ワニなつノート

「特別支援教育」という残酷な制度(その3)

「特別支援教育」という残酷な制度(その3)


前回の作文を紹介するために、小夜さんの「一緒がいいならなぜ分けた」を久しぶりに開いてみました。

その中の「障害児狩りは続く」という一節を紹介します。
1978年、今から35年も前の話です。

            ◇


養護学校義務化を機に、地域の学校から障害児の一掃をねらっていた人びとは、大わらわで対策をねった。

1978年、4月半ばすぎのことであった。
友人である小学校の教師が一冊のパンフをもってきた。

『普通学級における重度心身障害児の調査』というタイトルで、内容は障害児が普通学級にいるとどう迷惑か、というものであった。
発行者は東京都公立学校長会。

校長自身によって1976年、77年に行った調査をまとめたもので、本来平教員に、まして私たちなどには絶対見せたくなかったであろうが、たまたまその学校の校長が新任で、事情を知らないうえ、障害児のことなど自分の仕事ではないと思っていたらしく、無造作に教育相談の係である彼女の机の上に置いたと言う。

事実、私どもの仲間の教師たちは、パンフを見ることはおろか、このような調査が行われていることにさえ誰一人気づいていなかった。

…内容を紹介すると、調査は「最近の全都的な傾向として、普通学級に重度心身障害児の就学が著しく増加し、学校経営や学級経営に困難な問題を生じているという現状認識に立ち、普通学級に入級している重度心身障害児について、どのような点で特に困難を感じているかを中心にして、その具体的な事例を記入していただき適正就学のための一助にしたい」という目的で行われた。

……これが校長という人の言葉かと疑いたくなるような非教育的な言辞でつづられている。
例をあげると、

◇ S区 男 三年
教科指導はほとんど成立せず、指導要録には5段階「1」と処理されているが、学力は2、3歳程度。

◇ M市 女 二年
家庭の協力が唯一の頼りになるのに、親の構えが悪く、ずいぶん損をした。

◇ S区 女 三年
終始、親切と称して該児の世話を強要される子どもたち自身の学習受益権は、どう保障されるのか、父母の怒りは爆発寸前。

◇ A区 男 一年
小一としてものの善悪の判断が著しく劣る。もちろん学習する状態ではない。

◇ H市 男 二年
母親が普通学級入学をゆずらず、次の条件つきで入学させることにする。
 1.親が毎日付き添う
 2.不測の事態には引き取る
 3.必要に応じて通院する。
 4.一年後就学相談を受ける。
 5.学校に協力する。
 6.同学級の子どもの指導の優先をはかる。

といった調子である。

そして結果の考察として、常に爆弾をかかえているようなものだと言い、課題として、普通学級にいることは障害児にとっても学校にとってもマイナスであるからとして、さらなる養護学校の増設を訴えている。


(「一緒がいいならなぜ分けた」北村小夜 現代書館)

           ◇


35年前、校長だった人の半分くらいは、もう亡くなっているのかもしれません。
いま、校長になっている人たちは、当時、高校生か大学生だったでしょう。

ずいぶん世代交代はしたはずなのに、「校長」になる人の品性は、いまもなんら変わらないように思います。

なぜなら、ここに書かれている内容と同じことを、私もこの30年間、毎年、毎年、聞いてきたからです。

「さらなる養護学校の増設を訴えている」状況もまったく変わらず、10年後に向けて、生まれくる前の命までも、分けよう、分けようと待ち構えているのです。

こうした事態は、真剣に障害のある子どもの教育に関わっている特別支援学校の先生たちにとっても、不幸なこと、不本意なことだと私には思えるのですが、そうした声はほとんど聞こえてきません。

多くの校長や先生たち、そして教育行政に携わる人たちに、分けられたくないと願う「障害児」の言葉が聞き取られないのはなぜなのか。

そう考える時、いつも思い出すのは、ある人類学者の話です。
もう何回も紹介していますが、やはりここに置きます。

            ◇

【ある人類学者が、たった一人で離れ小島にあがって住み、そこの人たちの習慣を研究しようとしたが、数カ月たっても、どうしてもそこの人たちに、自分の言葉を分からせることができなかったという。

それは、その島の住民が、流れ着いた学者を、自分たちと同じ人間だと考えなかったことが原因だった。

人間でないものが、どんなふうな音を出そうと、その音の意味を解き明かそうと、まじめに考える人は少ない。

その反対に、相手を同じ人間だと考えるところからは、なんとかして、自分の身にひきくらべて、相手の身振りの意味を考えてゆくから、お互いの言葉など全然知らないなりに、言葉は通じてゆくものなのだ。】


(『ひとが生まれる』鶴見俊輔著  筑摩書房 )

           ◇


あるいは、このブログのテーマも、答えの一つなのでしょう。


子どもの屈辱をわかってやる感覚が、私たちにはまだ備わっていません。
子どもを尊重しその傷ついた心を知るというのは、知的な行為ではありません。
もしそれがそんなものだったら、もうずっと前に世間一般に広まっていたことでしょう。

(アリスミラー)
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