ワニなつノート

コータ (踏みとどまること)




「みんなの迷惑」
「ここからいなくなればいい」

言うことを聞かない、嫌いな相手に対して、
自分の中から湧いてくる、そういう思いに流されず、踏みとどまること。
定時制高校での経験がなかったら、私はコータと出会えなかったと思う。

人は、自分に「受けとめる力がない」ということを認めるのは難しい。
相手が大嫌いで認めたくない子であれば、なおさらのこと。
自分の問題を認めてしまったら、「負けた」ような気がする。
子どもにちゃんと「対応できない自分の無力さ」も認めたくはない。

だから、理屈をつける。
「ちゃんと真面目にやっている先生」が、
「非行・不良・できの悪い生徒」に「負ける」などということが
あっていい訳がない。
私は悪くない。悪いのはあいつだ。私は正しい。

そう思っても、どこかすっきりしない。
教師の言うことを聞かないこと、
自分の思い通りにさせられないことを許せない気持ちがあるから、
自分が正しいと思うだけでは足りない。

「イヤならイヤ」、「キライならキライ」と認めてしまえば、
次の展開もあるのだが、
自分の感情を感じることが苦手な人には、難しいことなんだろう。
そもそも「感情」は、「理性」より下だと思っている大人は多い。

そこで、自分を守るための理屈を考える。
すぐに「他の子を守るため」という大義名分が浮かぶ。
多くの罪もないよい子たちを守るために、
止むを得ず、一人の生徒を「処分」する、
いかにも自分が「子ども思いの人間」であると、
自分に思い込ませるためのストーリーを考える。

この自分と周囲への「言い訳」のストーリーは、
相手が「障害児」の場合も、「非行の生徒」の場合も、
驚くほど似ている。

そして、こうした「問題児」を排除する論理は、
高校でも中学でも小学校でも、そして児童相談所でも、
どこでも同じだった。

定時制高校にいる時、私を踏みとどまらせてくれたもの。
それは、障害をもつ子どもたちとのつきあいがあったからだ。

障害をもつ生徒に関しては、「面倒くさい」と思うことはあっても、
「辞めさせたい」とか「いなくなればいいのに」と思ったことはなかった。

だから、いろんな理屈をつけて、
障害児を追い出そうとする教師の態度や言葉を聞くと、
なんであんなに了見が狭いんだろう、
あんな教師にだけはなりたくない、と思った。

障害児を差別していることに気付かず、
いかにも障害児の幸せのためとか、他の子どものためとか、
口先だけで言う教師にだけはなりたくないと思った。

「障害児のため」や「他の子どもたちのため」は、明らかにうそだった。
定時制高校や、生徒が嫌いな教師もいっぱいいた。
それなのに、平気で心にもない嘘を並べる。
そんな人間にだけはなりたくない。
そう思っていた。

17年間に、二人だけ
「こいつだけは辞めさせればいいのに」と思う生徒がいた。
そう思うときは、頭の中で、いくつも悪行、罪状を読み上げ、
「こいつは許せない」と憤っていた。

そんなとき、ふと、気付く。
「こいつさえいなければ」と思う自分は、さまざまな理屈をつけて、
障害をもつ子どもたちを追い出そうとする人たちと同じだと。

そこに踏みとどまると、
相手の問題だけに振り回されていた自分に気づきはじめる。
そして、いらだっている自分、無力な自分を認めろと迫られている自分。
どうにもできない不安と苛立ちを抱えた自分の中の「小さな子ども」に気づく。

すると、すべてを相手のせいにしてしまうことが、できなくなる。

そうかといって、いい解決策が見つかるわけでもない。
でも、踏みとどまり、時間がすぎる中で、関係は変わる。

たいがいは、少しましな方へ。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「受けとめられ体験について」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事