「有楽町で逢いましょう」「おまえに」などのヒット曲で知られる歌手のフランク永井(本名・永井清人)が、東京・世田谷の自宅で死去していたのがわかったのが2008年の今日10月27日のことだった。
戦後日本の復興をムード歌謡で盛り上げたフランク永井は、1932(昭和7)年3月18日宮城県出身。歌手にあこがれて上京し、米軍キャンプでのクラブ歌手を経て、1955(昭和30)年ビクターの専属歌手となり、同年9月に「恋人よ我に帰れ」でデビューした。
第二次大戦の終戦を迎えて、戦後まで敵国の歌であった音楽であるジャズなどを歌うことが出来るようになり、進駐軍基地のクラブで多くのシンガーやバンドが誕生した。1951(昭和26)年14歳の時にパティー・ペイジのカバー曲「テネシー・ワルツ」でデビューした江利チエミや、1953(昭和28)年にテレサ・ブリュアーのカバー曲「想い出のワルツ」でデビューした雪村いづみなどもフランク永井と同様だ。
江利や雪村は、1954(昭和29)年、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした美空ひばりと1955(昭和30)年、東宝映画「ジャンケン娘」に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。この3人の中で、美空は後に歌謡界の女王と呼ばれるように歌謡曲を得意としたが、ジャズを唄っても1級である。残念ながら、フランク永井の歌うデビュー曲の「恋人よ我に帰れ」を聞いたことが無いが、美空ひばりが1982(昭和57)年、36才の時歌ったものが、以下で聞ける。
YouTube -美空ひばり 「恋人よ我に帰れ - Lover, come back to me」
http://www.youtube.com/watch?v=TqW7sDmTHM0
いや!のりのりのすごい迫力だよね~。
フランク永井は、ジャズを得意としたが、ジャズではヒットに恵まれず、先輩歌手であるディック・ミネの勧めや、作曲家・吉田正との出会いを期に歌謡曲に転向。1957(昭和32)年、そごう百貨店の東京・有楽町進出のためのキャンペーンソング「有楽町で逢いましょう」(伯孝夫 作詞、吉田 正 作曲)を歌いこれが大ヒットした。この年には、他にも「東京午前三時」や「夜霧の第二国道」などの良い曲を歌っているが、彼を一躍トップ・スターの座に着かせたのはこの「有楽町で逢いましょう」だ。
♪あなたを待てば 雨が降る 濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりの ティー・ルーム
雨も愛しや 唄ってる 甘いブルース
あなたと私の合言葉 有楽町で逢いましょう
戦後の混乱期には街娼が集まるような場所でもあった有楽町は、1950年代前半当時は、まだまだ闇市の面影の残っていたが、続々と映画館なども誕生し、現在ほど活気が無かったものの、人通りは徐々に増え続けていた。1957(昭和32)年、讀賣新聞が経営する讀賣会館竣工し、そのテナントとして、大阪・心斎橋の老舗百貨店そごうが東京店(そごう有楽町店は2000年に閉店。現在のビックカメラ有楽町店に位置する場所にあった)開店に先だち、各種マスメディアとのタイアップも行って「有楽町高級化キャンペーン」を展開を行った。提携した日本テレビからはそごう一社提供による新音楽番組「有楽町で逢いましょう」が同年4月に放送開始された。又、そごうの東京進出に一役買っていた大映映画が、キャンペーンのための映画「有楽町で逢いましょう」(goo 映画参照)を京マチ子主演で製作。その主題歌を歌う歌手にビクターのフランク永井が選ばれれたのだ。映画も歌もヒットし、「有楽町で逢いましょう」の言葉は当時の流行語ともなり、有楽町の名が全国に広まった。
思い起こせば、昭和30年代の後半。私は青春時代の一時期を5年ほど東京で過ごしたことがある。初めて、有楽町に行ったときは、ああ、ここがあの有名な「有楽町で逢いましょう」の場所かと感動した。その当時の有楽町の日劇(1981年再開発により解体。跡地には有楽町センタービル【有楽町マリオン】が建てられている)前は、デイトスポットとして有名であり、東京に慣れていない私を会社の仲間が誘ってくれて、このビルの前へ、彼女探しに連れて行ってくれた。いつも大勢の若い女性が、ビルの前にたむろしていた。誘ってくれた当時の悪友が言った。「5人誘って誰も付いてこなければ男じゃないよ」・・・っと。言われた私は男であることを証明できた。・・この曲は私にとっても青春時代の懐かしい思い出の曲である。
「ABC XYZ これは俺らの口癖さ 今夜も刺激が欲しくって・・・・」
翌1958年(昭和33)年の「西銀座駅前」。これも、佐伯が作詞.し、吉田が作曲 した曲だ。フランク永井の「低音の魅力」が最高に生かされている曲と言って良いかもしれない。
「なんで泣きはる 泣いてはる・・・」
同年の曲に大阪弁で歌った「こいさんのラブ・コール」がある。この曲は、それまで東京を歌った曲で人気を博していたフランク永井が初めて 歌った大阪ものの曲であるが、当時まだ珍しかった大阪弁の歌をつくろうと、大阪朝日放送のラジオ番組「ABCホームソング」の企画で生まれたもの。作詞は石浜恒夫(アイ・ジョージの「硝子のジョニー」、フランク永井の「大阪ろまん」などがある)、作曲をしたのは大野正雄(大阪堺市の人らしいが詳しくは知らない)である。このコンビで、同じ大阪を舞台にしたヒット曲「大阪ぐらし.」(1964年、作詞:石浜恒夫、作曲:大野正雄)がある。これもフランク永井の大阪ものの代表曲であるが、他にも「俺は淋しいんだ」(1958年、作詩:佐伯孝夫 作曲:渡久地政信)、「大阪ろまん」 (1966年、作詞:石浜恒夫 作曲:吉田正)など、大 阪ものも多く歌いヒットさせてる。
先ずは「こいさんのラブ・コール」以下で聞いてみてください。甘くソフトな低音で歌う大阪物は東京物とはまた違った独特の味があり、こんな歌フランク永井でないと歌えないのじゃ~ないかな~。こん味のある大阪ものの歌が流行っていた当時の大阪が、非常に懐かしく思い出される。この頃は、商都大阪がまだまだ元気だったよ。私はこの当時は、大阪船場の商社で働いていることに誇りを持っていた。ここにアクセスすると、「大阪ろまん」も聞けるよ。
YouTube - こいさんのラブ・コール フランク永井
http://www.youtube.com/watch?v=Fr3Tkcnw458&feature=related
この後次々とヒットを飛ばすが、他にも、私の大好きな曲がたくさんあるが、「夜霧に消えたチャコ」(1959年)、自ら見出した松尾和子とのデュエット曲「東京ナイト・クラブ」(1959年)これなど、今でもデュエットの定番としてカラオケバーなどで歌い継がれている。「東京カチート」(1960年)、中でも、「君恋し」(1981年、作詞:時雨音羽、作曲:佐々紅華)がすばらしが、これは、もともと1929(昭和4)年に、浅草オペラの人気歌手・二村定一が歌って大ヒットした同名の曲を、昭和30年代に訪れた リバイバルブームに乗り1961年(昭和36年)に、寺岡真三によってリズミカルなジャズ風にアレンジされたもの。この年の第3回レコード大賞グランプリを獲得している。
「宵(よい)やみせまれば 悩みは果(はて)なし・・・」
この歌はフランク永井自身幼少期に愛唱歌にしていたというが、もともとはどんな曲だったのだろう。何でも、二村定一版には、3番もあったらしいが、それが省かれたようだ(詳しくは以下参考の※:「君恋し: 二木紘三のうた物語」参照)。
この歌について1975(昭和50)年1月5日「ビッグショー」での藤山一郎とフランク永井の対談とこの二人の歌の競演が以下で見られるよ。藤山は非常に歌の上手い歌手ではあるが、この歌にに関してはやっぱり、フランク永井の方が良いよ。
対談:君恋し
http://www.youtube.com/watch?v=etVBKBczd6I&feature=related
このあと、「霧子のタンゴ」(1962年)も良かったが、その翌1963(昭和38年)年「 赤ちゃんは王様だ 」が他の曲と変わっていて面白い歌だ。
「赤ちゃんは王様だ 裸の王様だ 笑ったら王様だ 泣いていたって王様だ・・」
作詞:赤山勇、 作曲:三木鶏郎によるものだが、作詞家の赤山勇については良く知らない。作曲家の三木鶏郎は、昭和前期から平成前期まで作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家として大活躍し、1951(昭和26)年、日本で初めてコマーシャルソング(小西六写真工業【現コニカミノルタ】「僕はアマチュア・カメラマン」歌:灰田勝彦。ラジオ) をつくった人で知られている。兎に角面白い歌だ。このときレコード大賞 は、「こんにちは赤ちゃん」(作詩:永 六輔、作曲及び編曲:中村八大)を歌った歌手:梓みちよとなったが、最優秀歌唱賞を獲得している。兎に角、コミカルで面白い曲だ。以下で聞ける(歌詞つき)。
赤ちゃんは王様だ
http://xpp.sakura.ne.jp/mutual/fest/song/06002.php
又、ついでだから、日本初コマーシャルソングも以下でどうぞ。
YouTube - 僕はアマチュアカメラマン(歌:灰田勝彦)
http://www.youtube.com/watch?v=0P7wXjqC0_g&feature=related
この後、1967(昭和42)年に歌った「おまえに」(作詞:岩谷時子、作曲:吉田 正)が好きだ。
♪そばにいてくれる だけでいい
だまっていても いいんだよ
ぼくのほころび 縫えるのは
おなじ心の 傷をもつ
おまえのほかに 誰もない
そばにいてくれる だけでいい
この曲は実にしっとりとした良い歌だ。Wikipediaによれば、作曲家の吉田正が自らの人生を陰で支え続けた夫人に対する感謝の念を込めて作った作品であり、吉田夫妻と親交のある岩谷時子が“おしどり夫婦”である同夫妻の仲睦まじさをイメージして作詞した、とも言われているそうだ。元は「大阪ろまん」(1966年)のB面曲だったそうだが、。1972(昭和47)年にシングルA面曲として発売して以降有線放送などを通じて徐々に広がり、5年後くらいに爆発的ヒットをした。本当に、夫婦というものは歳をとればとるほどに、この歌のように夫又妻が何も言わなくて良いからただ、じっとそばにいてくれるだけで良いよね~。こんな歌が、本当に実感として分るような年代に私もなってきた・・・・。
YouTube -おまえに
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=5M9P2RcA3Uk
兎に角、その歌唱力は素晴らしく、NHK紅白歌合戦の常連出場者でもあり、1957(昭和32)年の第8回から1982(昭和57)年の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は、島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。私の最も好きな男性歌手の1人であり、好きな曲を書き出すときりがないが、そんな彼が、突然、自宅で自殺を図るという事件が起きた。
1985(昭和60)年)のことである。上記に書いたような曲以降ヒット曲が減り、1983(昭和58)年以降紅白にも出なくなり、テレビなどで姿を見る機会が少なくはなったが、1983(昭和58)年の紅白落選の前の年には、山下達郎作詞・作曲の『Woman』が話題を呼んでいたので、まだまだ頑張れると思っていたのにショックであった。
何とか一命は取りとめたものの脳に障害が残り、会話が不自由となったほか、記憶が乏しくなるなどの後遺症を患ったようで、その後、リハビリにつとめていたようだが、歌手活動を再開するには至らなかった。昨:2008(平成20)年の今日・10月27日、東京の自宅で肺炎のため76歳で亡くなったことがマスコミで報道されたのは11月に入ってからのことであった(2008年11月2日日刊スポーツ 「フランク永井さん死去、国民的歌手逝った」参照)。国民的歌手になりながら、どうも、「おまえに」の歌と同じ様に、最期まで愛妻にずっとそばにいて見取ってもらえなかったようであり哀れである。
最後の話題曲となった山下達郎作詞・作曲「Woman」なかなかいい曲である。今日は、この歌を聴きながら、大好きであった彼を偲びたい。
YouTube - 追悼 =Image-Video= WOMAN
http://www.youtube.com/watch?v=mu7XjMh8c-4
他以下のようなものがおすすめ。
フランク永井名曲選①東京ナイトクラブ~君恋し~有楽町で逢いましょう~夜霧の第二国 道
http://www.youtube.com/watch?v=ozxKvD9Niko&feature=related
フランク永井名曲選②映像、電波露出の少なかったヒット曲・東京カチート~西銀座駅前~大阪野郎
http://www.youtube.com/watch?v=pLWed56O9Hg&feature=related
霧子のタンゴ フランク永井
http://www.youtube.com/watch?v=JUKpqDf_K3Q&feature=related
大阪ろまん
http://www.youtube.com/watch?v=u29VcL7Sg0M
大阪ぐらし1980
http://www.youtube.com/watch?v=D79H0SOonIo&feature=related
(画像は、舞台で歌うフランク永井、1963年、大阪市フェスティバルホール。2008・11・3朝日新聞より)
参考:
※:日本のジャズ・ポップス歌手達
http://f57.aaa.livedoor.jp/~maika/Japan_jazzplayer.htm
フランク永井 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E6%B0%B8%E4%BA%95
美空ひばり-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A
フランク永井 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1146480/
lover come back to me
http://homepage2.nifty.com/akijazzy/jazz/songs/jazz5lm/lovercom.html
※:『坂の上の雲』と脱イデオロギー - 郎女迷々日録 幕末東西
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/de7da52bbf5a2e4d1a35f005fdd125fd
※:君恋し: 二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/10/post_373e.html
三木鶏郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%B6%8F%E9%83%8E
戦後日本の復興をムード歌謡で盛り上げたフランク永井は、1932(昭和7)年3月18日宮城県出身。歌手にあこがれて上京し、米軍キャンプでのクラブ歌手を経て、1955(昭和30)年ビクターの専属歌手となり、同年9月に「恋人よ我に帰れ」でデビューした。
第二次大戦の終戦を迎えて、戦後まで敵国の歌であった音楽であるジャズなどを歌うことが出来るようになり、進駐軍基地のクラブで多くのシンガーやバンドが誕生した。1951(昭和26)年14歳の時にパティー・ペイジのカバー曲「テネシー・ワルツ」でデビューした江利チエミや、1953(昭和28)年にテレサ・ブリュアーのカバー曲「想い出のワルツ」でデビューした雪村いづみなどもフランク永井と同様だ。
江利や雪村は、1954(昭和29)年、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした美空ひばりと1955(昭和30)年、東宝映画「ジャンケン娘」に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。この3人の中で、美空は後に歌謡界の女王と呼ばれるように歌謡曲を得意としたが、ジャズを唄っても1級である。残念ながら、フランク永井の歌うデビュー曲の「恋人よ我に帰れ」を聞いたことが無いが、美空ひばりが1982(昭和57)年、36才の時歌ったものが、以下で聞ける。
YouTube -美空ひばり 「恋人よ我に帰れ - Lover, come back to me」
http://www.youtube.com/watch?v=TqW7sDmTHM0
いや!のりのりのすごい迫力だよね~。
フランク永井は、ジャズを得意としたが、ジャズではヒットに恵まれず、先輩歌手であるディック・ミネの勧めや、作曲家・吉田正との出会いを期に歌謡曲に転向。1957(昭和32)年、そごう百貨店の東京・有楽町進出のためのキャンペーンソング「有楽町で逢いましょう」(伯孝夫 作詞、吉田 正 作曲)を歌いこれが大ヒットした。この年には、他にも「東京午前三時」や「夜霧の第二国道」などの良い曲を歌っているが、彼を一躍トップ・スターの座に着かせたのはこの「有楽町で逢いましょう」だ。
♪あなたを待てば 雨が降る 濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりの ティー・ルーム
雨も愛しや 唄ってる 甘いブルース
あなたと私の合言葉 有楽町で逢いましょう
戦後の混乱期には街娼が集まるような場所でもあった有楽町は、1950年代前半当時は、まだまだ闇市の面影の残っていたが、続々と映画館なども誕生し、現在ほど活気が無かったものの、人通りは徐々に増え続けていた。1957(昭和32)年、讀賣新聞が経営する讀賣会館竣工し、そのテナントとして、大阪・心斎橋の老舗百貨店そごうが東京店(そごう有楽町店は2000年に閉店。現在のビックカメラ有楽町店に位置する場所にあった)開店に先だち、各種マスメディアとのタイアップも行って「有楽町高級化キャンペーン」を展開を行った。提携した日本テレビからはそごう一社提供による新音楽番組「有楽町で逢いましょう」が同年4月に放送開始された。又、そごうの東京進出に一役買っていた大映映画が、キャンペーンのための映画「有楽町で逢いましょう」(goo 映画参照)を京マチ子主演で製作。その主題歌を歌う歌手にビクターのフランク永井が選ばれれたのだ。映画も歌もヒットし、「有楽町で逢いましょう」の言葉は当時の流行語ともなり、有楽町の名が全国に広まった。
思い起こせば、昭和30年代の後半。私は青春時代の一時期を5年ほど東京で過ごしたことがある。初めて、有楽町に行ったときは、ああ、ここがあの有名な「有楽町で逢いましょう」の場所かと感動した。その当時の有楽町の日劇(1981年再開発により解体。跡地には有楽町センタービル【有楽町マリオン】が建てられている)前は、デイトスポットとして有名であり、東京に慣れていない私を会社の仲間が誘ってくれて、このビルの前へ、彼女探しに連れて行ってくれた。いつも大勢の若い女性が、ビルの前にたむろしていた。誘ってくれた当時の悪友が言った。「5人誘って誰も付いてこなければ男じゃないよ」・・・っと。言われた私は男であることを証明できた。・・この曲は私にとっても青春時代の懐かしい思い出の曲である。
「ABC XYZ これは俺らの口癖さ 今夜も刺激が欲しくって・・・・」
翌1958年(昭和33)年の「西銀座駅前」。これも、佐伯が作詞.し、吉田が作曲 した曲だ。フランク永井の「低音の魅力」が最高に生かされている曲と言って良いかもしれない。
「なんで泣きはる 泣いてはる・・・」
同年の曲に大阪弁で歌った「こいさんのラブ・コール」がある。この曲は、それまで東京を歌った曲で人気を博していたフランク永井が初めて 歌った大阪ものの曲であるが、当時まだ珍しかった大阪弁の歌をつくろうと、大阪朝日放送のラジオ番組「ABCホームソング」の企画で生まれたもの。作詞は石浜恒夫(アイ・ジョージの「硝子のジョニー」、フランク永井の「大阪ろまん」などがある)、作曲をしたのは大野正雄(大阪堺市の人らしいが詳しくは知らない)である。このコンビで、同じ大阪を舞台にしたヒット曲「大阪ぐらし.」(1964年、作詞:石浜恒夫、作曲:大野正雄)がある。これもフランク永井の大阪ものの代表曲であるが、他にも「俺は淋しいんだ」(1958年、作詩:佐伯孝夫 作曲:渡久地政信)、「大阪ろまん」 (1966年、作詞:石浜恒夫 作曲:吉田正)など、大 阪ものも多く歌いヒットさせてる。
先ずは「こいさんのラブ・コール」以下で聞いてみてください。甘くソフトな低音で歌う大阪物は東京物とはまた違った独特の味があり、こんな歌フランク永井でないと歌えないのじゃ~ないかな~。こん味のある大阪ものの歌が流行っていた当時の大阪が、非常に懐かしく思い出される。この頃は、商都大阪がまだまだ元気だったよ。私はこの当時は、大阪船場の商社で働いていることに誇りを持っていた。ここにアクセスすると、「大阪ろまん」も聞けるよ。
YouTube - こいさんのラブ・コール フランク永井
http://www.youtube.com/watch?v=Fr3Tkcnw458&feature=related
この後次々とヒットを飛ばすが、他にも、私の大好きな曲がたくさんあるが、「夜霧に消えたチャコ」(1959年)、自ら見出した松尾和子とのデュエット曲「東京ナイト・クラブ」(1959年)これなど、今でもデュエットの定番としてカラオケバーなどで歌い継がれている。「東京カチート」(1960年)、中でも、「君恋し」(1981年、作詞:時雨音羽、作曲:佐々紅華)がすばらしが、これは、もともと1929(昭和4)年に、浅草オペラの人気歌手・二村定一が歌って大ヒットした同名の曲を、昭和30年代に訪れた リバイバルブームに乗り1961年(昭和36年)に、寺岡真三によってリズミカルなジャズ風にアレンジされたもの。この年の第3回レコード大賞グランプリを獲得している。
「宵(よい)やみせまれば 悩みは果(はて)なし・・・」
この歌はフランク永井自身幼少期に愛唱歌にしていたというが、もともとはどんな曲だったのだろう。何でも、二村定一版には、3番もあったらしいが、それが省かれたようだ(詳しくは以下参考の※:「君恋し: 二木紘三のうた物語」参照)。
この歌について1975(昭和50)年1月5日「ビッグショー」での藤山一郎とフランク永井の対談とこの二人の歌の競演が以下で見られるよ。藤山は非常に歌の上手い歌手ではあるが、この歌にに関してはやっぱり、フランク永井の方が良いよ。
対談:君恋し
http://www.youtube.com/watch?v=etVBKBczd6I&feature=related
このあと、「霧子のタンゴ」(1962年)も良かったが、その翌1963(昭和38年)年「 赤ちゃんは王様だ 」が他の曲と変わっていて面白い歌だ。
「赤ちゃんは王様だ 裸の王様だ 笑ったら王様だ 泣いていたって王様だ・・」
作詞:赤山勇、 作曲:三木鶏郎によるものだが、作詞家の赤山勇については良く知らない。作曲家の三木鶏郎は、昭和前期から平成前期まで作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家として大活躍し、1951(昭和26)年、日本で初めてコマーシャルソング(小西六写真工業【現コニカミノルタ】「僕はアマチュア・カメラマン」歌:灰田勝彦。ラジオ) をつくった人で知られている。兎に角面白い歌だ。このときレコード大賞 は、「こんにちは赤ちゃん」(作詩:永 六輔、作曲及び編曲:中村八大)を歌った歌手:梓みちよとなったが、最優秀歌唱賞を獲得している。兎に角、コミカルで面白い曲だ。以下で聞ける(歌詞つき)。
赤ちゃんは王様だ
http://xpp.sakura.ne.jp/mutual/fest/song/06002.php
又、ついでだから、日本初コマーシャルソングも以下でどうぞ。
YouTube - 僕はアマチュアカメラマン(歌:灰田勝彦)
http://www.youtube.com/watch?v=0P7wXjqC0_g&feature=related
この後、1967(昭和42)年に歌った「おまえに」(作詞:岩谷時子、作曲:吉田 正)が好きだ。
♪そばにいてくれる だけでいい
だまっていても いいんだよ
ぼくのほころび 縫えるのは
おなじ心の 傷をもつ
おまえのほかに 誰もない
そばにいてくれる だけでいい
この曲は実にしっとりとした良い歌だ。Wikipediaによれば、作曲家の吉田正が自らの人生を陰で支え続けた夫人に対する感謝の念を込めて作った作品であり、吉田夫妻と親交のある岩谷時子が“おしどり夫婦”である同夫妻の仲睦まじさをイメージして作詞した、とも言われているそうだ。元は「大阪ろまん」(1966年)のB面曲だったそうだが、。1972(昭和47)年にシングルA面曲として発売して以降有線放送などを通じて徐々に広がり、5年後くらいに爆発的ヒットをした。本当に、夫婦というものは歳をとればとるほどに、この歌のように夫又妻が何も言わなくて良いからただ、じっとそばにいてくれるだけで良いよね~。こんな歌が、本当に実感として分るような年代に私もなってきた・・・・。
YouTube -おまえに
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=5M9P2RcA3Uk
兎に角、その歌唱力は素晴らしく、NHK紅白歌合戦の常連出場者でもあり、1957(昭和32)年の第8回から1982(昭和57)年の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は、島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。私の最も好きな男性歌手の1人であり、好きな曲を書き出すときりがないが、そんな彼が、突然、自宅で自殺を図るという事件が起きた。
1985(昭和60)年)のことである。上記に書いたような曲以降ヒット曲が減り、1983(昭和58)年以降紅白にも出なくなり、テレビなどで姿を見る機会が少なくはなったが、1983(昭和58)年の紅白落選の前の年には、山下達郎作詞・作曲の『Woman』が話題を呼んでいたので、まだまだ頑張れると思っていたのにショックであった。
何とか一命は取りとめたものの脳に障害が残り、会話が不自由となったほか、記憶が乏しくなるなどの後遺症を患ったようで、その後、リハビリにつとめていたようだが、歌手活動を再開するには至らなかった。昨:2008(平成20)年の今日・10月27日、東京の自宅で肺炎のため76歳で亡くなったことがマスコミで報道されたのは11月に入ってからのことであった(2008年11月2日日刊スポーツ 「フランク永井さん死去、国民的歌手逝った」参照)。国民的歌手になりながら、どうも、「おまえに」の歌と同じ様に、最期まで愛妻にずっとそばにいて見取ってもらえなかったようであり哀れである。
最後の話題曲となった山下達郎作詞・作曲「Woman」なかなかいい曲である。今日は、この歌を聴きながら、大好きであった彼を偲びたい。
YouTube - 追悼 =Image-Video= WOMAN
http://www.youtube.com/watch?v=mu7XjMh8c-4
他以下のようなものがおすすめ。
フランク永井名曲選①東京ナイトクラブ~君恋し~有楽町で逢いましょう~夜霧の第二国 道
http://www.youtube.com/watch?v=ozxKvD9Niko&feature=related
フランク永井名曲選②映像、電波露出の少なかったヒット曲・東京カチート~西銀座駅前~大阪野郎
http://www.youtube.com/watch?v=pLWed56O9Hg&feature=related
霧子のタンゴ フランク永井
http://www.youtube.com/watch?v=JUKpqDf_K3Q&feature=related
大阪ろまん
http://www.youtube.com/watch?v=u29VcL7Sg0M
大阪ぐらし1980
http://www.youtube.com/watch?v=D79H0SOonIo&feature=related
(画像は、舞台で歌うフランク永井、1963年、大阪市フェスティバルホール。2008・11・3朝日新聞より)
参考:
※:日本のジャズ・ポップス歌手達
http://f57.aaa.livedoor.jp/~maika/Japan_jazzplayer.htm
フランク永井 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E6%B0%B8%E4%BA%95
美空ひばり-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A
フランク永井 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1146480/
lover come back to me
http://homepage2.nifty.com/akijazzy/jazz/songs/jazz5lm/lovercom.html
※:『坂の上の雲』と脱イデオロギー - 郎女迷々日録 幕末東西
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/de7da52bbf5a2e4d1a35f005fdd125fd
※:君恋し: 二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/10/post_373e.html
三木鶏郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%B6%8F%E9%83%8E