「障害児教育」が、この先、「当事者主体の教育の場として学校」の意味に、「障害児教育」に関わる人たちが気づく日はくるだろうか?
そのためには、「障害児教育」に代わる言葉が、普通に使われるようにならなければならないと思うのだけれど。
べてるの向谷地さんは、次のように書いています。
【リハビリテーションプログラムへの当事者参加が促進された背景には、何よりも
「“囲”学=囲い込みの医学」
「“管”護=管理の看護」
「“服”祉=服従の福祉」という
自らの置かれた状況に対する反省と改善に向けた努力が必要不可欠であった。(※1)】
障害児の学校「生活」の意味を考える上でのこうした「議論」や「反省」は聞いたことがありません。
インクルージョン、インクルーシヴ教育という言葉で語られている言葉も、私にはピンときません。
そういう言葉のなかに、「0点でも高校へ」が含まれていないように思うのです。
私にとって、一つの確実な基準は、「0点でも高校へ」です。
そもそも「障害児教育=特殊教育」は、「教育不可能」とか「普通教育」の邪魔にならないようにと、恩恵や哀れみとして進められてきました。
1961年、文部省発行の「わが国の特殊教育」には、次のように書かれています。
【 第1章 特殊教育の使命】
「・・・この、五十人の普通の学級の中に、強度の弱視や難聴や、さらに精神薄弱や肢体不自由の児童・生徒が交わり合って編入されているとしたら、はたして一人の教師によるじゅうぶんな指導が行われ得るものでしょうか。
特殊な児童・生徒に対してはもちろん、学級内で大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません。
五十人の普通学級の学級運営を、できるだけ完全に行うためにもその中から、例外的な心身の故障者は除いて、これらとは別に、それぞれの故障に応じた適切な教育を行う場所を用意する必要があるのです。
特殊教育の学校や学級が整備され、例外的な児童・生徒の受け入れ体制が整えば、それだけ、小学校や中学校の、普通学級における教師の指導が容易になり、教育の効果があがるようになるのです。」
それ以前、普通学級のなかで、障害のある子どもへの教育支援や配慮のまったくない状況の中で、「障害のない子どもたち」の教育効果と、手のかかる子どもを持て余している教師や、親の安心という付託を受け、長きにわたって、特殊学級・養護学校は、障害児のあらゆる生活の局面を把握し、かかわり、「援助」するという、「障害児者の監督者=専門家」の役割を肥大させてきました。
障害のある子を、早期発見し、療育し、個別に丁寧に、その子にあった教育をするという言葉で、障害児を保護・管理する役割を、特殊教育(特別支援教育)は担ってきました。
そこで、起こっていたのは、「過剰な分離、過剰な治療、過剰な援助」の常態化といえるものでした。
その結果、子ども自身の持っている力を無視した代理行為が蔓延し、みんなの中で生きる力を奪ってきました。
みんなの中で生きる力を奪われた障害児は、退行した行動や表現で、「みんなと同じ子どもでありたい」という気持ちを表すことで、さらに過剰な管理と保護を誘発するという悪循環の中で、「みんなとおなじ子ども」だという自覚をなくし、意欲をなくし、長い間、それを「障害児の障害の重さ」と理解されてきました。
「みんなといっしょのわたし、という存在」
ただそれだけの「希望」さえ、誰も味方してもらえない子ども。
親からも、兄弟からも、学校の先生や医師も、誰もそのことにだけは味方してもらえない子ども。
その子が、将来、「みんなといっしょの社会で、共に生きる自分の姿、みんなが受け入れてくれる自分の姿に、希望を持てるだろうか。
その希望のない仕組みを作っているのは、子どもひとりの「障害」などではありませんでした。
希望のない現状を作っているのは、私たちの社会です。
そのことを直視し、学校の先生や、特別支援教育の関わる人々や、親たちが、誰一人例外なく見捨てない「わたしたちの社会」を、希望する、という、私たち自身が「希望」を取り戻すことが、必要なのだと思います。
そのためには、障害の種類とか重い・軽いという区別をこえて、ただ「子ども」と「子ども」、「おとな」と「子ども」、「にんげんと」「にんげん」という対等性に立ち返ることです。
次にあげる4項目は、「精神障害リバビリテーション」に必要なものとしてあげられているものです。(※2)
①人間関係への参加が自尊心を促進すること。
②適切なカミング・アウトが他者への援助を求めていくことを可能にし、孤独を取り除くこと。
③当事者自身が他者の回復(癒し)に貢献する力を持っている、ということの経験をうながすこと。
④そのためには、日常的に病気・薬物療法・対処技法・社会資源に関する情報に触れる場が用意されていること。
この①は、小学校に入る前の子どもたちが、「無理して普通学級に入っても、自信をなくしますよ。自尊感情が育ちませんよ」と言われることと正反対の言葉です。
統合失調症などの精神障害で苦しんだ人たちは、人との関係が壊れるなかでもっとも苦しんできた人たちです。その人たちにとって「自尊心を取り戻す」一番の鍵が「人間関係への参加」なのです。
6歳の子どもから、「同じ一年生の生活の場である、普通学級」への参加を奪うことが、いかに残酷で、「自尊心」を失わせることになっているかが、分かります。
「適切なカミングアウト…」とは、障害のあることは恥ずかしいことではないと、隠さずオープンにすることで、「手をかり、知恵をかりること」、「手をかし、知恵を出し合い生きること」そのものを、子どもたちに伝えることになります。
私がこの三十年の間に、目にし、耳にしてきた「共に生きる教育の実践」や、「子ども同士の関係」は、ここに書かれていることとそっくり重なります。
統合失調症やうつで孤独に囚われていく人たちを、援助するための必要なものに真摯に耳を傾ければ、障害のある子どもたちが、障害のあるままの人生を生きていくために、私たちが何を大事にしなければならないかが分かります。
何より、この子がさびしくないように。そのためには、「治す」「できる」を増やす、ということとは別の、子どもの存在を、希望として語れる私たち自身のあり方が問われているのだと思います。
(※1&※2 『統合失調症を持つ人への援助論』向谷地生良 金剛出版 )
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