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子どもの成長や生き方、自立のために、大人として、何らかの援助をしようするとき、私たちはまず、目の前のひとりの子どもについて理解しなければならない。
それは、その子の障害・病気であったり、虐待であったり、国籍であったり、不登校であったり、非行であったり、恋愛であったりという、その子だけのものがたりのことでもあるのだろう。
私が今までに主に出会ってきたのは、障害のある子や、家族と離れて暮らす子どもだったが、相手を理解しようとする姿勢なしに、子どもが安心して生活できる信頼関係が成り立たないのは、障害のある子の場合でも、家族を失った子の場合でも同じである。
それは、普通学級を拒まれる子ども、様々な理由で不登校を生きている子ども、家族をなくして一人で生きている子ども、それは学校や家族、仲間から疎外されて生きる経験として、理解されたことのない子ども体験をしてきた子どもである。
理解されたことのない子、気持ちを受けとめてもらえたことのない子、大人に対して沈黙するしかなかった子どもは少なくない。
この人は敵じゃないと思えば、過剰に守るエネルギーだけを生きることに費やさずにすむ。
自分のことを分かってくれると感じ、ここは安心できると感じられれば、その子は、大人であれ、仲間の子どもであれ、その場所(学校や、施設)に好意を抱くことができる。
子どもを理解するためには、大人の常識を捨て、他の子どもたちとの比較の視点も傍らに置き、まず目の前の子どもの側に立って、その子自身を、そしてその子の見てきた「世界」をみる必要がある。
子どもの理解、子どもとのつながりは、そこから生まれてくる。
年齢や能力、現実の利害、および自己主張は、その後のことである。
順序は子どもの理解、相互関係や環境の考察、大人の主張の順であって、逆ではない。
またひとりの子どもとの出会いと理解とつながりは、教育や援助のためや相互の関係を良くするための方法であるだけでなく、私たちの生きている喜びそのものでもある。
一人ひとり違う多くの子どもと出会い、そのひとりひとりの人生と関わることこそ楽しい。
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その楽しい暮らしを、たった半年でもともにした子がいなくなると、太陽がひとつ消えた気がする……。
昨日から、ひとつ太陽が足りない。
※「ロシア・ナショナリズムといかに付き合うか・・・エストニアから」
(『国家に病む人びと』所収 野田正彰著・中央公論社 )