ワニなつノート

他者に依存せずに、まず「いま」を認めること (下)

他者に依存せずに、まず「いま」を認めること (下)

石川憲彦


私がかかわってきた子どもや学生たちに言ってきたのは、
いま生きていることを大切にしたいね、
大事にしようね、ということで、
かたちにこだわるのはやめようということなんです。

いま生きていることが大事で、
その大事さを続けていくことに意味を感じて
ひきこもっているなら、私はそれでいいと思うんですね。

でももっと大事なことがあると思うなら、「いま」の自分から
それがゆっくり広がっていけばればいいと思うんです。

だって「社会とのかかわり」なんていうのは、
いろいろなかたちがあるわけじゃないですか。

たとえば、言葉を発しなくても手紙やメールだってあるし、
修行僧なんていうのは無言でいても瞑想や祈りで
社会にかかわろうとしている。

労働していたり、人々のなかにいることだけを
「社会とのかかわり」というふうに
見てしまうかどうかの問題だと思うんですね。


ひきこもりの人や家族に悩みがあれば、
どこに相談に行ってもいいと思うんです。
そこへ行って、とにかう「助けて!」と叫べばいいんです。
そうすれば、いろいろな手助けする人たちが集まってくる。
それしかないと思います。

それは結局どこへ行こうと、病院には病院の、
「ひきだし屋さん」には「ひきだし屋さん」の論理しかないからです。
ただ病院は、成功例、失敗例を明確にして、
それを医学的な基準に照らして公認されるかどうかで判断している。
失敗のペナルティもある。
医療にはそういうはっきりしたルールがあるんです。

ところが民間の支援団体や親の会、自助グループなどは、
なにを目指しているのかはっきりしていないところが多いですし、
ルールも明確じゃない。

ひきこもりが「治るというのならまず定義を
はっきりさせないといけないはずです。
ところがそれもはっきりさせないで、
「よくなる」とか「治る」とかいうのは、
それはそこの業界内の言葉でしかないんです。
そこが医療との差だと思います。
ただそれをもって、
どっちがいいとかそういう問題じゃない。

だから私は、自分の体質に合うかどうかで
決めればいいと思うんですね。
どんな団体や機関であろうと行ってみて
自分に合っていると思えばそこでいいし、
合わなければほかに行けばいいと思うんです。

人間なんてひと色じゃないから、
医者が合う人もいれば、
「ひきだし屋」さんが合う人もいると思うんです。

ただ、どこへ行くにしても大切なのは、
こっちがなにをしたら、どうしてくれるのか、
きっちり話し合って詰めるべきだと思います。
たとえば、「ひきだし屋さん」だったら
何%の確率で家からひきだして、
できなかったどう責任をとってくれるのかというように。
親がはっきりさせるとともに、
当人がはっきりさせる必要があると思うんですよ。

むしろ危険だと思うのは、
「○○に行ってうまくいった」とか、
「うまくいかなかった」などと、
最初から相手に依存してしまっている状態ですね。

そもそも親の会や自助グループは
自分たちで問題を切り開こうという集まりなんですから、
依存するものじゃないでしょ。

どこにすがるではなくて、
とりあえず「いま」の状態を認めていく。

つまり「いま」を認めないかぎり、
「次ぎ」を認めていくのは難しいと思うんです。

どんなに危機的な状況でも、
「いま」を認めることからはじめる。

だって、死ぬことを考えたら、
まだ「いま」のほうがいいでしょう。

そうやって、「いま」を認めたうえで、
でもこんなこともあるから、
あんなこともできるかなと
少しずつ可能性を広げていくことでしかないと思うんですよ。



『ひきこもり支援ガイド』晶文社より
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「石川憲彦」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事