《「安全」は、言語ではなく「非言語的なやりとり」を通じて生み出される》
ふつう学級に「いるだけでいいのか」と言われ、「いるだけでいい」と開き直れた根拠がここにある。
安全が『言語ではなく非言語的なやりとりを通じて生み出される』なら、言葉が話せなくてもひらがなが読めなくても、「重度と言われる子ほど、ふつう学級がいい」と感じるのは自然なことだった。
自分が「いない」所に安全を見つけることは、誰にもできない。
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《安全は心臓で感じる。また、呼吸を通して肺でも感じることができる》
これを読んでゆきみちゃんの言葉を思い出した。彼女は「一年生の間にできるようになったこと」を聞かれ、「わたしはいきができる」と書いた。
自力呼吸が「できない」から人口呼吸器を使っていたのだが、それでも「安全を感じながら息ができる」ようになったのは、「一年生のみんなとのつながりの安全」を感じたからだったと、彼女は言っていたのだ。
彼女が教えてくれたのは、「子どもを分けない」安全の根底にあるメカニズムだった。
「いること」の「安全」は、言語ではなく「非言語的なやりとり」を通じて生み出される。
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私たちは長い間、「重度と言われる子ほど、ふつう学級がいい」という体験を重ねてきたが、うまく伝えることができなかった。それは「教育」の言葉で話していたからだと思うようになった。
私たちが「ふつう学級」から学んだのは、「教育」よりも、すべての子に「安全の神経基盤」を提供することだった。「安全なつながり」がくり返される日々。仲間と「自律神経の状態」を調整しあう体験。
そういう身体を使っての学びは、すべての子どもが「非言語的なやりとり」で行っていることだった。