今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

大暑

2009-07-23 | 行事
2009(平成21)年7月23日の今日は「大暑」
大暑(たいしょ)は、二十四節気の1つ。太陽黄経が120度のときで、旧暦の6月中。現行の太陽暦で、この7月23日頃から立秋(8月7日頃)までの期間をいう。この期間は暑さが最も厳しくなる。いよいよ夏本番到来といったところ。
「わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添えるつもりで、思わずいろいろなことを書き、親戚から送って貰った桃の葉で僅かに汗疹(あせも)を凌いだこと、遅くまで戸も閉められない眠りがたい夜の多かったこと、覚えて置こうと思うこともかなり多いと書いて見た。この稀な大暑を忘れないため、流しつづけた熱い汗を縁側の前の秋草にでも寄せて、寝言なりと書きつけようと思う心持をもその時に引き出された。ことしのような年もめずらしい。わたしの住む町のあたりでは秋をも待たないで枯れて行った草も多い。」
島崎 藤村の 「秋草」(以下参考の青空文庫・島崎 藤村 「秋草」参照)よりの抜粋だ。
この文中に書かれているように、昔からの葉が汗疹(あせも)によく効くと言われており、江戸時代から夏の土用には桃湯に入る習慣があったようだが、今では、煮出してローションを作るための桃の葉も売っているようだ。私も汗をよくかく体質であり、夏の暑い日などは少し動いただけで汗だくになり、汗疹に悩まされる。だから風呂上りだけではなく、日によっては1日数回、赤ちゃん用のベビーパウダーを使っているが、今年はもう湯上りにはお世話になっているよ。かって暑い夏の夜は、夜の冷気を呼び込むために窓の戸を閉めずに寝たものだが、昔と違って、夜遅くまで行動している人も多くなっているので、窓を開けていると、犬の遠吠えや猫のさかりといった自然音声だけでなく、いろいろな人の社会の雑音までもが家の中に入ってきて寝れなかったが、幸い冷房用のクーラーの御蔭で窓を閉めて寝るようになってからそのような雑音に悩まされずに済むようになって助かっている。
「兎も片耳垂るる大暑かな 」
この句は、高浜虚子に学んだ芥川龍之介の代表句集 『澄江堂句集』(昭和2年)に掲載されている破調の句(以下参考に記載の「澄江堂句集」参照)であるが、この句にはなんとなく俳句の枠をはみ出そうとする雰囲気がみてとれる。 何時もピンと耳を立てている兎も夏の暑い時期になると耳が垂れているんだね~。
芥川はを澄江堂主人、俳号は我鬼を用いた。以下参考の「青空文庫作家別作品リスト」に掲載されている『続澄江堂雑記』(ぞくちょうこうどうざっき) の”三 澄江堂”のなかで、「僕になぜ澄江堂(ちようかうだう)などと号するかと尋ねる人がある。なぜと言ふほどの因縁(いんねん)はない。唯いつか漫然と澄江堂と号してしまつたのである。(中間略)僕は時々本名の外に入らざる名などをつけることはよせば好かつたと思つてゐる。」とあるように、特別に意味があってつけた訳ではないようだ。俳号の「我鬼」にしてもなにかわざと自分を卑下し謙遜から名づけられたのかも・・。この句集を作った1927(昭和2)年7月24日未明、友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し、35歳という若さで服毒自殺を図っている。
「唯ぼんやりした不安」は、芥川が自殺の動機として記した言葉として有名であるが実際には、自殺直前の『河童』を初めとする晩年の作品群から厭世的、あるいは「病」的な心境から自殺に至ったものであるようだ。兎に角、芥川がなくなった1927(昭和2)年の7月も梅雨明けから酷い暑さだったようだ。
夏の土用は大暑の数日前から始まり、大暑の間じゅう続き、この時期は蒸し暑さに襲われることで体力の消耗も激しく、私なども気が変になりそうになる。夏の暑さで気分が可笑しくならない又夏バテ防止をするために江戸時代から精力のつくウナギを食べる習慣があるがこれは、江戸時代の本草学者であり、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家)でもある平賀源内の発案によるものだということはよく知られている通りだ。夏の土用の時期が最も蒸し暑いころであることから、この時期に暑中見舞いを送るものとされている。これから8月上旬までが暑さのピーク。地球温暖化都市化による「ヒートアイランド」現象のため、年々真夏日や熱帯夜が増え、平均気温が高くなっており(日本の平均気温参照)、全国各地の最高気温も記録を更新。気象庁は真夏の最高気温が30度以上を「真夏日」 としていたが、それを上回る日が多くなったので、2007(平成17)年には35度以上を猛暑日と「予報用語」を改正しているが、今年もこの暑さのため熱中症にかかる人が激増しているという。この熱中症は、日中でなくても夜間の寝ているときにもかかるようであり、重症になると命を落とす危険もあるそうだから、夜寝る前にも水分補給をするなど、こまめに水分を補給をしておかないとね~。特に、老人の場合は、水分不足でも喉の渇きを感じないらしいから気をつけないと・・・。我が家では、夫婦で、それぞれがペットボトルに入れた蒸留水を1本づつ持ち歩いているよ・・・。又、熱帯夜で睡眠不足が続くと、夏バテしてしまうが、そうだからと言って、エアコンを使うのもよいが、冷え過ぎで体調を崩さないようにしないとね。また、暑い時は余り無理をしての外出などしない方が良いようだ。兎に角、今年もこれから暑い暑い日が続きそうなので、栄養面にも気をつけて、厳しい夏場乗り切ろうね。
(画像は、Global Warming Predictions 【地球温暖化予測】1960~1990年の平均値に対する2070年から2100年の地表面の平均気温変化量の予測。Wikipediaより)
参考:
二十四節気- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%AF%80%E6%B0%97
モモ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83
FAQ/こよみのぺーじ
http://koyomi.vis.ne.jp/wiki/index.php?FAQ
青空文庫・島崎 藤村 「秋草」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/card46459.html
紀州豊味蔵:豆知識:桃
http://www.caplus-web.com/shop/trivia_momo.html
島崎藤村 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%97%A4%E6%9D%91
芥川龍之介 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B
高浜虚子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B5%9C%E8%99%9A%E5%AD%90
青空文庫作家別作品リスト:芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html
実りのとき 目刺にのこる海の色
http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/akutagawa/akutagawa.html
澄江堂句集
http://ww41.tiki.ne.jp/~haruyasumi/works/chokodokushu.txt
ウラアオゾラブンコ
http://uraaozora.jpn.org/
気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
地球温暖化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96
ヒートアイランド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
芥川龍之介と鰻
http://www.kajika.net/yoshida/920701.htm


文筆家であり江戸風俗研究家・杉浦日向子の忌日

2009-07-22 | 人物
今日・7月22日は、文筆家であり江戸風俗研究家の杉浦日向子の2005(平成17)年の忌日である。・・・と言っても、私は、彼女の本を読んだこともないので、彼女のことは、1995(平成7)年から2004(平成16)年にかけて、9年余り、NHK総合テレビ「コメディーお江戸でござる」のレギュラーを勤め、江戸文化の案内役を担当し、お茶の間の人気を集めていたこと。それと、着物・お酒が大好きな人であったらしいということ。気の毒に、下咽頭癌(以下参考の※1:下咽頭癌参照)で、亡くなった時は、まだ46歳の若さだったということぐらいである。
私も江戸時代の文化等には前々より大変興味を持っていたので、冒頭に掲載の画像:右の本「NHKデーター情報部編・ヴィジュアル百科・江戸事情」(全六巻中の第一巻「生活編」)など購入し、何かあるごとにこの本を利用して当時の江戸文化に触れ楽しんでいたので、この放送が始まってからは欠かさず見ていたし、彼女が亡くなったことを非常に残念に思っている1人である。
しかし、彼女の忌日だからといって、彼女のことはNHKの番組を通じてのことしか知らないので、彼女が亡くなった当時の新聞等の報道やWikipediaに書かれていることから簡単に書いておこう。
杉浦日向子(すぎうらひなこ、本名 鈴木 順子)は、1958(昭和33)年11月30日、東京・日本橋の呉服屋に生まれということで、江戸文化には特別な思い入れがあり傾倒していたようだ。もともとアート・ディレクターを志望して日大芸術学部に入学していたが、講義に興味が持てず、2年で中退。家業を手伝いながら、手描きの友禅の勉強をしていたが、やがて、独学で勉強できる「時代考証」に興味を抱き、稲垣史生の正式な「弟子」として、稲垣の川越の自宅に3年間通ったという。そして時代考証を学ぶかたわら、1980(昭和55)年に初めて吉原を題材にして描いた漫画「虚々実々通言室之梅」を雑誌『ガロ』に送ったところ掲載され、漫画家としてデビュー。内容は町人に化けて吉原に登楼した侍が遊女にふられる話のようであるが、この時のマンガそのものは、まだ、線も確りしておらず上出来とはいえないものの、時代考証は確かな作品だったようだ。絵は浮世絵を下地にした独特な画風を得意としており、以来、一貫して江戸風俗を題材にした作品を描き、1984(昭和59)年『合葬』で、日本漫画家協会賞優秀賞、1988(昭和63)年『風流江戸雀』で文藝春秋漫画賞を受賞。庶民の粋な風俗や生活感あふれる日常描写を得意とし、漫画家としての代表作には、葛飾北斎と浮世絵師たちの世界を描いた連作短編集『百日紅』、99話の怪談を描いた『百物語』などがあるが、1993(平成5)年に漫画家引退宣言をし「隠居生活」と称しその後、自らのライフワークである江戸風俗研究家として活動しながら、好きなお酒とそばを楽しんだり、世界各地の船旅に出かけたり、積極的に人生を味わっていたのは、骨髄移植以外に完治する方法のない血液の免疫系の病を患っており、体力的に無理が利かなかったからであることが、死後明らかにされているようだ。
「コメディーお江戸でござる」は、演劇(4幕)、歌、「杉浦日向子のおもしろ江戸ばなし」の3部構成で出来ていた。
演劇は、江戸の町人の暮らしをコミカルに描いた喜劇であり、主役はあくまで町人・商人であり、舞台も商家や長屋が主であった。この演劇では、なんと言ってもご隠居や商家の主人役を演じた座長格の伊東四朗の存在が大きかったな~。それと、番組の当初、賢い利発な小僧や丁稚役を演じていたえなりかずきは、まだ11・2歳の頃であり、本当に利発そうで可愛かった。しかし座長格の伊東が1999(平成11)年3月に降板してから、この劇の面白みは半減した感じがする。
歌謡コーナーは、 演劇にも出演した女性演歌歌手が、自らの持ち歌を披露していた。
「杉浦日向子のおもしろ江戸ばなし」のコーナーでは、舞台での寸劇の後、杉浦が舞台に出てきた場所や職業、物や流行など、江戸の町人文化を時代考証をしながら紹介。このコーナーの進行はその時の座長格の出演者が務めた。
大きな目をクリクリさせながら江戸の生活や文化をわかりやすい言葉で語る杉浦の姿は、親しみやすさの中にも風格すら漂っていたが、この時、すでに、体力的には、かなり、きつかったのだろうね~。何時も着物を着てニコニコ笑顔を絶やさず話していたが、この番組に出る以前のまだ健康面に問題の無いころの彼女の姿を知らないが、この番組での彼女の体の線の細さは、あまりにも痩せていてなにか痛々しい感じがしていた。彼女は、体調の問題から、この番組の最終回とその前の回のみ、作家・江戸文化研究者でもある石川英輔に代理出演してもらっている。
この番組終了後、同年4月から同じ放送枠で、リニューアルされた「コメディー道中でござる」でも石川が引き続き解説を担当した。 しかし、杉浦の噛み砕いた解説と比べ、石川の解説は学術的な解説だったため、視聴者からは「判りにくい」との声も寄せられたといい、1年間放映されたが、2005(平成17)年4月からは土曜特集内で不定期に2006(平成18)年3月まで放送された。また、杉浦は「おもしろ江戸ばなし」の解説を降板した翌・2005(平成17)年の今日亡くなった。
杉浦の語る「江戸」は、どこを指しているのだろうか。以前にネットで呼んだ「らっしゃい東京 インタビュー:杉浦日向子さん」によると、以下のようだった。
“江戸の語源は「入江の戸口」にある土地からきている。江戸の町は現在の山手線の内側の、非常に狭い土地で、港区、千代田区、中央区の三区を中心に、ちょっと周りを広げた位の広さだった。江戸の下町というのは、神田川より南、隅田川より西、江戸城から東、江戸湾から北の細長い一帯(現在の神田、日本橋、銀座、新橋あたり)でしかなかった。なぜ、下町かというと、お城のすぐ近くにある商業地、町人地が、お城の下にある町ということで、「城下(しろした)の町」「下町」なのだ”そうだ。
そんな、江戸時代は、庶民が輝く独特な社会文化をつくりあげていた。今、江戸が注目されているが、それは、単なる懐古趣味からだけではない。江戸時代は、現代以上にリサイクル社会であり、庶民の生活も、精神的にはゆとりのあった時代なのだ。時代劇に出てくるような悪代官や意地悪な大家さんなど芝居や映画の産物で、実際には人情味のある庶民に思いやりのある人達が多かったのだ。そして、庶民の間の絆は強く、弱い者、困って居る者はみんなで助け合う良い社会があった。仕事をしても丸1日仕事をすることは多くは無く、時間的にはゆとりがあり、文学への関心も深く、子供も寺子屋で勉学をさせていた。そんな中で真面目に働けば、結構お金も稼げたようだ。ただ、そんなにお金お金とあくせくしなかっただけ。「宵越しの金は持たない」は江戸っ子の粋だからね~。江戸時代の庶民は、あくせく働くことよりも人生を謳歌していたのだよ。それに、日本人は昔から男尊女卑の国だなんていう人がいるが、そのようなことはなく、ただ、男と女が役割分担していただけで、女性は女性で自分達の生活を謳歌していたことが江戸時代を調べればわかるよ。そのような様子は、以下参考の※2:「江戸の一頁」、3:「インターネットを楽しむ」、※4:「江戸庶民の知恵に学べ」、※5:「江戸時代は、理想的なリサイクル社会だった」など見られる良い。
兎に角今は、金・金・金の世の中。そして、競争社会の中では勝者と敗者がはっきりとわかれ、敗者となったものの行き場がなくなっている。今、世界的に、これまでの仕組みや、やり方が壁に突き当たっている。そのような中で、以前より競争社会から共生社会への転換などが叫ばれており(以下参考の※6:「内閣府政策統括官(共生社会政策担当)のホームページ」参照)、今や、それを現実のものとしてゆかなければいけない時代に来てはいるのであるが、一度、競争社会の中で勝ち組となり、勝ち組としての甘い汁を吸った人達が、このような、呼びかけにどれくらい協力的になるだろうか・・?。
しかし、このまま全てが競争競争で行けば、今の社会はいづれ崩壊するだろう。競争には競争の良さがあるが、やはり、これからは、物質的なものばかり追い求めるのではなく、精神的な面を重視し、一般庶民が日常の生活を相互に助け合いながら、ゆったりとした気分で安心して過ごせる社会を築いてゆかなければいけないのではないか。それには、国民自身が、何を幸せと考えるのか・・・?といったことが、入口になるだろう。その意味で、今、江戸の時代がどんな時代であったかを見直して見るのも良いだろう。
参考:(画像左:1998年春NHK「お江戸でござる」のスタジオでの杉浦日向子さんの写真【2005年9月15日朝日新聞朝刊掲載より】、右:私の蔵書、「NHKデーター情報部編・ヴィジュアル百科・江戸事情」【全六巻中の第一巻「生活編」】)
※1:下咽頭癌
http://www.onh.go.jp/seisaku/cancer/kakusyu/kaintouhtml.html
※2:江戸の一頁
http://e-kankyo.jfast.net/edo/top.htm
※3:インターネットを楽しむ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/index.html
※4:江戸庶民の知恵に学べ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/edosyomin.htm
※5:江戸時代は、理想的なリサイクル社会だった
http://www.saisei-yasumoto.com/edo/edo3.html
※6:内閣府政策統括官(共生社会政策担当)のホームページ
http://www8.cao.go.jp/souki/index.html
杉浦日向子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E6%97%A5%E5%90%91%E5%AD%90
Category:江戸時代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3
江戸東京博物館ホームページ
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
ビバ!江戸
http://www.viva-edo.com/
江戸戯作黄表紙
http://kibyou.hp.infoseek.co.jp/
キッズgoo/江戸時代 文化
http://kids.goo.ne.jp/search/search.php?MT=%B9%BE%B8%CD%BB%FE%C2%E5+%CA%B8%B2%BD&MG=0&IM=0&SY=2&MD=2&FR=1&GS=1
寺子屋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%AD%90%E5%B1%8B
リサイクル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%AD%90%E5%B1%8B
共生 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%9F
松岡正剛の千夜千冊『百物語』杉浦日向子
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1121.html
男尊女卑-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%94%B7%E5%B0%8A%E5%A5%B3%E5%8D%91/


サイボーグ009の日

2009-07-19 | 記念日
日本記念日協会で今日の記念日を探すと、今日・7月19日の記念日に「サイボーグ009の日」 があった。
萬画家の石ノ森章太郎の代表作であり、ライフワークでもあり、今も多くのファンを獲得している「サイボーグ009」。この作品が「週刊・少年キング」で連載を開始した1964年の7月19日を記念して株式会社石森プロが制定した日だそうだ。
今年2009年は009が西暦に含まれる1000年に一度の年、また、「サイボーグ009」生誕45周年記念にあたる年であり、「サイボーグ009YEAR」としての数々の企画が行われているようだ。 何が行なわれているかは、以下参考の※1:「石森プロOficialWebsite」を見られると良い。なお、2009年1月1日から、新しいウエブサイト http://009ing.com がオープンしている。
冒頭に萬画家の石ノ森章太郎・・・とある。「マンガ」を漢字で書けば普通は「漫画」とするのだが、何故このような表記にしたかについて、石森プロOficialWebsiteには以下のように書かれていた。
「むかしは、”マンガ”は”漫画”と書いた。風刺、笑い、滑稽などの内容を持った絵、のことです。が、この30年程の間に、そのメディアとしての名称の意味が、大きく変化した。面白おかしいだけでなく、多様なテーマが表現可能になったからです。で、つまり、”漫画”は”マンガ”とせざるを得なくなり、さらには”劇画”、”コミック”と推移してきた訳です。しかし、これらの名称はそれぞれの一分野(ジャンル)を呼称するに過ぎず、長い間“日本語”による総称の必要性が言われてきた。そこで“萬画宣言”を提唱させて頂くのです。」・・と。この宣言をしたのは、1989(平成元)年のことだそうで、以降は自らの職業を”漫画家”ではなく”萬画家”と称していた。
石ノ森章太郎(本名:小野寺章太郎)は、1938年、宮城県に生まれ、1956(昭和31)年、高校卒業と同時に漫画家を目指し上京し5月にはトキワ荘に移り住んでいる。ここは、1952(昭和27)年から1982(昭和57)年にかけて存在した木造アパートであるが、当時の漫画雑誌出版社である「学童社」(次のマン画少年参照)が、自社の雑誌(『漫画少年』)で連載を持つ漫画家の多くを入居させ、それらの若手漫画家らが後に著名となったため、漫画家、漫画ファンにとっては聖地的な扱いをされていた場所である。この学童社の雑誌には、アマチュア投稿欄があり、石ノ森も高校在学中に『二級天使』(以下参考の※2:「珈琲文庫シリーズ13 二級天使」参照)の連載を開始し、すでに漫画家としてデビューしており、このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっていたという。因みに、ここに最初(1953年初め)に入居したのが手塚治虫(手塚も学童社の編集者に勧められ入居)である。石ノ森は高校2年生の春、『鉄腕アトム』執筆中の手塚治虫に「シゴトヲテツダツテホシイ」との電報を受け、学校を休んで上京。中間テストを挟んで手塚のアシスタントを務める。このとき背景や脇役だけを描けば充分であったにもかかわらず、アトムやヒゲオヤジなどのメインキャラクターまですべてを手塚タッチで描いてみせたため、手塚も度肝を抜かれたという(Wikipedia)。
上京後、次々とヒット作を発表し、各出版社の漫画賞を数多く受賞。漫画および漫画家の新たな可能性を示す“萬画”宣言を発表した9年後の1998(平成10)年1月28日に没す(享年60歳)。没後の2007(平成19)年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』(角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネスブックに認定されているそうだ。『サイボーグ009』 は、『仮面ライダー』と並ぶ、石ノ森の代表的なSF漫画である。
『サイボーグ009』は、それぞれ特殊能力を持つ9人のサイボーグ戦士の活躍や日常を描く長・中・短編の作品群からなるが、完結編に当たるシリーズの完成前に作者が死去したため、作者自身による漫画作品は未完に終わっている。石ノ森自身この作品に対する思い入れは相当強く、仮面ライダーシリーズに関しては作画を他人に任せたことが多かったが、本作は雑誌掲載作品のほとんどを自分で描いたという。
石ノ森には、俳優の小野寺丈(長男)と石森プロ社長の小野寺章(次男)がいるが、 長男の丈が、石ノ森の遺した膨大な量の構想ノートをもとに、未完の大作『サイボーグ009』の完結編となる『2012 009 conclusion GOD'S WAR』を小説として2006(平成18)年12月に刊行している(以下参考の※3:「e-hon 本/サイボーグ009完結編 」参照)。
石ノ森のこれら満画がヒットしていた時代、私はもう、そのようなマンガを読んで楽しむような年代ではなかったので、正直、彼の漫画を読んだことは無いが、私の息子がまだ小さかったので、特撮テレビドラマの「仮面ライダーシリーズ」(1971年第1作)などは、子供が大好きだったので、一所にテレビをよく見た。悪の組織により肉体を改造(サイボーグ化)されてしまった改造人間である主人公が異形の姿(「仮面」はバッタをモチーフにしたデザイン)に変身し、バイクを駆って、悪の組織とその怪人と戦うといった物語であったが、テレビを見ては多くの子供たちが「へんし~ん」などと仮面ライダーの真似をして喜んでいた。
石ノ森の代表作の1つであるが、『サイボーグ009』、『仮面ライダー』などとはちょっと異なり、江戸時代の江戸を舞台に下っ引きの佐武と、あんま(按摩)を商む盲目の市が、コンビを組んで殺人事件の解決に挑むというミステリーの時代劇『佐武と市捕物控』は、岡引の配下の下っ引きを主人公にしたところに特徴があるが、これなどは、1968(昭和43)年からNET(現:テレビ朝日)系で放映されたテレビアニメ、1981(昭和56)年からフジテレビで製作された時代劇スペシャル(配役:佐武:三浦友和、 市:梅宮辰夫 )など、当時珍しい大人向けマンガをテレビ化したものであったので、楽しく見た。しかし、『サイボーグ009』については、テレビでのアニメも小さな子供には少し難しく、当時のわたしや子供にとっては中途半端で、たまには見たことはあるもののどのような内容であったかなど殆ど分らない。
Wikipediaの解説によると、“石ノ森作品に多く見られる「力を授けた者(=親・同族)を裏切り、その野望に対し唯一対抗し得る存在として孤独な戦いを続ける」という物語構造を基盤として持つ。1960年代の米ソ東西冷戦が背景になり、ベトナム戦争を舞台にするなど反戦色のあるテーマが色濃く出ているのが特徴。それらと並び、世界各地の神話古代文明に題材をとったシリーズ、人種問題や異文化同士の軋轢、文明社会の抱える問題について考えさせられるエピソードも多い。主人公達が出会った人々の内面の葛藤や、人間と機械との中間の存在としての悩みなどもテーマとして取り上げられるが、基本的には石ノ森作品に共通する、正義を守るヒーローの姿に哲学的な重みを持たせたシリーズである。”そうだ。そして、9人という人数設定は、野球の“ナイン”から構想を得たもので、制作ノートからは、それぞれ該当のポジションを当てキャラクター像を練っていたことがわかる・・・という。
この満画は、先行して劇場版2作が作られ、その後テレビシリーズが始まったようだが、アニメ化にあたって若干の設定の変更が加えられ、特に、007(グレート・ブリテン)のキャラクターが、主な視聴者である子供を反映してか大人から子供に変更されており、原作者の石ノ森はやや不満だったが子供達からは好評であったそうだ。
冒頭掲載画像は、私が、中古のテレビゲーム機(プレステーション)で楽しんでいるソフトの1つで、「SIMPLEキャラクター2000シリーズ Vol.15 サイボーグ009THEブロックくずし」であり、画像の右端で銃を持っている目の大きな男が、007(グレート・ブリテン)である。
このブロックくずしゲームで、全756ステージを収録。残像でボールが弾ける009の加速装置!ボールのある地点の左右両側ブロックを横列消去できる002の飛行!ボールが一定時間巨大化する005の岩石投げ!など、001から009までのキャラクターのそれぞれの特性を活かした必殺ショットを用いることができるのが特徴で、9人のサイボーグ戦士たちは世界各地に飛来しては姿を消す、謎の飛行物体の正体を追うというシナリオが用意されており、キャラクター毎にストーリーも展開されていく。コンボゲージを貯めて発動する必殺技が強力なので、この技を使ってやらないとなかなかクリアするのが難しいよ。古いゲームだが、年寄りのボケ防止というか、反射神経の衰え防止には少しぐらい役にたつだろうと、夕食後の面白いテレビの無い時に夫婦で時々楽しんでいる。
この『サイボーグ009]』のキャラクターなど見ていると、手塚治虫の絵と似た雰囲気があるが、石ノ森は手塚のアトムのアシストなどをしたことがあるらしく、少なからぬ影響は受けているのだろうね~。
参考:(画像は、SIMPLEキャラクター2000シリーズ Vol.15 サイボーグ009THEブロックくずし)
※1:石森プロOficialWebsite
http://www.ishimoripro.com/
※2:珈琲文庫シリーズ13 二級天使/石ノ森章太郎
http://www.comicbox.co.jp/pub/nikyutenshi.html
※3:e-hon 本/サイボーグ009完結編 2012 009 ...
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031822064&Action_id=121&Sza_id=C0
サイボーグ009 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B0009#.E3.82.A2.E3.83.8B.E3.83.A1.E4.BD.9C.E5.93.81
石森章太郎(石ノ森章太郎) ーgoo映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/85956/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
トキワ荘 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%AF%E8%8D%98
ブロックくずし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E5%B4%A9%E3%81%97%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
古代文明都市ヴァーチャルトリップ
http://www.taisei.co.jp/kodaitoshi/enter.html

あじさい忌・石原裕次郎忌日

2009-07-17 | 人物
1987(昭和62)年の今日7月17日、俳優・歌手・石原プロモーション(現代表:渡瀬 道彦。以下参考の※1:石原裕次郎 [ishihara-pro.co.jp]参照)創始者でもあった石原裕次郎が亡くなった。日本記念日協会の記載によると、”裕次郎の命日を「あじさい忌」と呼ぶのは、生前彼の好きだった季節の花のため”だったという。 この記載の意味がよくわからないので調べてみると、以下参考の「※2:中国新聞 天風録」の記載によると、裕次郎が亡くなった日の祭壇には、”生前にこよなく愛したアジサイが飾られた。以来、7月17日の命日は「あじさい忌」と言われるとあり、”裕次郎さんは「雨男」で、命日の行事はいつも雨で、いつしか「裕次郎雨」と呼ばれるようになった”ともいう。そういえば、アジサイ(紫陽花)は、雨の多い梅雨の時期にぴったりの花。しかも、彼は、1934(昭和9)年12月28日、兵庫県神戸市須磨区にて石原家の次男として生まれている。アジサイ(紫陽花)は彼が生まれた神戸市の市花でもある。神戸では、今、街のあちこちに紫陽花の花が咲いている。
彼の父親は、海運会社・山下汽船(現:商船三井山下亀三郎 が創業した会社で、戦前は海運業界のトップの一角を占めていた)に勤めていたといい、幼少期を神戸で過ごし、父親の転勤で、神戸から、北海道小樽、それから神奈川県逗子市と港町に育つっている。又、彼の実兄には、東京都知事石原慎太郎がいる。
その後、中学・高校の頃バスケットに夢中になっていたようだが左足膝に大怪我をしたため選手生活を断念。17歳の頃、父親の突然の死のショックなどもあり、酒と女、そして喧嘩と麻雀三昧といった放蕩の日々を送っていたようだということは聞いたことがあるが、それ以外、突然彗星のように映画界に現れるまでの若い頃のことは良く知らない。
1956(昭和31)年1月、ペニスで障子を突き破るというショッキングな小説『太陽の季節』で、一橋大学在学中の兄・慎太郎が第34回芥川賞を受賞。作品の背徳性、反倫理性、そこに描かれているボクシング、ヨット、マイカー、女刈りにうつつをぬかす若ものの無軌道ぶりは当時の読者を困惑させるものであったが、それが、又、慎太郎の狙いだったのだろう。文学としての埒外の話題性に煽られて、本の売れ行きを伸ばし、抜け目の無い映画資本がこの新しい風俗現象を生んだ小説を見のがさず、本出版の2ヵ月後には同名で映画化され5月、日活系で公開された。ストーリーは原作に、ほぼ忠実に作成された。慶応大学在学中の裕次郎は、日活の映画プロデューサーである水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦で、主演の長門宏之南田陽子らに交じって大学のボクシング部員というほんの端役で出演した。兄慎太郎もサッカー選手として特別出演している。作品の評価は芳しくなかったが裕次郎の新鮮な魅力・スター性は注目された。又、慎太郎の短い髪型が「慎太郎刈り」と呼ばれて流行、こうしたファッシファッションを取り入れた若者を含め当時の享楽的な若者を、非難を込めて映画のタイトルから「太陽族」と呼ぶようになったが、裕次郎自身が、当時の「太陽族」のような行動をしていたようであり、この小説のストーリーも裕次郎が、ある仲間の噂話として慎太郎に聞かせた話が題材になっていたのだという。又、裕次郎の端役としての役どころは彼の以後のイメージを決定付けた。
続いて、同年、兄慎太郎が『太陽の季節』姉妹篇として作品を書き始めた段階から日活より「映画化したい」と申し出があったという『狂った果実』は、慎太郎が弟・裕次郎の主演を条件に承諾したとい言い、慎太郎自身が脚本も手がけるという熱の入れようで、同名で映画化された。裕次郎は慶大を中退して本格的に俳優を目指し、日活に入社しこの映画で主役として北原三枝(石原裕次郎の未亡人)と初共演。映画は、裕次郎の歌と共に大ヒットし、裕次郎ブームを巻き起こした。すらりとした長い足と容姿、ワルがかってはいてもなんとなく育ちの良さも感じさせるニュータイプの2枚目、そして歌も歌える俳優の登場であった。
「太陽の季節」などの映画が、若者に指示された背景には、1956(昭和31)年版の『経済白書』(副題は「日本経済の成長と近代化」)に、「もはや、戦後ではない」という有名な文句が登場したように、戦後、復興・復興と頑張って、当時多くの人々は、ともかく戦前の良き時代、昭和10年頃への復帰を目標にしてきたが、日本経済の発展は、この時代にはその目標をはるかに越え、次の目標が見えなくなりかけており、豊富になった物資の供給を前に、ただ目の前にあった「消費への夢」を限りなくふくらませていた。さらに、民主主義と平和教育のもと、彼ら若者に共通していたのは既成の概念や価値観に対する反発であった。そして、銀幕のスターにも、旧態然とした日本的文化とは異なるスタイリッシュなニュー・カルチャーを欲していた。裕次郎のイメージは、このような思想にアメリカから輸入されたアクションをミックスしてつくられたといえるだろう。そして、「太陽族」映画に描かれたライフスタイルは、やがて、日本人の普通の生活そのものとなってゆく。
1958(昭和33)年正月映画として、前年12月から公開された大ヒット作「嵐を呼ぶ男」(現作・監督井上梅次)は、どこも大入りを記録。日活は総配給収入2億5000万円をあげて話題となった。彼はこの他歌の面でもテイチクレコードと専属契約を結び3月に出した第1作「俺は待ってるぜ」のヒットに続き、この映画の主題歌「嵐を呼ぶ男」でも発売後15日間で8万5000枚を売るという記録を作り押しも推されもせぬ大スターとなった。
戦時下の映画産業統合で製作部門は大映(大日本映画製作株式会社)に吸収され、映画製作から一旦撤退、興行部門だけが残っていた日活は、1954(昭和29)年に制作を開始したが、水の江瀧子プロデューサ-は、低予算娯楽映画をヒットさせたが、その経営難の日活を救ったのが新人の石原裕次郎であり、裕次郎は1957(昭和32)年だけで、「勝利者」、「今日のいのち」、「幕末太陽傳」、 「海の野郎ども」、「鷲と鷹」、「俺は待ってるぜ」など6本の映画に出演している。
日本映画界は敗戦の混乱からよみがえると、年々、右肩上がりの好調を続け、1955(昭和30)年に興行成績では頂点に達したが、儲かっていたのは、チャンバラ映画の東映(東映株式会社)と石原裕次郎のアクションものの日活だった。それでも、「嵐を呼ぶ男」がヒットした1958(昭和33)年には、日本映画界の全国映画館有料入場者数が11億2745万人を記録したという。これは国民1人が老人や生まれたばかりの赤ちゃんも含めて年に12,3回映画館で映画を見ていたという途方もない数字だったという。(朝日クロニクル「週刊20世紀」映画の100年)史上最高の映画人口を記録したという。この年を境に、日本映画界は徐々に下降線を描き始めた。私も、映画大好き、それもチャンバラ物やアクションものが好きだったので、この当時は年に映画を何本見ただろう・・・。覚えていないが本当に多くの映画を見たが兎に角この当時は入場料も安かったよ。
裕次郎、当時25歳は、人気が絶頂を迎えた1960(昭和35)年、「狂った果実」以降映画で共演していた女優の北原三枝と結婚。彼はデビューする前から彼女のファンであったという。挙式は東京の日活国際会館で12月2日に挙げられた。披露宴には力道山江利チエミら友人多数が出席、同会館前の歩道はファンで大混雑し、交通整理をする警官が出たほど。
1963(昭和38)年には五社協定を振り払って、株式会社石原プロモーションを設立し、独立第1弾として、海洋冒険家堀江謙一をモデルとした『太平洋ひとりぼっち』が公開されたが、興行面では失敗に終わった。1964(昭和39)年には、三船プロとの合作で黒四ダム完成にいたるまでを実録風に描く男達の人間ドラマ『黒部の太陽』の制作を発表するが、彼らと専属契約を結ぶ日活と東宝が、他社への出演を制限する「五社協定」をたてに制作中止の圧力をかけてきたが、2人の説得、努力により実現するが、実現までには長い時間と資金を要した。又、撮影にあたっては実際に出水事故も起こり、裕次郎ら10数名のスタッフが負傷するなど大掛かりな撮影となったが、結果的には、日活が配給、東宝が劇場を提供して1968(昭和43)年2月17日に公開。制作費の倍にあたる8億円の配給収入を計上たという。このほか、裕次郎は、海外作品「素晴らしきヒコーキ野郎」(1965年アメリカ映画)へ出演するなど幅広い活動を行っている。1969(昭和44)年、35歳のとき、日活との契約が白紙となり、事実上フリーとなる。1971(昭和46)年3月、胸部疾患で倒れ11月まで長期休養するが翌1972(昭和47)年6月、復帰第1作「影狩り」を制作・出演する。これは、さいとう・たかをの劇画を映画化したものであり、このような娯楽時代劇大好き人間の私は待ちかねたように劇場へ見に行った。又、7月日本テレビ系「太陽にほえろ!」でテレビドラマ本格出演をする。最後の映画主演作品は、1973(昭和48)年の「反逆の報酬」である。その後の作品で忘れられないのが、1979(昭和54)年から始まったテレビ映画シリーズ「西部警察」(テレビ朝日系で放映)であった。今までの日本のテレビドラマの常識をはるかに超えたド派手な爆破シーンやカースタントが評判を呼んだが、このようなスケールの大きなポリスアクションドラマ(刑事ドラマ)は石原プロモーションだから制作できたので、今後、これほどのドラマが制作されるのは何時のことだろうか・・・。
趣味としては、学生時代から続けていたヨットレースを続け、映画の撮影やヨット活動のために度々訪れていたハワイが一番好きな場所であり、静養のためにハワイに別荘を所有していた。現在、正月をハワイで過ごす芸能人が多いが、そのハシリとなった人物である。
しかし、1981(昭和56)年、解離性大動脈瘤(以下参考の※3:解離性大動脈瘤参照)の手術で入院。ほぼ絶望といわれた病床から、奇跡の生還をし、翌1982(昭和57)年には、ハワイのヨットレース「クリッパー・カップ」に出場などしていたが、その後肝臓ガンと発覚し、1986年「太陽にほえろ」の主演を降後、最終回にゲスト出演したのが最後のテレビ出演となった。ファンは「不死身のタフガイ」の復活を信じていたが、1987(昭和62)年の今日・7月17日に入院先の慶應義塾大学病院にて肝細胞癌で死去した。享年52歳であった。
7月19日に関係者による密葬が行われ、8月11日ファンの祐ちゃんコールにつつまれて青山葬儀所で石原プロモーションとテイチクレコードによる合同葬が行われた。その後は、湘南の海が好きだった裕次郎の遺骨を散骨したいとの実兄慎太郎の願いから、海洋葬として海に散骨された。
今年・2009(平成21)年7月5日、国立競技場で23回忌法要が営まれ、その模様はテレビで中継されていたのを見た。
前回の13回忌は裕次郎の菩提寺である総持寺で行ったが、20万人のファンが集まり大混乱した。主催者の石原プロは、一般向けの法要は今回の23回忌が最後になるということで、型破りの形でファンに偲んでもらおうと企画したという。そこで、国立競技場内に菩提寺の本堂を再現し、ご本尊 や仏具まで搬入、僧侶の数120人という念の入れようで、入場料は無料で、20億円の費用をかけたのだとか。
亡くなって20年以上も経っているのに、未だに、こんなに熱狂的なファンが多くいることに驚いたが、同時に、本来の宗教行事としての法要が、このように大掛かりなイベントになっていることに多少の違和感を感じた。本当に、このような大掛かりなイベント化した法要を故人は望んでいるのだろうかな~。
(画像は:1956年日活映画のポスター「狂った果実」。Wikipediaより)
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あじさい忌・石原裕次郎忌日:参考

2009-07-17 | 人物
参考:
石原裕次郎記念館
http://www.yujiro-kinenkan.com/
※1:石原裕次郎 [ishihara-pro.co.jp]
http://www.ishihara-pro.co.jp/index_02.php
※2:中国新聞 天風録
http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te200606270140.html
※3:解離性大動脈瘤
http://www.tokushukai.or.jp/user/heart/kekkan_02_1.html
太陽の季節 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E5%AD%A3%E7%AF%80
太陽の季節 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24841/index.html
石原裕次郎 (イシハラユウジロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/89136/index.html
石原裕次郎 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1146561/index.html
テイチクエンタテインメント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
素晴らしきヒコーキ野郎 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD4818/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
山下亀三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E4%BA%80%E4%B8%89%E9%83%8E
力道山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1    
江利チエミ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%88%A9%E3%83%81%E3%82%A8%E3%83%9F
總持寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%BD%E6%8C%81%E5%AF%BA
華麗なる日活映画の世界
http://miwako-f.hp.infoseek.co.jp/nikkatsu/nikkatsu-index.htm   
石原裕次郎23回忌:TAKEおじさんの旅行ブログ
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10352677/