ワニなつノート

介助という言葉で語られる先にあるもの(その2)

介助という言葉で語られる先にあるもの(その2)



《「できるふつう」と「できないふつう」》




「介助される」ことは恥ずかしいと考える人がいる。
「介助される」側になれば卑屈になってしまうと考える人がいる。
そういう文化に育った人は、ふつう学級の介助には向かない。


世の中には、「介助される」名人がいる。
「介助される」のが得意な子もいる。
そのとき、救われるのは介助者の方だ。


    ◇


堂々と無力でいてくれた子どものおかげで、
私はここにいる。


「できないふつう」を安心して生きていてくれた子どものおかげで、
私はここにいる。


人はだれも「できるふつう」と「できないふつう」を生きている。
だから「できないふつう」も「できるふつう」も堂々と生きていいのだと、
私は子どもたちに教わった。



ふつう学級の「介助」は、介助される子ども一人の安心では足りない。
私の手がどう動くのか、私の目が、声が、笑顔が、どんなふうにその子に向けられるのかを、
子どもたちは見ていた。
そのひとつひとつをたしかめながらひろがる、「みんなの安心」があった。
堂々と介助される姿をみることで、周りの子どもたちに伝わる安心があった。


堂々と無力であるものと交わす笑顔の意味を、子どもは知っている。
まなざしで確かめ合う安心と信頼が、子どもにはみえる。
堂々と無力で生きる安心の記憶が、まだ子どもたちの身体にはなじんでいる。
ほんの数年前の赤ちゃんのきおく。
「できるふつう」も「できないふつう」も、子どもたちにはありふれたものだから。


        ◇




「できるふつう」も「できないふつう」も、あふれる笑顔で生きていた彼らのおかげで、私はここにいる。

彼らは、私を助けに来てくれた。

「できないふつう」を堂々と生きる人生があることを私におしえてくれた。

そんなことを思いながら、たっくんやゆうりちゃん、佳ちゃんや竜ちゃん、そして康司の顔が浮かぶのだが、まだうまく言葉にはならない。
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