日本記念日協会の今日3月3に8日の記念日に「鯖すしの日 」があった。
記念日の由来によると、滋賀県木ノ本町の北国街道(第二の鯖街道)沿いにあり、創業100年を数えるという老舗のすし店「すし慶」が制定したそうだ。初代より「鯖の棒すし」を作り続けている同店がそのおいしさや健康食品としての魅力をPRしたいからで、日付は3月8日を「サバ」と読む語呂合わせから だそうだ。
同店のホームページ(以下参考の※1参照)へアクセスしてみるとなかなか素敵なお座敷、日本庭園、そして、ギャラリーまで備えた魅力的な店舗のようだ。
北国街道は、江戸時代における北陸道の呼称であり、滋賀、福井、岐阜を連絡する街道であり、木之本町は、中山道・旧鳥居本宿(滋賀県彦根市)を起点に、米原、長浜を通って越前に至る北国街道沿いの宿場町として栄えた町。木之本地蔵院の門前町の古い庄屋や造り酒屋が並ぶ街道沿いは宿場の面影を色濃く残している。その街並にある同店の外観などは以下のYouTubeの最後の方で見ることが出来る。
YouTube - 北国街道~木ノ本地蔵院と門前町~
http://www.youtube.com/watch?v=M6W3bAk8tK4
「鯖すし」とは、サバを用いて作られる 棒すしの一種、または鯖のなれすし(熟れずし、馴れずし)のことである。近畿地方から中国地方(山陰から山間部にかけて)に広くみられる。若狭(福井県)や山陰地方、岡山県新見市などの郷土料理としても有名である。長方形に固めた酢飯の上に塩鯖の半身をのせ、出汁昆布で全体をくるみ、巻き簾で形を整えた後、竹皮で包んだ物である。バッテラとは異なり、型に入れる作業がない。山陰や若狭地方では焼いた鯖を乗せたものもある。
この鯖すしは、有名な京料理の一つでもあり、京都の庶民生活の中で祭りの日やハレの日の食卓に欠かせない御馳走であった。
海に囲まれた島国に住む日本人は古来、魚介類の好きな民族であるが、冷蔵技術が発達する以前に、海から遠く離れていて、交通機関も発達しておらず、新鮮な魚を手に入れることが困難であった内陸部の京都の人々にとって、鯖街道を通り若狭地方から運ばれてきたひと塩ものの鯖が貴重な海産物であり、この鯖を利用したすしが定着した。鯖すしはそうした時代の名残をとどめており、鮮魚が豊富に手に入るようになった現代でも、鯖すしが、京都のすしの代表であることに変わりはない。
ところで、ここでは、あえて「すし」の字に、漢字を使用していないが、「すし」の漢字には、「鮓」、「鮨」、「寿司」などの字が使われるが、「「すし」の字の日本における文献初見は、古く、651(白雉2)年に制定された大宝律令に続く律令として718(養老2)年に施行された同法の修正法『養老令』(養老律令参照)の調・庸などの賦課基準や品目、力役の賦課基準や徴発手続き等を定めた巻十「賦役令」(現在の租税法に相当)に、「鰒(アワビ)の鮓(すし)、貽貝(イガイ)の鮓のほかに雑魚の鮨(すし)」が見える(以下参考の※2::「官制大観」の現代語訳「養老令」の中の第十賦役令中01〜14条の中の01のところを参照)ように、昔からの「すし」の字には、「鮓」または「鮨」が使われている。
この「すし」という文字の中で、最古のものが「鮨」で、「魚を塩漬けした食品」(=魚の塩辛)を意味する文字として、中国の秦の時代(紀元前300~400年頃)の中国の辞書『爾雅(じが)』に登場しているという。
又、後漢(西暦100年頃)の『説文解字(せつもんかいじ)』と言う辞書に「鮓」の文字が登場し、「魚を塩で醸したもの」だと説明されているようだ。そして、その少し後、後漢末期(西暦200頃)の劉煕(りゆうき)撰『「釈名(しゃくみょう)』には、「塩と米を使って魚を葅(そ=つけもの)のようにつけて終わってから食べる」と言う意味のことが書かれているらしい(以下参考の※3:「京都と鮨・朱雀錦」参照)。従って、『養老令』に出てくる「すし」もこれと同様に魚肉や貝類を塩漬け発酵させた保存食であったようだ。
これは、現在我国の寿司で最も原始的な作り方を残す「なれすし」である滋賀県の名産鮒すしの原型とも言える食品のようで、米はあくまでも発酵用の素材であり、鮒ずしと同様、飯は捨て、魚だけを食べていたようである。
「なれ鮓」は中国貴州省など、東南アジア内陸部山間地で保存食として作られていたといわれる。魞(えり)(魚編に入る 1文字)の漁法(以下参考の※4参照)とともに6世紀以前に大陸から渡来したと推定され、古代には湖北に近い筑摩(つくま)の御厨(彦根市米原町の湖岸一帯)が本場であったそうだ。
滋賀県大津市の老舗阪本屋(以下参考の※5参照)は鮒ずしの老舗として有名であるが、本式の鮒鮓は飯と魚を樽一杯に1年近くも漬け込む「なれずし」で鼻を突く乳酸菌の臭気のため、普通の人の口には到底合わない。だから阪本屋でも今出しているのは今風にアレンジした臭み抜きの寿司で、中世の人々が無上の美味として賞賛した鮒鮓とは違う。
産卵のため湖岸近くに寄ってきた鮒を大樽に米飯と共に漬け込むのである。それが一冬を越すと、飯はもとより鮒の骨まで発酵して柔らかくなる。それが鮒鮓である。
中世には鮒鮓は近江一円は勿論のこと、京都の町衆にも親しまれ、宮中の食膳にも供せられていた。近世に入ると、若狭の塩鯖を材とした鯖鮓が一般的になり、鮒鮓は今では琵琶湖の人々にも敬遠されているようだが、この鮒を売り捌いたのが、湖西の堅田地方の漁師や粟津の供御人たちであった。粟津供御人は、現在の大津市内の、琵琶湖が宇治川に注ぎ込む咽喉元に位置する地域の漁民・魚売りであり、平安後期より関銭免除の特権をあたえられ、京都で魚を販売。生鮮魚介類からはじまって、戦国時代には日常必需物資の専売権を入手し、ついには京都に於ける総合商社のような存在にのし上がったという。(週間朝日百科『日本の歴史20』中世Ⅱー9琵琶湖と淀にの水系)。
「なれずし」は漬け込んだ米を食べるか食べないかという点で「ほんなれ」と「なまなれ」に分類される。「ほんなれ」では漬け込む期間が長く(数ヶ月から1年近く)、魚の体内体外に一緒に漬け込まれた米が乳酸発酵によって流状化して米粒の実体がかなり失われることもあって、米は食べずに魚のみを食べる。「なまなれ」は漬け込む期間が短く、魚と一緒に漬け込まれた米が流状化する前に米も魚と共に食する。伝来当初の「なれずし」は熟成期間の長いもので「ほんなれ」と呼ばれているものであった。室町時代になってから発酵(熟成)期間を数日に短縮した「なまなれ」(またはその中間の半なれ)と呼ばれるものがつくられるようになり、酸っぱい米飯も食材と一緒に食べるようになり、保存食から寿司という料理へ変化した。この「なれずし」が、江戸時代になって酢が出回るようになると、もはや発酵を省略し、飯に酢を入れて酸っぱくし、シメサバなどを使った押し寿司や箱寿司が作られるようになった。
鯖街道とは、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称であり、主に魚介類を京都へ運搬するために整備された物流ルートとなっており、その魚介類の中でも特に鯖(サバ)が多かったために後にこの名で呼ばれるようになった。
小浜の町人学者である板屋一助が1767(明和4)年に著した『稚狭考』には、本来は能登沖の鯖が有名で、それが獲れなくなり、若狭の鯖が有名になったということのようである。それらを運んだ鯖街道はいくつかのルートあるが、その中でもっとも盛んに利用されたのが若狭街道(現在の福井県小浜市から京都市左京区出町柳)つまり、小浜、を出発し、熊川宿、朽木村(現:滋賀県高島市)、途中 (大津市。途中越参照)、大原、出町に至るまでルート(概ね国道27号・国道367号あたり)を言っているが、往時の鯖街道は現在の国道367号ではなく、大見尾根を経由する山道であった。この道では大きな荷物を馬借による輸送が行われていたようだ。
街道はほかにも、小浜から北川の水路を使い馬で峠を越え九里半街道から琵琶湖の今津に至るルートのほか、最短距離の針畑峠(小浜市上根来・滋賀県高島市朽木小入谷)を越え、鞍馬を経由し出町に至る針畑越え(小浜街道)や堀越峠
を越えて京都高尾へとつながる周山街道、美浜町(現在:若狭町)から滋賀県赤坂山の山腹にある栗柄峠を越えて海津(高島市マキノ町)へ抜ける栗柄越え(西近江路)と京都を繋ぐ街道など全てが鯖街道であり、ルートにはそれぞれ固有の呼び名がある。(以下参考の※6:「田村長ホームページ」参照。そこには詳しい鯖街道繪図と説明がある)。
中でも小入谷、根来坂、針畑峠、久多(京都市左京区久多)、花背峠、鞍馬、出町柳へと続いた針畑峠越えの最短距離のルートが最も古くから、よく利用されたとも言われ、江戸期までは「若狭路」といえば、このルートを指していたようだ。
牛や馬では通れない山道が多い地域では、若狭湾で獲れた鯖にひと塩したものを人が背負子(しょいこ)に担いで、徒歩で京都まで運んでいたが、最短距離のルートである針畑峠越えのこの街道でも、京都まで18里(約72km)と、遠く、しかも起伏の激しい山道で、標高900m前後の峠を4つ越えなければならない難所の多い道。「京は遠ても十八里」を合言葉に寝ずに歩き通し、翌朝、京都に着く頃には、塩になじんだ鯖がちょうど良い味になり、都の人々に喜ばれその到着を待ち焦がれていたと言われているが、この頃は、一人で担げる荷物にも限りがあり、輸送のコストも考えると、上流階級や金持ちの町人にしか買えない高価な食材であったと推定される。
しかし、江戸時代になり、若狭街道(現在の国道367号線)が開通すると、荷車の運行が可能となり、当時としては大量輸送が可能となった。 また、18世紀半ばから日本海で鯖が大量に捕れるようになり大量の塩鯖が若狭地方から京都に運ばれたことから塩鯖は高級食材から、庶民の食材に変わった。
現代の鯖寿司は、新鮮な鯖の旨味をいかにして引き出し、持続させるか、という試行錯誤の末に生まれた寿司だといえる。
鯖は「サバの生き腐れ」と呼ばれる程鮮度低下の速度が速く食あたりの危険性のある魚である。これは、サバの持つタンパク質分解酵素が強いため、死ぬとすぐに自分の体を分解し、中毒を起こすヒスタミンを生じさせることが原因だといわれている。そのため、水揚げされると即座に塩漬けにされることも珍しくなかったようだ。
若狭から鮮魚の入荷が困難であった京都へ、陸にあげられた鯖に塩をまぶしたものが、「鯖街道」を夜通し歩いて京都まで運ぶと丁度よい味に漬かったことから、京都で、塩鯖を使った料理が研究・開発された料理が鯖寿司であった。そして、 特に三大祭(葵祭り、祇園祭り、時代祭り)にはなくてはならない料理になり、全ての家庭で鯖寿司が作られたと言われている。
私は、子供の頃から魚嫌いであり、殆どの魚を食べなかったが、中でも嫌いだったのが鯖などの背の青い魚であった。成人しても若いうちは食べなったが、仕事で、全国を出張するようになると、地元の旅館や料亭で、こわごわ、地元の魚料理を食べるようになると、その美味しさに、徐々に魚アレルギーが治っていった。
最後まで食べなかった背の青い魚・鯖を初めて食べたのは、金沢であった。仕事場に近い地元の人が良く使う旅館を仕事先に紹介してもらったのだが、そこの女将から、お客様にこのようなものをお出しするのは失礼かも知れませんが、地元でもこれだけ立派な鯖は滅多に食べれませんと言って、よろしかったらお召し上がりくださいといって、鯖のきずしを出してくれた。
恐る恐る食べた鯖がこんなに美味しいものかと驚いた。しかし、考えて見れば、私が子供の頃など、流通が発達しておらず、鯖などの魚に鮮度の良いものはなく、いつも厭な臭いがしていたが、地元で獲れた鮮度の良い魚は本当に美味いいものだということを本場の産地へ出張するようになって知ったのだ。
今でも鯖の煮つけなどは弱いが、鯖寿司は大好物の1つとなっており、夕食には、寿司としてだけでなく、お惣菜の1品として2~3切れの鯖寿司を添えるなどして、しょっちゅう食べている。その変わり様にもともと魚好きの家人も驚いているくらいだ。
参考:
※1:すし慶HP
http://www.sushikei.com/
※2:官制大観
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/index.html
※3:京都と鮨・朱雀錦
http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/index.html
※4:琵琶湖の伝統漁法えり漁/滋賀県
http://www.pref.shiga.jp/about_shiga/fuwari/09_05/
※5:鮒ずし元祖阪本屋
http://www.sakamotoya.biz/index.htm
※6:田村長ホームページ
http://www.tamuracho.co.jp/sabakaidou/
針畑峠
http://www.geocities.jp/tugukeiko12/saka1/harihata.html
Kyoto Shimbun 街道を巡る「若狭街道」
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/ojikoji/kaido/wakasa1.html
フィールド・ミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/_index.html
『福井県史』通史編4 近世二
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T4/T4-5-01-03-05-02.htm
鯖寿司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%96%E5%AF%BF%E5%8F%B8
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
記念日の由来によると、滋賀県木ノ本町の北国街道(第二の鯖街道)沿いにあり、創業100年を数えるという老舗のすし店「すし慶」が制定したそうだ。初代より「鯖の棒すし」を作り続けている同店がそのおいしさや健康食品としての魅力をPRしたいからで、日付は3月8日を「サバ」と読む語呂合わせから だそうだ。
同店のホームページ(以下参考の※1参照)へアクセスしてみるとなかなか素敵なお座敷、日本庭園、そして、ギャラリーまで備えた魅力的な店舗のようだ。
北国街道は、江戸時代における北陸道の呼称であり、滋賀、福井、岐阜を連絡する街道であり、木之本町は、中山道・旧鳥居本宿(滋賀県彦根市)を起点に、米原、長浜を通って越前に至る北国街道沿いの宿場町として栄えた町。木之本地蔵院の門前町の古い庄屋や造り酒屋が並ぶ街道沿いは宿場の面影を色濃く残している。その街並にある同店の外観などは以下のYouTubeの最後の方で見ることが出来る。
YouTube - 北国街道~木ノ本地蔵院と門前町~
http://www.youtube.com/watch?v=M6W3bAk8tK4
「鯖すし」とは、サバを用いて作られる 棒すしの一種、または鯖のなれすし(熟れずし、馴れずし)のことである。近畿地方から中国地方(山陰から山間部にかけて)に広くみられる。若狭(福井県)や山陰地方、岡山県新見市などの郷土料理としても有名である。長方形に固めた酢飯の上に塩鯖の半身をのせ、出汁昆布で全体をくるみ、巻き簾で形を整えた後、竹皮で包んだ物である。バッテラとは異なり、型に入れる作業がない。山陰や若狭地方では焼いた鯖を乗せたものもある。
この鯖すしは、有名な京料理の一つでもあり、京都の庶民生活の中で祭りの日やハレの日の食卓に欠かせない御馳走であった。
海に囲まれた島国に住む日本人は古来、魚介類の好きな民族であるが、冷蔵技術が発達する以前に、海から遠く離れていて、交通機関も発達しておらず、新鮮な魚を手に入れることが困難であった内陸部の京都の人々にとって、鯖街道を通り若狭地方から運ばれてきたひと塩ものの鯖が貴重な海産物であり、この鯖を利用したすしが定着した。鯖すしはそうした時代の名残をとどめており、鮮魚が豊富に手に入るようになった現代でも、鯖すしが、京都のすしの代表であることに変わりはない。
ところで、ここでは、あえて「すし」の字に、漢字を使用していないが、「すし」の漢字には、「鮓」、「鮨」、「寿司」などの字が使われるが、「「すし」の字の日本における文献初見は、古く、651(白雉2)年に制定された大宝律令に続く律令として718(養老2)年に施行された同法の修正法『養老令』(養老律令参照)の調・庸などの賦課基準や品目、力役の賦課基準や徴発手続き等を定めた巻十「賦役令」(現在の租税法に相当)に、「鰒(アワビ)の鮓(すし)、貽貝(イガイ)の鮓のほかに雑魚の鮨(すし)」が見える(以下参考の※2::「官制大観」の現代語訳「養老令」の中の第十賦役令中01〜14条の中の01のところを参照)ように、昔からの「すし」の字には、「鮓」または「鮨」が使われている。
この「すし」という文字の中で、最古のものが「鮨」で、「魚を塩漬けした食品」(=魚の塩辛)を意味する文字として、中国の秦の時代(紀元前300~400年頃)の中国の辞書『爾雅(じが)』に登場しているという。
又、後漢(西暦100年頃)の『説文解字(せつもんかいじ)』と言う辞書に「鮓」の文字が登場し、「魚を塩で醸したもの」だと説明されているようだ。そして、その少し後、後漢末期(西暦200頃)の劉煕(りゆうき)撰『「釈名(しゃくみょう)』には、「塩と米を使って魚を葅(そ=つけもの)のようにつけて終わってから食べる」と言う意味のことが書かれているらしい(以下参考の※3:「京都と鮨・朱雀錦」参照)。従って、『養老令』に出てくる「すし」もこれと同様に魚肉や貝類を塩漬け発酵させた保存食であったようだ。
これは、現在我国の寿司で最も原始的な作り方を残す「なれすし」である滋賀県の名産鮒すしの原型とも言える食品のようで、米はあくまでも発酵用の素材であり、鮒ずしと同様、飯は捨て、魚だけを食べていたようである。
「なれ鮓」は中国貴州省など、東南アジア内陸部山間地で保存食として作られていたといわれる。魞(えり)(魚編に入る 1文字)の漁法(以下参考の※4参照)とともに6世紀以前に大陸から渡来したと推定され、古代には湖北に近い筑摩(つくま)の御厨(彦根市米原町の湖岸一帯)が本場であったそうだ。
滋賀県大津市の老舗阪本屋(以下参考の※5参照)は鮒ずしの老舗として有名であるが、本式の鮒鮓は飯と魚を樽一杯に1年近くも漬け込む「なれずし」で鼻を突く乳酸菌の臭気のため、普通の人の口には到底合わない。だから阪本屋でも今出しているのは今風にアレンジした臭み抜きの寿司で、中世の人々が無上の美味として賞賛した鮒鮓とは違う。
産卵のため湖岸近くに寄ってきた鮒を大樽に米飯と共に漬け込むのである。それが一冬を越すと、飯はもとより鮒の骨まで発酵して柔らかくなる。それが鮒鮓である。
中世には鮒鮓は近江一円は勿論のこと、京都の町衆にも親しまれ、宮中の食膳にも供せられていた。近世に入ると、若狭の塩鯖を材とした鯖鮓が一般的になり、鮒鮓は今では琵琶湖の人々にも敬遠されているようだが、この鮒を売り捌いたのが、湖西の堅田地方の漁師や粟津の供御人たちであった。粟津供御人は、現在の大津市内の、琵琶湖が宇治川に注ぎ込む咽喉元に位置する地域の漁民・魚売りであり、平安後期より関銭免除の特権をあたえられ、京都で魚を販売。生鮮魚介類からはじまって、戦国時代には日常必需物資の専売権を入手し、ついには京都に於ける総合商社のような存在にのし上がったという。(週間朝日百科『日本の歴史20』中世Ⅱー9琵琶湖と淀にの水系)。
「なれずし」は漬け込んだ米を食べるか食べないかという点で「ほんなれ」と「なまなれ」に分類される。「ほんなれ」では漬け込む期間が長く(数ヶ月から1年近く)、魚の体内体外に一緒に漬け込まれた米が乳酸発酵によって流状化して米粒の実体がかなり失われることもあって、米は食べずに魚のみを食べる。「なまなれ」は漬け込む期間が短く、魚と一緒に漬け込まれた米が流状化する前に米も魚と共に食する。伝来当初の「なれずし」は熟成期間の長いもので「ほんなれ」と呼ばれているものであった。室町時代になってから発酵(熟成)期間を数日に短縮した「なまなれ」(またはその中間の半なれ)と呼ばれるものがつくられるようになり、酸っぱい米飯も食材と一緒に食べるようになり、保存食から寿司という料理へ変化した。この「なれずし」が、江戸時代になって酢が出回るようになると、もはや発酵を省略し、飯に酢を入れて酸っぱくし、シメサバなどを使った押し寿司や箱寿司が作られるようになった。
鯖街道とは、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称であり、主に魚介類を京都へ運搬するために整備された物流ルートとなっており、その魚介類の中でも特に鯖(サバ)が多かったために後にこの名で呼ばれるようになった。
小浜の町人学者である板屋一助が1767(明和4)年に著した『稚狭考』には、本来は能登沖の鯖が有名で、それが獲れなくなり、若狭の鯖が有名になったということのようである。それらを運んだ鯖街道はいくつかのルートあるが、その中でもっとも盛んに利用されたのが若狭街道(現在の福井県小浜市から京都市左京区出町柳)つまり、小浜、を出発し、熊川宿、朽木村(現:滋賀県高島市)、途中 (大津市。途中越参照)、大原、出町に至るまでルート(概ね国道27号・国道367号あたり)を言っているが、往時の鯖街道は現在の国道367号ではなく、大見尾根を経由する山道であった。この道では大きな荷物を馬借による輸送が行われていたようだ。
街道はほかにも、小浜から北川の水路を使い馬で峠を越え九里半街道から琵琶湖の今津に至るルートのほか、最短距離の針畑峠(小浜市上根来・滋賀県高島市朽木小入谷)を越え、鞍馬を経由し出町に至る針畑越え(小浜街道)や堀越峠
を越えて京都高尾へとつながる周山街道、美浜町(現在:若狭町)から滋賀県赤坂山の山腹にある栗柄峠を越えて海津(高島市マキノ町)へ抜ける栗柄越え(西近江路)と京都を繋ぐ街道など全てが鯖街道であり、ルートにはそれぞれ固有の呼び名がある。(以下参考の※6:「田村長ホームページ」参照。そこには詳しい鯖街道繪図と説明がある)。
中でも小入谷、根来坂、針畑峠、久多(京都市左京区久多)、花背峠、鞍馬、出町柳へと続いた針畑峠越えの最短距離のルートが最も古くから、よく利用されたとも言われ、江戸期までは「若狭路」といえば、このルートを指していたようだ。
牛や馬では通れない山道が多い地域では、若狭湾で獲れた鯖にひと塩したものを人が背負子(しょいこ)に担いで、徒歩で京都まで運んでいたが、最短距離のルートである針畑峠越えのこの街道でも、京都まで18里(約72km)と、遠く、しかも起伏の激しい山道で、標高900m前後の峠を4つ越えなければならない難所の多い道。「京は遠ても十八里」を合言葉に寝ずに歩き通し、翌朝、京都に着く頃には、塩になじんだ鯖がちょうど良い味になり、都の人々に喜ばれその到着を待ち焦がれていたと言われているが、この頃は、一人で担げる荷物にも限りがあり、輸送のコストも考えると、上流階級や金持ちの町人にしか買えない高価な食材であったと推定される。
しかし、江戸時代になり、若狭街道(現在の国道367号線)が開通すると、荷車の運行が可能となり、当時としては大量輸送が可能となった。 また、18世紀半ばから日本海で鯖が大量に捕れるようになり大量の塩鯖が若狭地方から京都に運ばれたことから塩鯖は高級食材から、庶民の食材に変わった。
現代の鯖寿司は、新鮮な鯖の旨味をいかにして引き出し、持続させるか、という試行錯誤の末に生まれた寿司だといえる。
鯖は「サバの生き腐れ」と呼ばれる程鮮度低下の速度が速く食あたりの危険性のある魚である。これは、サバの持つタンパク質分解酵素が強いため、死ぬとすぐに自分の体を分解し、中毒を起こすヒスタミンを生じさせることが原因だといわれている。そのため、水揚げされると即座に塩漬けにされることも珍しくなかったようだ。
若狭から鮮魚の入荷が困難であった京都へ、陸にあげられた鯖に塩をまぶしたものが、「鯖街道」を夜通し歩いて京都まで運ぶと丁度よい味に漬かったことから、京都で、塩鯖を使った料理が研究・開発された料理が鯖寿司であった。そして、 特に三大祭(葵祭り、祇園祭り、時代祭り)にはなくてはならない料理になり、全ての家庭で鯖寿司が作られたと言われている。
私は、子供の頃から魚嫌いであり、殆どの魚を食べなかったが、中でも嫌いだったのが鯖などの背の青い魚であった。成人しても若いうちは食べなったが、仕事で、全国を出張するようになると、地元の旅館や料亭で、こわごわ、地元の魚料理を食べるようになると、その美味しさに、徐々に魚アレルギーが治っていった。
最後まで食べなかった背の青い魚・鯖を初めて食べたのは、金沢であった。仕事場に近い地元の人が良く使う旅館を仕事先に紹介してもらったのだが、そこの女将から、お客様にこのようなものをお出しするのは失礼かも知れませんが、地元でもこれだけ立派な鯖は滅多に食べれませんと言って、よろしかったらお召し上がりくださいといって、鯖のきずしを出してくれた。
恐る恐る食べた鯖がこんなに美味しいものかと驚いた。しかし、考えて見れば、私が子供の頃など、流通が発達しておらず、鯖などの魚に鮮度の良いものはなく、いつも厭な臭いがしていたが、地元で獲れた鮮度の良い魚は本当に美味いいものだということを本場の産地へ出張するようになって知ったのだ。
今でも鯖の煮つけなどは弱いが、鯖寿司は大好物の1つとなっており、夕食には、寿司としてだけでなく、お惣菜の1品として2~3切れの鯖寿司を添えるなどして、しょっちゅう食べている。その変わり様にもともと魚好きの家人も驚いているくらいだ。
参考:
※1:すし慶HP
http://www.sushikei.com/
※2:官制大観
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/index.html
※3:京都と鮨・朱雀錦
http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/index.html
※4:琵琶湖の伝統漁法えり漁/滋賀県
http://www.pref.shiga.jp/about_shiga/fuwari/09_05/
※5:鮒ずし元祖阪本屋
http://www.sakamotoya.biz/index.htm
※6:田村長ホームページ
http://www.tamuracho.co.jp/sabakaidou/
針畑峠
http://www.geocities.jp/tugukeiko12/saka1/harihata.html
Kyoto Shimbun 街道を巡る「若狭街道」
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/ojikoji/kaido/wakasa1.html
フィールド・ミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/_index.html
『福井県史』通史編4 近世二
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T4/T4-5-01-03-05-02.htm
鯖寿司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%96%E5%AF%BF%E5%8F%B8
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html