≪物語としての自立生活ケア≫(2)
『物語としての自立生活ケア』というタイトルは、
小澤勲さんの『物語としての痴呆ケア』のパクリです<(_ _)>
私が今まで「普通学級の中の介助」について考えるとき、
一番参考になったのは、障害児について書かれたものではなく、
介護について書かれたものでした。
今回、「良い支援?」を読んで、
知的障害者の自立生活ケアを考えるときには、
「身体障害者」の人たちが切り開いてきた自立生活と同時に、
「痴呆」介護の中身が参考になるということに改めて気がつきました。
「認知症」と書かずに、「痴呆」と書いたのは、
あくまでも「痴呆」と言われていた時代の
介護の中身が参考になるからです。
「痴呆」の痴は、「白痴・痴偶」の痴です。
「痴」という文字で表された人々は、
「何も分からない」
「自分の意思などない。…そもそも自分がない」
「心も感情もない」ように思われ、扱われてきたのでした。
小澤さんは、『物語としての痴呆ケア』で、
次のように書いています。
☆ ☆ ☆
「痴呆老人からみた世界はどのようなものだろうか。」
「彼らは、何を見、何を思い、どう感じているのだろうか。」
「そして、彼らはどのような不自由を生きているのだろうか。」
このような疑問をもつことは、専門外の人にとっては、
むしろ当然のことと思われるでしょう。
だって、この疑問に答えようとせずにケアが行われているなんて
信じられないことでしょうからね。
しかし、現実は違います。
…彼らの「問題行動」にどう対応すべきかを述べた介護書も
少なからず出版されています。
でも、痴呆を病む人からみた世界を解き明かそうとする論考は
とても少ないのです。
…これは、思うに、痴呆老人は従来、
処遇や研究の対象ではあっても、
主語として自らを表現し、
自らの人生を選択する主体として現れることが
あまりに少なかったという現実が、
このような結果をもたらしのではあるまいか。
それは社会的事態がそうであるというにとどまらず、
治療やケアにおいてもそのような存在としてしか、
私たち臨床家が彼らに対してこなかったということを意味している。
これは明らかに私たち臨床家の誤りである。」
…「痴呆になれば、自分で自分の生き方を選択し、
日々やりたいことをやろうなんてできっこない。無理な願いだ」と
いう決めつけというか、あきらめが覆っているのではないでしょうか
「物語としての痴呆ケア」という言葉には、
これまでのような「外側からの分かり方」ではなく、
「痴呆を病む人の体験をもとにした分かり方をしよう」という
私の気持ちが込められている…。
(つづく)
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