けとやらで如何ほど無駄が削れたでしょうか?)、法人税・所得税の激増を企んでいるのか(確か社民党は所得税を上げろと言ってましたし、共産党は内部留保云々で企業に厳しいことを言ってましたから、賛同しませんがその意味で論理は一貫しています)、はたまたテキトーなことを言って日本を路頭に迷わす無能なのかということになります。社会を動かそうという人がいい加減なことを言うのは噴飯モノですが、俗耳に入り易い意見は時に日本を動かしてしまいかねないので要注意です。夢みたいなことを語る法螺吹きを警戒するのが保守派の知恵でしょう。

別に消費税を上げれば万事OKと主張している訳ではありませんよ。消費税ゼロで万事OKというような法螺吹きが鬱陶しいので(確実に存在します。特に消費税上げる話になったら何処からともなく湧いてきます)、ちょっと歴史を語ってみようかと思ったまでです。そういう連中がじゃあ何税をとるのか何の支出が削れるのか語ることはありません。卑怯が服来て歩いているようなものです。筆者は経験上、そういう連中は左翼か左翼同然の保守(元左翼?騙されている?)に違いないと即時に推定し、後者だったら面倒くさいな、やめてくれないかなと思ってしまいます。左翼は左翼どうし仲良く団結してほしいものです。

最低賃金上げは左翼的な政策とは思っていますが、左翼的な政策がひとつあれば左翼では勿論ありませんし、日本経済を復活させていくのに右も左もない訳ですから、左翼的な政策を主張したと認識されるのは構いませんが、その部分のみ取り上げて人が左翼だと断定して言いふらすデマゴギーが存在していて、それに対して当然イライラしているので、こうした記事を書いた次第です。

日本経済を考えていくたたき台

2018-05-09 16:13:13 | 政策関連メモ
日本経済を考えていくためのたたき台記事をつくります。

日本経済があまり伸びていないと指摘されて久しい訳ですが、この原因はもう皆薄々分かっていると思いますが、急激な少子高齢化が原因だと思います。市場が縮小すると皆思っているから、国内消費や投資が抑えられ、デフレ傾向になり、それが更なるデフレを呼ぶ訳です(安倍政権の金融緩和でその流れがストップしています)。

これの対策は消費や投資を増やすしかありません。別に金を配って消費を増やせと主張する訳ではありませんよ。それは持続可能ではありませんし、金が配られることが分かっていたら働かないのが人間です。そんなことで問題が解決するなら、途上国にありがちなポピュリスト政権は大繁栄して、そうした国は先進国になっています(事実は直ぐにハイパーインフレになって国が終わります)。

ひとつには金を持っているが使わない富裕層の消費・投資を増やす必要があります。これはお金自体はあるのですから、サプライサイドの問題です。富裕層がお金を使いたいと思うような対象がないから金が使われない訳で、企業努力等が必要です。インバウンドでも富裕層向けの施設が日本に少ないというのがありましたね(インバウンド獲得も日本での消費を増やす優れた処方箋だと思います)。

もうひとつは消費性向が高いがお金がない低所得者層の所得が伸びれば消費は増えるということになります。具体的には最低賃金の引き上げになります。最低賃金が引き上げられたら、それでやっていけない企業は清算するでしょうし、それでもやっていけるよう企業努力が促され、低いと言われる日本の生産性も上がっていくと思われます。働き方改革も同じですね。労働時間を短くすることで、生産性がない仕事は削られることになります。筆者の見るところ、企業は惰性で仕事をしており、生産性を上げることに本気であるようには思えません。解雇される労働者が出たら、人手不足の業界への人の移動もあるかもしれません(給与を上げてもキツイ仕事が嫌というなら移民でも何でも入れるしかありません)。生活保護よりワーキングプアの方が苦しいという逆転現象も最低賃金の引き上げで(生活保護が据え置かれたら)解決するでしょうし、所得が増えれば家庭でもつくって少子化を解決しようという人も現れるかもしれません。最低賃金の引き上げは世界的には一般的な政策であるようです。少子高齢化の度合いが違うかもしれませんが、ヨーロッパなんかで日本ほど低成長に陥ったという話を聞きません。企業負担はあるかもしれませんが、消費が伸びれば企業は儲かります。得する会社も損する会社もあるかもしれませんが、全体的にはこれはもうやらないと日本経済がどうにもならないところまで来ていると思います。

コンビニなんかはまだ24時間営業をやっていますし投資の余力はあります。コンビニは3強を軸に寡占化が進んでいます。これは群雄割拠し、深夜営業を止めつつあるファミレス業界と対照的です。M&Aもその方が効率的で必要ならば促していかねばなりません。個性的な個人経営の店は好きですが、細かいチェーンが乱立していいことはあまりない状況ではないかと思います。

生産性を上げることは賛成ですが、単に労働時間が減って同じ仕事をしていくだけなら、消費が伸びる要素はあまりありません(有給がまとめてとれれば旅行業界は潤う可能性はあります)。スマホの使用時間は伸びるかもしれませんが。定型的な仕事を機械に任せて、人にしかできない仕事をしていく、新しい仕事をつくっていくということであれば、経済成長に繋がるとは思いますけどね。

今のデフレ状況は消費税が必ずしも原因ではなく(影響はあると思いますが)(消費税が原因であれば、欧州経済はとうの昔に死んでいますが、近年日本より成長していることは事実です)、やはり急激な少子高齢化による市場収縮予測が原因だと思います。これは必ずしも日本終了のお知らせではないと思いますが、やらなけらばならないと分かっていることをやらずにどうにかなる状況ではないというのが筆者の考えです。出生率が減っているという情報を隠すことはできませんし、隠すべきでもなく、これはたちまち解消できる問題ではありませんから、他の手段を持って経済成長させていかねばなりません。日本だけが経済成長を止めたら、いずれは他の国に吞まれて本当に終了する可能性もありますし、国がいずれかの時点で破綻する可能性もあります(借金の額が大きいのですから利払いが増えたら直ぐに終わる可能性があります。緩やかなインフレはこうした問題にも対処できます)。いずれにせよ、日本がデフレ傾向に陥る主因は特異的な急激な少子高齢化が原因と考えられ、政府の財政政策というこれまでの常道で問題が持続的に解決するとは思えないというのが正直なところです。消費税上げもデフレを加速させますから、これも勿論正しい処方箋ではないでしょう。財務省は誰もが知る最強官庁ですが、財務省の言う通りにやって全て上手くいくなら、バブルも崩壊していませんし、低成長が続いたりもしていません。


「加計問題」の本質

2018-05-09 14:56:08 | 政局・政治情勢
これは加計学園どうこうではないですね。加計問題という名称そのものが罠だと思います。

皆さんもご存知の通り、手を挙げたのは加計学園と京都産業大学だけです。そして後から来た京都産業大学は降りているので、誰がどうやっても加計学園以外の選択肢がありません。これで加計学園を選ぶなというのが無理難題です。

そもそも加計学園は何十年もずっと開設がなかった獣医学部新設のため努力し準備が整っていました。安倍首相と友人であることは徹底的に新設を阻止してきた獣医師会と戦うにあたって、加計学園の理事長も心強かったかもしれませんが、民主党政権の頃から獣医学部新設の働きかけはあり、その時決まっていたら「加計問題」はありませんでした。安倍首相は疑われないため、獣医学部新設を止めなければならなかったでしょうか?

京都産業大学は準備が整っていなかったので降りたそうですが、そもそも後から参入しようとしたのですから、準備が整っていなかったも当然かと思います。「加計問題」の本質を考えるなら、加計学園に注目するのではなく、京都産業大学その他に注目するべきでしょう。京都産業大学に過剰な圧力(圧力をかけられたような気がしたなどのフワッとした根拠が不確かな話で当然裁いてはなりません)があったかどうか、その他何処か手を挙げようとした大学に過剰な圧力が無かったかが焦点です。それがあったら安倍首相が加計学園ありきで友人に利益誘導したという話になるかもしれませんし、それが無ければまたしても野党・マスコミの大スキャンダルということになると思います。

加計学園周りを幾ら取材したって、物事の本質からは遠ざかり誤報を繰り返すばかりです。選択肢が加計しかなければ加計を選ぶしかありません。仮に首相が加計学園を選びたいと強く思ったとしても、他に選択肢があれば、加計を選ぶのにそれなりの理由が必要です。今回は理由も何も選んでいないのですから最終的な段階で加計学園に決まったことに首相の意志が働く余地はありません。最終段階に至る前に首相の意志が働いたかどうかが焦点に決まってるじゃないですか。そしてその意志があるかどうかは加計学園を取材して判断できることではなく、京都産業大学その他を取材して判断できるということになります。もう取材しており特に何も無いなら、加計問題は無かったということであり、国会で無駄な時間を浪費するのは止めなければなりません。

加計学園周りを取材して息巻いている野党はワザと空打ちして疑惑を振りまく悪党なのでしょうか?それともただの馬鹿なのでしょうか?解消されない疑惑を追及しまくるなんてワザとやっているならこんな小悪党はおらずクレーマーそのものだと思いますが、今までの野党の体たらくを見るにつけ、ただの馬鹿とも思えますし何とも言えないところです。

ただし、岩盤規制突破の観点からは加計学園や愛媛県・今治市の獣医学部新設の努力は賞賛されるべきものであり、京都産業大学が岩盤規制突破に努力したという話は聞いていないということは付け加えておきます。加計学園は汚職の問題ではないのですから(幾ら取材しても汚職の証拠は出てきていません)(加計学園を取材したのは汚職があったと思っているのでしょうが、大した根拠も無く延々と国会の場で追及することこそ犯罪的であり、魔女狩りそのものです)、獣医学部新設を阻む岩盤規制が是か非かという観点抜きに「加計問題」を語ることはできません。そもそも獣医学部新設を阻んだ文科省・獣医師会は政策的に正しかったのか(正しくないとすれば、問題解決に尽力した加計学園その他に同情的になります)、手続き的に政府や文科省・獣医師会に落ち度は無かったか(ほぼ確実に瑕疵はありません。瑕疵があったら決められませんし、決めたとしても反対した獣医師会が訴訟でも起こせばいいだけです)、選考の過程で加計学園以外を辞退させる圧力があったか(選択肢がないのですから、100%加計を選ぶ圧力はありません)その3つをよく見直してみることですね。どうしてもモヤモヤしてスッキリしないのであれば。