「普通学級の障害児」ということを考える中で、不思議なことの一つに、「同じクラスの障害児は同じ子どもとして自然に受け止める子どもたちが、特学の障害児はどこか別の子どものように感じること」があります。
三十年という時間が流れても、そうした子どもの感覚はまったく変わらないように見えます。
特殊教育や特別支援教育の関係者が、この問題に関心を寄せることはないでしょう。
私たちにとっても、それは「当たり前」の反応だと思えるし、特に深く考えることもありませんでした。それこそが、「共に生活すること」の中身だと思っていました。
でも、ちょっと立ち止まってみれば、それはとても不思議な感覚なのです。
特に、「重度の障害」のある子が普通学級に通っている親にとって、「わが子」に対しては自然につきあい、さりげなく手をかしてくれる子どもたちが、ふと「特学」に通う障害児を見かけたときの反応や言葉に、「世間一般の差別的な視線」を感じることがあります。「変わってる」とか「なんか変」、「かわいそう」、といった言葉も聞こえます。
同じクラスにいる障害児には決して向けられない、態度が、そこにはあります。
普通学級でうまくやってきた親ほど、そのことを意外に感じたりもします。
なぜなら、「変わってる」と言われる特学の子どもより、わが子の方がよっぽど「変わってる」し、「手がかかる」と思えたりするからです。
わが子は、言葉もしゃべらず、食事やトイレにも人の手が必要で、勉強だってできないのに。
子どもたちが近づきたがらない「ちょっと変」と言われる子は、一人でバスに乗って学区外から通学し、勉強もあいさつもできる子どもだと、その子を知っている親にとって、「うちの子に限りなく優しいように見える子どもたちの、この冷めた感じ」はどうしてなんだろうと思うことになります。
それは明らかに、「障害の程度」とか「できる・できない」といった問題とは別のところの話なのです。
そのことを、考えてみたくなりました。
私たちは、ニワトリでも牛や豚でも、それが生き物の形をしているうちは、「食べたい」とか「おいしそう」と思うことはありません。
でも、目の前に「焼き鳥」のいい匂いがしたり、「とんかつ」や「ステーキ」が目の前に出されると、おいしそうにしか見えません。
そこのところを、村瀬学さんは、次のように説明しています。
《生身の生き物や生き物の姿形をしているものに相対する時と、その姿形を失ってしまったものに相対する時には、人間はおのずと違った態度を取ってしまう…。
人間は「向かい合うもの」に応じて、「自分」を意識する仕方が変わるからである。
つまり、「向かい合うもの」が生き物の姿をしていれば、そこにどうしても「生き物」を意識する自分が出現する。
しかし、「生き物の姿」をしていないものに向かい合うと、そこにはたとえば「いい匂い」とか「おいしそう」とか、そういうものを感じる自分しか出てこなくなる。》
さて、いつも通り、私の思い込みで書き換えてみます。
《「同じ仲間、同じ子ども」の姿形をしているものに相対する時と、その姿形を失ってしまったものに相対する時には、子どもはおのずと違った態度を取ってしまう…。
子どもは「向かい合うもの」に応じて、「自分」を意識する仕方が変わるからである。
つまり、「向かい合うもの」が「自分と同じ子ども」の姿をしていれば、そこに「子ども」を意識する自分が出現する。
しかし、「同じ子ども」をしていないようにみえるものに向かい合うと、そこにはどこか得体のしれない違和感、そういうものを感じる自分しか出てこなくなる。》
「同じ仲間、同じ子ども」の姿形を失ってしまったもの、とは、どういうことでしょう。
それは、もちろん「外見」のことではありません。
自分のクラスにいる「障害児」は、まったく仲間であるのに、特学の子は、「変な子」「気持ち悪い」とみなし、自分たちとはまったく別の世界の生き物、のように感じるのは、向かい合うものに応じて、自分を意識する仕方が変わるから、なのです。
そう、問題は、「障害児」を意識する仕方が変わる、ということより、「自分」を意識する仕方、の方です。
「同じ子ども・仲間」の姿形で日常を一緒に生きているときと、その「姿形」を失ってしまったもの(見えなくなってしまったもの)に出会うときとは、おのずと違った態度を取ってしまう。
なぜなら、同じクラスで、いつもの日常を自分と同じように生活していれば、「言葉を話さない」ことや「勉強ができない」ことなど、問題ではなくなります。
「能力や個性や仕草は違っても、先生の前では同じ子ども」、「先生や大人が、自分たちをこの学校(学級)の子どもとして扱っているという点で、同じ子ども」なのです。
その子どもに向かい合う時と、特学の子どもに向き合う時に違うのは、障害の種類や程度ではありません。もしかしたら、障害の有無ですらないかもしれません。
先生や大人が、「あの子は別、あの子はこの学校の子どもではない、この地域の仲間ではない、あの子の生きる場、あの子のいるべき場所は、ここではない、どこか別の世界」とみなしている子どもの「姿形」をしていれば、そこには、関わらないでおきたいと願うしかありません。
そこがどんな世界かはわからない、でもそこにだけは行きたくない、関わりたくない、という漠然とした不安を感じる、自分と向かい合うことになるのでしょう。
それは、別の見方をすれば、心の底からの「差別を育てている」ということになります。
特別支援の場を繁盛させ「子どもの能力」を伸ばしたとして、子どもを分け続けることで、「仲間としての姿形の実感」を、子ども時代から消すことで、できあがる社会を、「個別で伸ばされた能力」で生きていくのは、大変だろうと思います。
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