今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

明治神宮外苑競技場が竣工した

2009-10-25 | 歴史
1924(大正13)年10月25日、明治神宮外苑競技場が竣工した。
明治神宮外苑競技場とは明治神宮外苑内に1924(大正13)年から1956(昭和31)年まで存在した陸上競技場のことである。
明治神宮外苑は、代々木にある明治神宮(内苑。明治天皇昭憲皇太后を祭神として祀る神社)とは別に、やはり、明治天皇とその皇后の遺徳を永く後世に伝えることを目的に、1914(大正3)年、明治神宮奉賛会創立準備委員会が結成され、全国国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕などにより、聖徳記念絵画館を中心に、体力の向上や心身の鍛錬の場、また文化芸術の普及の拠点として、憲法記念館(現:明治記念館)などの記念建造物と、ともに陸上競技場の他、野球場(現:神宮球場)、相撲場、プールなどのスポーツ施設が旧・青山練兵場跡に造成され、1926(大正15)年10月、明治神宮に奉献されている。
旧・青山練兵場は、1886(明治19)年に近衛師団第一師団に所属する部隊の教練場として作られたものであり、明治天皇大喪儀の葬場殿の儀はここで挙行された。明治時代から大正、昭和前期まで日本のスポーツは国内的にも国際的にも花開いた時代であった。スポーツ(英: sport)とは、古フランス語のdesport「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」を経て現在のsportに至ったと考えられているようだが、その原義の意味するものは時代とともに変化している。
日本では、明治以降、欧米諸国から取り入れられた近代スポーツが、時代と共に徐々に広がる中、第2次世界大戦へと突入していく悲しい時代背景の中で、時代に翻弄されていく「悲しいスポーツ」の時代に入っていった。
講道館の創始者でもあり、1893(明治26)年より、東京高等師範学校(現:筑波大学)校長を務めていた嘉納治五郎を中心とする、体育関係者との協議のもと、1911(明治44)年に大日本体育協会(現:日本体育協会)が創設された。
大日本体育協会創立の趣旨については、嘉納の体育(スポーツ)振興に対する熱い思いが、自ら表明した「日本体育協会の創立とストックホルムオリンピック大会予選会開催に関する趣意書」の中に明記されている。以下参考に記載の※:「財団法人日本体育協会」ホームページの日本体育協会創立と変遷 ”を参照。
1912(明治45)年5月5日から開催されたストックホルムオリンピックは、初めて日本が参加したオリンピックであった。このストックホルム五輪に嘉納は、団長として参加している。
しかし、陸上競技で短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2名が出場したが、三島は400メートルの準決勝で棄権、金栗は10000mを棄権してマラソンに出場するが、レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であったという。そして、記録的には、世界一遅いマラソン記録を残している(経緯はストックホルムオリンピックのエピソードのところを参照)。
1916(大正5)年、嘉納らにより、競技場の建設計画が決定され、1919(大正8)年、明治神宮奉賛会の計画承認を得て、1922(大正11)年、定礎(そせき)。1923(大正12)年関東大震災により一時工事は中止されるも、翌年再開し、当時で総工費100余万円を投じた明治神宮外苑競技場が1924(大正13)年10月25日、完成。その日、開場式が行われ、テープカットのあと、市内小学生が走り初めをした。冒頭の画像左は、その場面である(朝日クロニクル「週刊20世紀」より)。
そして、10月30日から第1回明治神宮競技大会が内務省の主催で開催された。
明治神宮外苑のホームページを見ると、第1回明治神宮競技大会の内容が見れたのでそれを記すと、競技としては、・バスケットボール・ヴァレーボール・ア式フットボール・ラ式フットボール・ホッケー・陸上競技(以上神宮外苑競技場)・テニス(帝大コート)・野球(早大グラウンド)・水上競技(芝公園プール)・ボートレース(吾妻・白髪橋間)・柔道(神宮外苑道場)・相撲(神宮外苑相撲場)・剣道・弓道(神宮内苑道場)・馬術(代々木練兵場)となっており、”野球・水上競技及び神宮外苑競技場競技の他入場無料”・・と注釈されている。当時は、サッカーをア式フットボール(アソシエーションフットボール)、ラグビーをラ式フットボール(ラグビー・フットボール )と言っていた。当時流行っていたスポーツが何かがよくわかる。又、当時相撲には素人のみが参加していのは当然であろう。
当時の「明治神宮競技大会」は、明治神宮外苑競技場を主会場として、毎年、又、1年おきに開かれた総合競技会であり、1924(大正13)年から1943(昭和18)年にかけ14回にわたって行われた。
嘉納らのスポーツへの熱い思いからスポーツへの関心が高まり、夏季五輪では、1920(大正9)年、アントワープ大会で、庭球シングルスで熊谷一弥が、ダブルスで熊谷一弥、柏尾誠一郎組がともに銀メダル。1924(大正13)年パリ大会では、レスリング男子フリースタイルフェザー級 で内藤克俊が銅メダル。そして、1928(昭和3)年アムステルダム大会では、織田幹雄が三段跳びで、鶴田義行が競泳男子200m平泳ぎで優勝。日本人待望の金メダル初獲得がなった。それ以外に、人見絹枝が 陸上競技女子800m で、 競泳男子800mリレー で日本 チームがそれぞれ銀メダルを、競泳男子100m自由形 では、高石勝男が銅メダルを獲得するなど輝かしい成績を残している。そして、次の1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピック大会では、鶴田義行が競泳男子200m平泳ぎで2年連続優勝。南部忠平が、三段跳で、宮崎康二が競泳男子100m自由形で、北村久寿雄が競泳男子1500m自由形で、日本チームが競泳男子4×200mリレーで、西竹一が馬術障害飛越個人で優勝するなど金メダルだけで7個を、銀メダルを7個、銅メダル4個と際立った活躍をしている。1936(昭和11)年のベルリンオリンピック大会でも、金6個、銀4個、銅10個と活躍し、メダル20個を獲得。中でも水泳人が大活躍した。
そして、1928(昭和3)年スイスのサンモリッツで行なわれた冬季大会にも日本は初参加している。
日本が、最初に東京でのオリンピック招致を目指したのは1940(昭和15)年大会であった。1929(昭和4)年に来日した国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と日本学生競技連盟会長の山本忠興が会談した際、東京でのオリンピック開催可否が話題になったのがきっかけである。この話が東京市当局や当時の永田秀次郎東京市長にも伝わり、1931(昭和6)年10月28日、東京市議会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、駒沢村に計画の競技場群、および神宮外苑を充てるとした。そして、「第12回国際オリンピック競技大会」開催候補地として正式に東京が立候補。「1940年大会」の開催地を決定する1935(昭和10)年のIOCオスロ総会での対立候補はローマ(イタリア)、とヘルシンキ(フィンランド)であったが、ローマがその後撤退。7月31日の投票の際の嘉納の熱き演説が功を奏し、翌・1936(昭和11)年8月31日 ベルリン五輪に合わせて開催されたIOC総会で東京に決定。日本初のみならず、アジア初、有色人種国家としても初のオリンピック招致に成功した。これをうけて、12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第12回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、本格的な準備に着手した。しかし、オリンピック招致に貢献した嘉納は東京五輪を2年後に控えた、1938(昭和13)年、カイロ(エジプト)で開かれたIOC総会の帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により急死した(77歳没)。この嘉納の突然の死から2カ月後、日本政府は日中戦争の拡大を理由に東京五輪開催を返上。「1940年夏季五輪」はヘルシンキに変更されたが、後に大会そのものが中止とされた。オリンピック開催ができなかったため1940年には明治神宮外苑競技場にて、「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会」が開催されている(東京オリンピック及び「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会」が開催については、以下参考の※:「『写真週報』 にみる昭和の世相」の中にある”幻の東京オリンピック”の<ここを参照)。
このような日中戦争が拡大し第2次世界大戦への軍靴(ぐんか)の響きが忍び寄る中で、軍部(特に陸軍)がその政治的影響力をますます増大しつつあり、1936(昭和11)年に復活した軍部大臣現役武官制に見られるように、国務を輔弼(ほひつ)する内閣に対して統帥権を補弼する軍部が、実質的にその存続をも左右するようになり、厚生省の設立においても軍部の意向が強く反映された。そして、徴兵検査における筋骨薄弱者や結核患者の増加を憂慮した陸軍の提案で、政府は、内務省から分離する形で1938(昭和13)年に、厚生省・体力局を設置させた。こうして、軍部・官僚一体の国民統合政策に、国民全体を対象とした「修練」や「錬成」といった精神的な総動員体制とが強力に結び付いた。
そして、「明治神宮競技大会」は、第1回~第2回は内務省、第3回~第9回は明治神宮体育会の主催となっていたものが、1939(昭和14)年・第10回大会~第13回大会からは、厚生省・体力局の所管となり、大会の名称も「明治神宮国民体育大会」と改称されるが、1942(昭和17)年には、第13回神宮国民体育大会を明治神宮国民錬成大会と改称。大日本体育協会も大日本体育会と改称し、内閣総理大臣・東条英機が会長となる。又、大日本体育協会加盟競技団体は解消され、運動部会を組織(日本陸上競技連盟は陸上戦技部会となり包含される)、陸上競技の競技種目も戦力増強に役立つものに変更され、伝令競技、突撃競技などの国防競技も取り入るようになった(第14回は地方予選のみ)。
このようにして時代に翻弄されていく、スポーツは本来の目的よりも、国民全体を対象に、精神的な面に重きを置いた鍛錬(体力・精神力・能力などをきたえて強くすること)による国家総動員体制と強力に結び付いくことになり、国民は「望むと望まざるとにかかわらず、国民として体育をしなければならない」 状況に置かれていた。ここから、戦後暫くまで日本におけるスポーツとは、楽しむものではなく肉体と忍耐と精神力を鍛えるための運動となっていった。厚生省・体力局の設立と戦時期体育行政における集権統治のことは、以下参考に記載の※:「第6章日本戦時期体育行政における集権統治型ネットワークの原型(PDF)」に詳しく書かれている。
明治神宮外苑競技場は、第2次世界大戦中には学徒出陣の壮行会の舞台となり、戦後は駐留軍に接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と名をかえて使用されていたが、1952(昭和27)年 接収解除。明治神宮が神宮外苑とあわせ宗教法人となる。
1958(昭和33)年の第3回アジア競技大会東京オリンピック開催(1964年開催)が決定たことから、現在の国立霞ヶ丘陸上競技場に建て替えることが決まり、同競技場は、1956(昭和31)年、国に譲渡され明治神宮外苑競技場は解体された。
(冒頭の画像左:、明治神宮外苑競技場が完成した10月25日、開場式が行われ、テープカットのあと、市内小学生が走り初めをした場面朝日クロニクル「週刊20世紀」より。画像右:1941年第12回明治神宮大会の参加メダル原型「手榴弾投げ競技」、セトモノ製・スポーツ博物館より)

参考はブログの字数制限上別紙となっています。以下をクリックするとこのページの下に表示されます。
クリック ⇒ 明治神宮外苑競技場が竣工した日:参考

明治神宮外苑競技場が竣工した:参考

2009-10-25 | 歴史
参考:
※:財団法人日本体育協会
http://www.japan-sports.or.jp/jasa100th/index.html
※:スポーツ博物館
http://www.naash.go.jp/muse/index.html
※:『写真週報』 にみる昭和の世相_
<http://www.jacar.go.jp/shuhou/
※:第6章日本戦時期体育行政における集権統治型ネットワークの原型(PDF)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/339/11/Honbun-09-6sho.pdf#search='厚生省体力局'
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%A4%96%E8%8B%91%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4財団法人日本オリンピック委員会公式ページ
http://www.joc.or.jp/
明治神宮外苑
http://www.meijijingugaien.jp/
フットボール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
東京オリンピック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BA%94%E8%BC%AA
軍部大臣現役武官制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
明治神宮外苑競技場 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%A4%96%E8%8B%91%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4国民体育大会 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%A4%A7%E4%BC%9A
国民体育大会-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%A4%A7%E4%BC%9A/
国立公園等にかかる主要な行政動向等に関する年表(PDF)
http://www.env.go.jp/nature/ari_kata/shiryou/021204_7.pdf#search='厚生省体力局'

明治神宮外苑競技場が竣工した 冒頭へ 戻る