ワニなつノート

「まるごとの生活」の時間

《子どもが生きている「まるごとの生活」の時間》



《授業①》
むかし、「授業という生活」についてよく考えました。
そこで、授業を「教育」の方法、形態とだけ見ると、「分からない授業はかわいそう」という言い方がもっともらしく聞こえるのだと気づきました。

でも、子どもの「まるごとの生活」から見れば、「学校という生活」、「授業という生活」の実感というものが確かにあり、子どもによっては、授業の中身以上に、豊かな中身を得られることがあります。
この社会であたりまえに生きていく実感と「ここで自分が自分であることの自信」を手に入れることができます。

帰国子女といわれる子たちが、「なじめない」感じを抱くのは、社会生活よりも「学校生活」であることはよく知られています。そこには、良い悪いとは別に、子ども時代の共通体験に係るものが、授業という生活にはあることを表わしています。
その「生活」に慣れることができるかどうか。その「生活」を、自分の生活全体に受けとめることができるかどうか。
そのことが気にならない子もいれば、重荷に感じる子もいます。



《労働①》
今朝、ふと思ったのは、「労働という生活」という言葉でした。
もう二年近く一緒に暮らしてる子が、なかなか仕事に就けずにいます。

二十歳までに、「仕事をして貯金をして、一人暮らし」を目指している、はずなのに、週に数時間のアルバイトも続かない…。
派遣の仕事を数日こなしたこともあるので、始めての現場での作業もちゃんとできる子ではあるのです。

出会ったときはまだ十五だったけど、もうすぐ十八になる。いいかげん、短時間のバイトくらい続けられなきゃ…、と思ったりします。


でも、ふと思ったのです。

「働く」という作業ができないのではない。「働く」ことが日常の中に組み込まれた「生活」を受けとめることができないでいるんじゃないかと。

一日3時間作業をこなす、ということとは別の「意味」が、その子にはのしかかっているのかもしれない。

それは、自分の人生に「労働という生活」が当たり前であることを受けとめる、ことです。
「一人で働いて生きていく生活」への覚悟につながるものです。

でもその子が、幼いころから家庭の中に安心できる「子どもという生活」が満たされたことがなかったとしたら…。
たとえば、家族の団欒から弾かれ、一人でトイレで食事を食べなければならない生活だったら…。たとえば、朝目覚めたら、家族全員がディズニーランドに出かけた後でひとり置いていかれる生活だとしたら…。

その子は、どこで「この社会であたりまえに生きていく実感」を手に入れることができるだろう。

「ここで自分が自分であることの自信」を、どこで手に入れることができるだろう。

子どもであることを安心して味わう時間、
そうした子ども時代の時間がなければ、
「大人」として、「一人で働いて生きていく生活」への覚悟をもつことはとても難しいことなのかもしれない。



《授業②》
そんなことを考えているとき、「授業という生活」という言葉を改めて思い出しました。

仮に、授業の中身が分からないとしても、そのことも含めて「授業」というものが日常のなかに組み込まれた生活を、自分の生きる生活として引き受けていく、ということは、とても大事なことなんじゃないだろうか。

それは、「障害」の話ではなく、私たち自身が暮らしてきた「授業という生活」の在りようでもあります。

授業のなかに、つまり生活の中に、「よくわからないこと」があるとして、それでも「自分がその場の一員である確かさ」、「クラスの一員」として扱われる確かさ、子どもとしてそこにいる確かさ、といったものがあります。


自分の生活の中に、「授業という生活」を含みこむこと。
そこには、一時間の授業の内容を理解できるかとは、別の意味があります。
「算数」とか「国語」という教科の意味と同時に、そこには、「同じ子どもとして一緒に生活する時間」の積み重ね、という子どもの人生の時間があります。


たとえば、私が気にしているその子は、学校には友だちもいて居場所がありました。だから、今も高校(定時制)にはなんとか通い続けています。
もし、この子がはじめから「授業という生活」の体験も奪われていたとしたら、「労働という生活」以前に、いま通っている定時制高校の「生活」もなかったでしょう。


社会の中で、学校の中で、家庭の中で、当たり前のこととして保障されている「生活」の中身が奪われている子どもにとっての「生きづらさ」の中身を、私たちはもっと丁寧に確かめる必要があります。

ほとんどの人たちが保障されていたもの、当たり前だった「生活」そのものから、何を得ていたのかを、私たちは当たり前すぎて意識もできていません。
だから、「ひらがな」が読めるか、授業に「ついていけるか」ということが最も重要だと思い込んでいるのでしょう。


でも、その「できる」以前に、その「できる」を支えている「生活の基盤」「生活の実感」というものが確かにあります。

それは、「できる」ことと同じように、いえそれ以上に大切に守り育てられるべきものだと思います。




(初めて考えたことなので、まとまりませんが、とりあえずここに置きます。
整理できたら、また書いてみます。)
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