ワニなつノート

こだわりの溶ける時間 2018 (その5)



こだわりの溶ける時間 2018 (その5)


C《サバンナのヒョウと炭鉱のカナリア》




ガサガサっと音のする方向にヒョウの姿が見える…。

「どうしたの?」と声がする。振り向くと見知らぬ人がいる。

「助けて」が声にならない。
この状況をどこからどんなふうに説明できるのか分からない。

「落ち着きなさい」とその人は言う。でも今は一刻を争う。

さて、あなたは、その見知らぬ人に説明を続けるだろうか? 

それとも必死で近くの木の上によじ登るだろうか。


     ◇


「ここはサバンナじゃない。教室から逃げるのをほめる訳にはいかない」
多くの人はそう言うだろう。

でも、自分のありのままの感じ方、怖れや不安への感覚は一人一人違う。
そこからの逃げ方、守り方もまたひとりひとり違う。

はじめは「自分のやり方」で自分を守る行動しか知らない。

それを「成功体験」として感じることが、安心と自信につながる。


だから、みんなが誉めなくてもいいけれど、ときに見逃し、見守ってくれる人がいると救われる。

「どうして逃げ出すのか、パニックになるのか」、今は分からないけれど、この子には何か理由があるのだろう」と感じてくれる人がいるとほっとする。

「この子がこんなに必死に生きているのだから、きっと何かがある」のだと、受け止めてくれる人の存在は、クラスみんなの安心にもつながる。


そこが、サバンナでもなく、有毒ガスの発生する炭鉱でもないことを、人とのつながりによって感じることで、こだわりも溶けていく。

自分を認めてくれる人がいることで、「こだわり」といわれる「その子の守り方」も変化する。

自分の感情を感じ、穏やかに折り合いをつけることができるようになる。

その時間を、「こだわりの溶ける時間」という。


         ◇

45分の話に戻せば、子どもたちがみんな「心からの安心と信頼」があるから、「座っている」のではない。「力で1年生の教室を支配する先生」もいる。暴力や暴言を吐く先生もいる。

それでも、子どもたちは45分座っている。

自分が感じる怖れより、「先生の言うことを聞きなさい」という親や、社会の「教え」を守ろうとがんばっているからだ。その必死ながんばりが、指導死やいじめからの自殺につながることもある。


それを考えれば、自分の不安や怖れのままに、教室から逃げ出す子どもがいることは、とても大切なこと。

ふつう学級で、障害のある子の大胆な行動に、子どもたちが素直に「感心する」ことがある。

その率直さ、そのおおらかさ、先生に怒られることとかやっちゃいけないことを、堂々とやってしまう潔さ(空気の読めなさ、読まなさともいう)。

それは、すでに分別の育った子たちにとって、ちょっとした畏敬とあこがれの対象になる。

なにより、それをおおらかに受け止める先生(大人)に出会うことは、「ほら、ぼくはうまく逃げ出せたでしょう」という受けとめられ体験をみんなで共有することにもなる。


学校や社会は、「一人ができる」がすべてじゃない。自分ができないことを、誰かが見せてくれる。誰かがどこかで支えてくれている。

スポーツでも音楽でもマジックやお笑いでも、「できる人」と「応援する人」がそれぞれの「できる姿」を認め合う世界が、私たちの人生を豊かにしてくれる。


卒業のとき、あるいは学年の最後に、クラスで一人一人ががんばったことを表彰されることがある。障害のある子が、「みんなを笑顔にしたで賞」などを贈られることもある。

その同級生の身体感覚は、共に過ごした者同士にしか分からない。


炭鉱のカナリアは有毒なガスに敏感で危険を知らせる役割をもつ。

学校の空気を疑える子は、自分を押さえつける危険に敏感で、みんなに「自分の感情に嘘をつかなくていい」と教えてくれる。

カナリアというより、九官鳥かガチョウが騒いでいるように聞こえるかもしれないが( ˘ω˘)
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