「障害児が普通学級に行くと、自分だけできないことで自信をなくし、自己肯定感が育ちませんよ…。自分だけ点数が取れないと自信を失くし、自尊感情が持てなくなりますよ…」
この言葉を聞いて、私の気持ちが揺れることはありません。
「普通学級で共に学ぶ」を経験した多くの親も、その言葉が真実でないことを知っています。
私たちのなかに、「障害」のあるままで自信を持って生きる子どもの日常、子どもの表情や笑顔を、子どもの隣で感じてきた日々があるからです。
◇
その言葉で不安な気持ちにさせられるとしたら、それはどうしてでしょう?
一つは、その言葉が「脅し」として使われているからです。
子どものころ、学校で「できない」ことに不安に感じたり、先生に怒られ自信をなくした経験がある人は多いでしょう。
…学校の先生が、「できない子」を大事にするところなんて見たことがない。
…「できない子」は先生に怒られ、恥をかかされ、ときに体罰さえ珍しくない。
…学校とはそういうところだとしたら、障害のあるわが子が、苦しい体験だけを繰り返し、自信をなくしてしまうだけなんじゃないか。
そんな学校で自分を肯定することなどできないんじゃないか…。
そう考えてしまうのは自然なことかもしれません。
そのとき、最初の言葉はこんなふうに聞こえてきます。
「普通学級は、勉強ができなければいけない所です。
できない子どもを「評価」する先生などいません。
だから、普通学級に行くと、高い自己評価は育ちません。
勉強ができない子どもを「尊重」する先生などいません。
だから、普通学級に行くと、自尊感情が持てなくなりますよ」
それが「脅し」だと分かってもなお不安がぬぐえないのは、実際その言葉の通りの「先生」が大勢いるのを知っているからです。
勉強ができない子、作業が遅い子、先生の言うことを聞かない子が大嫌いな先生を、私たちは体験上よーく知っています。
確かに、学校の先生が一人残らずそんな人ばかりだったら、子どもたちは(障害の有無に関係なく)学校生活を楽しめないでしょう。
でも、そうじゃない先生もいることを私たちは知っています。
勉強ができる・できないに関係なく、子どもを大事にしてくれる先生。
ただ子どもたちと一緒に過ごすことが好きな先生。
勉強だけでなく、子どもたちに、やさしさや命の大切さ、生きる喜び、自分の夢をもつこと、友だちや仲間を大切にすること、そうしたことを子どもたちに伝えたいと願っている先生もまたたくさんいます。
私たちの学校体験のなかには、勉強以外のかけがえのない大切なものをそこで手に入れた実感があります。
それは、一人一人違うものかもしれません。
友だちだったり、部活だったり、影響を受けた先生だったり。
良くも悪くも、自分の人生から小中高校で過ごした時間とそこで手にしたものをなしにはできません。
そして、そこに「信頼」があるからこそ、自分と同じように子どもを学校に通わせるのです。
子どもに障害があるから、その「信頼」がなくなるとしたら、それは子どもの「障害」のせいではなく、その人の「学校体験への信頼」と、現実の「学校=教師への信頼」の問題でしょう。
◇
「できない子どもを「評価」する先生などいません。
だから、普通学級に行くと、高い自己評価は育ちません。
勉強ができない子どもを「尊重」する先生などいません。
だから、普通学級に行くと、自尊感情が持てなくなりますよ」
この言葉を信じるということは、学校の先生など信頼できない、ということです。
「障害」とは違う話です。
もし本当にそんな先生しかいないとしたら、子どもが勉強できる子だとしても、私は学校に行かせたいとは思いません。
世の中には、自分とは違ういろんな人間がいること。
違う顔、違う考え、違う個性、違う国、違う宗教、違う肌や目の色、違うセクシャリティ、違う文化、違う言葉、違う生き方、違う価値、そうした違いを含めて共に生きる仲間の一員として成長する子ども同士の生活と学びの場として、学校はあると私は思っています。
◇
それともう一つ。
最初の言葉を使う人や、その言葉に惑わされる人は、「自己評価の高さ」と「自己肯定」を同じものと間違えているのかもしれません。
勉強ができなければ「評価」は低い。
成績がオール1では「自己肯定」はできない。
つまり、「自己肯定」のためには、高い「自己評価」が必要だと考えているのかもしれません。
でも、「自己肯定」について、芹沢俊介さんは次のように書いています。
「自己肯定は、自分をほめることでも、自分に満足することでもない。
どんな自分であってもそれが『いま』の自分であると受けとめること、等身大の自分のまるごとを受けとめる、そうした自己受けとめを指して、自己肯定だと理解しようとしてきた。
自己受けとめの力は、受けとめられ体験がなければ作られることはない。」
「自分にだけできないことがある」という体験が、子どもの自己受けとめを損ねるのではありません。
「できない」自分を憐れまれ、所属を奪われ、分けられることこそが、子どもの「自己肯定」を奪うことにつながります。
自分はみんなと同じこの学校の一人、このクラスの一人であると「体感」すること。
たとえ、自分にだけできない場面があっても、みんなと同じように一人の子どもとして大切にされ、受けとめられ体験こそが、子どもの「自己肯定感」を育てます。
そして、「先生」や大人から「受けとめられる」ことも大切な「受けとめられ体験」ですが、子どもにとってもっと豊かな「受けとめられ体験」は同じクラス、同じ学校の子ども同士の「受けとめあい体験」です。
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