旭川・報告③
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「幼稚園からいっしょだった」 それが言葉だけなら、私はこれを書いていないだろう。言葉が本当か嘘かは分かりようもない。
でも目の前で「彼らが居ることのつながり」のなかに、共有されている何かが確かにみえる、そんな気がした。さて、私の目は「何」をみてきたのだろう?
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自分の見たものが何かを探るために、自分の中の「同じ」場面を探ってみる。すると、いくつかの場面が沸き上がる。
大学卒業後に務めた、幼児教室の記憶。4歳児のクラスでの、30人の子どもたちの姿。でも、私が思い出せるのは、当時、4歳、7歳の小さな子どもの顔だ。旭川で見た、19、20歳の姿とは重ならない。40年前、一緒に過ごした「4歳児クラスの子どもたち」と、数日前の「二十歳の若者たち」の何が「重なる」のだろう?
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ついでに言えば、私自身、幼稚園から一緒だった仲間6人と会ったばかりだった。中学卒業50年の同級会の打ち合わせだった。それでよけいに、年月を超えても、身体の中に残っている「変わらないもの」が何かと考えてしまうのかもしれない。
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4歳と、20歳と、65歳。年齢も外見も、時代も違う。
でも、身体の中に、幼いころの「つながりの安全領域」を共有している感覚が確かにある。
そのとき、その場に居た者たちだけが共有している、「わたしたちはおなじ子ども」というつながりの感覚の根。身体に年輪のように刻まれている共通のつながりがある。
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でも、私たちはそれを見る手立て、確かめる手立てを持ってはいない。だから、子どもを分けることに歯止めがかからない。
「個別最適の学び」とは、一生を通じて変わらない「つながりの安全」にとっては、「孤立透明への学び」でしかないのだと思う。