ワニなつノート

あの子が、この子の支えになっている(その2)

あの子が、この子の支えになっている(その2)


「あの子が、この子の支えになっている」
そのことが、私の生き方のスタイル(指針)になってきていたのだと分かって、長年の疑問を解くヒントに気づきました。

疑問とは、ふつう学級と養護学校という、まったく異なる「子どもの居場所」を判断する基準?は何か、ということです。

その人の中に、障害児は障害児のための専門の学校が正しい、と疑いなく考えているなら、それはそれで分かります。

また始めから「できればふつう学級…」という思いがある人が、私たちの相談会に参加して、いろいろな経験談を聞いて「ふつう学級に決めた」というのも分かります。

私が不思議だったのは、「障害児は養護学校に行くものだと思っていた!」という人が、就学相談会などの後に、「ふつう学級に決めました」という時でした。

「ふつうに行けるなんて知らなかった」「ふつうに行ってもいいんですか?」という人も毎年います。

それまで「ふつう学級」を考えていなかった人が、決して低くはないハードル(教育委員会や校長と直接話すこと等)をあっさり(?)飛び越えてしまうのは、どうしてなのか。

私が若いころは、普通学級で一緒にやっていけることをちゃんと伝えることができれば、「親の考えを変えることができる」んじゃないかと思いあがっていました。

でも、10年、20年、30年も同じ話を繰り返しているうち、人は「わが子の幸せや、わが子を守る」ことについて、数時間の話を聞いたくらいで「変わる」わけじゃないと気づきました。


そして、わが子にどんな障害があっても兄妹と同じように、地域の小学校に入学する、という覚悟をするときに、支えになっているのは何か。
それは、その人(親)自身の生きてきた経験の中にある何か、だと思うようになりました。

でも、その何かが、よく分かりませんでした。 

子どもの幸せを心から願うことは同じ。
子どもを守りたいと心から願うことは同じ。

なのに、その子どもを育てていく場所として選ぶところが、障害のない兄妹とはまったく違う場所(私には正反対のように思える場所)を選ぶのはなぜなのか、それが分かりませんでした。

今回、「あの子が、この子の支えになっている」ということを言葉にしてみて、「守り方」の一つが分かりました。

「この子を守る」というとき、「この子」といっしょに、「あの子」もどの子も守られなければいけないということ。

「この子」は目の前にいる。
でも、「あの子」はその人の「経験」のなかなので、外からは分かりません。


「この子を守る」というとき、「この子の思いは、どの辺に?」と思う。

私がどうすることが、「わたしは守られている」とこの子が安心してくれることになるのか。


そのとき、心の中に幾人かの子どもたちの顔がうかぶ。
あー、あの子ときっと同じなんじゃないか。

あの子も同じような苦労を抱えていたけれど、でもあのときあの子はあんなふうに笑ってた。
友だちの中で、人と人とのつながりのなかでうれしそうに笑っていた。

あんなふうに見守れることは、きっとこの子にとってもうれしいことだろうな…。

そんなふうに思い出せる子どもたち一人ひとりの笑顔とことばが、私の守りの支えになっている。


(つづく)
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