ワニなつノート

ミラーおばさんの言葉(その2)

ミラーおばさんの言葉(その2)

B 《教育の成果について》



大学生でも若い先生でも
「障害児は普通学級は無理。専門家のところがいい」と
ほとんどの若者がそう言います。

「0点でも高校へ」という言葉の意味をすぐには理解できないし、
たとえていねいに説明しても、うなずく人はほとんどいません。
すでに教員になっている若者や教育学部の若者には、
よけい理解されません。

そのことは、今の「分ける教育」の成果を現しています。

若者が体験し、学習した「分けるやり方」を、
いかに早々と自分自身の見解や確信として取り込んでいるか…。

大多数がそれを支持しているため、
その嘘がどれほど「子どもの願い」から遠く、
差別的かを見抜くのは、非常に困難です。

とりわけ適切な情報が欠けている場合には、
分けられて、目に見えるできることだけを評価されて
育ってきた若者たちは、自分が経験から知っていることを
当然で正常だと考え、自分たちが聞かされてきたこと、
つまり、子どもは「分けてがんばらせなければならない」を
正しいと思っているのです。

若者たちはこのような考え方に疑問を呈したりしません。
それは子どもたちが、自分の受けた教育、
つまりは自分を成功させてくれた教育を
問題にすることを恐れるからです。

そのために、この若者たちは自分の受けた教育と同じ、
人の気持ちを無視した強制や分離を子供のためなら
構わないという考え方をするようになります。

この人たちは、「できる・できない」に関係なく
子どもを愛し、決して「分けない」親がいるとは知りません。

子どもをひどい目にあわせておいて、
同時に、それは、その子のためだという、というやり方は、
前の年代の人びとの間ではまだ広く信奉されていたものです。


独裁者、暴君というのは、全く例外なく、
「伝統的な教育の言葉」を用いるものです。


……そのような人はどこで見分けがつくのでしょうか。
何よりもはっきりとしているのは、
幼い子どもを仲間の子どもから分けておいて、
それをその子どものためだと言ったり、
自分の差別や偏見を、社会のためだと言ったりすることです。



【ヒトラー、スターリンなどと同様、
チャウシェスクも、子どもの頃ひっきりなしに、
ぶたれ、いじめられ、なにもかも取り上げられ、
見張られ、魂を粉々にされるのは、
ひたすらお前のためなのだと言い聞かされ、
それを嘘と見抜くこともできぬままでいたに違いありません。
この一度も見抜かれなかった嘘が、
後に暴君の基本原則になるのです。】(134)



「一度も見抜かれなかった嘘」が、21世紀にもあふれています。

差別はいけない。
障害があっても一緒に。
文科省も教育委員会も学校も、
「共に」「インクルージョン」「ノーマライゼーション」
「障害児の幸せのため」といいます。

現実は、分けられる子どもの数が、急上昇しています。

障害のある子どもの教育に関して、
「一度も見抜かれなかった嘘」とは何でしょう。

答えは、小夜さんの本に書かれています。
「落第」して、特殊学級にいた中学生が
つぶやいた言葉が、その嘘を見抜いています。

「一緒がいいならなぜ分けた」
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