ワニなつノート

耳を傾ける場所(2)



子どもは、自分には予想もつかないショックな出来事を
一人で受けとめることはできません。
地震で家族を失った子どもは、
その事態を一人で受けとめることはできません。

整理できない不安や自己否定、言葉にできない苦しみ、
それらを聞いてくれる人がいなければ、
そうした思いは心の奥にしまいこむしかありません。
その隠された悲しみや不安は、怒りの感情に変わることもあります。

そうした子どもの心に寄り添い、
子どもに表現してもらえることではじめて、
私たちは子どもを援助するチャンスを持つことができます。

力の鍵は、こちらではなく、子どもが持っています。

最近は、大地震や子どもが被害にあった事件の後には、
学校にカウンセラーを派遣して、
子どもの心のケアをすることが当たり前になりつつあります。
子どもの心のケアの必要性についての意識は広がってきました。
(心の専門家の問題点はここでは触れません)

しかし、その一方で、それまでの日常生活の場から、
まったく違う場所、それまでとはまったく別の世界に身を置く
子どもたちへの「配慮」はありません。

それが、「特別支援教育」の問題の一つです。

2006年度の全国の盲、ろう、養護学校在籍者は次の通りです。
小学部=32694人
中学部=23621人
高等部=44762人

小学校1年から高校までに、
普通学級から特別支援教育の場に移る子どもたちは、
かなりの数字になります。

この子どもたちの中の、どれだけの子どもが、
本当に自分の意思と自分の選択で、普通学級から他へ移っているでしょうか。

言葉にできない思い、あきらめ、自分への絶望、
本当ならそこで仲良くしたかった場所への憧れ、
子どもの中には、そういった思いがあふれているはずなのです。

その思いを、聞いてくれる人が、
子どもたちのそばにいるでしょうか。

私には、そのことがとても気になります。

たとえば、大地震の被災者であるこれだけの数の子どもたちに、
なんの心のケアもしていないとしたら大問題でしょう。

なぜ、普通学校から、養護学校に移る子どもたちには、
そうしたケアの必要性が言われないのでしょう。

むしろ、その子たちにとっては、
養護学校に行くことが幸せのようにだけ語られるのはなぜでしょう。

その子の本来の居場所は、
特別支援の場だったのだという考えが、学校にはあります。
特別支援教育の人たちにとっては、
もともと「障害」があるのだから、
こっちがその子にあった教育だという意識があります。

それが、障害児の幸せのためだとも言います。
しかし、それは大人の見方、先生の見方にすぎません。

子どもにとって、それは、極端な言い方をすれば、
「大地震」にあうことがこの子の「幸せ」と言われている
ように感じられるでしょう。

少なくとも、本当は普通学級にいたかった子どもはそう感じます。

子どもの立場に立てば、いくら勉強ができないからといって、
いくらみんなにからかわれるからといって、
「子どもにとって当たり前の居場所である」自分の教室、
みんなと一緒に存在する教室から、
たった一人、別の世界の住人になることは、
やはり辛いことです。

不安で、悲しいことです。

その子どもの悲しみや不安に寄り添うことへの必要性の認識が、
学校にはありません。
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