松代大本営の地下壕工事現場で働いた崔小岩(チェ・ソアム)さんは、三角兵舎での寝起きの悲惨な体験のほかにも、その生活について、いろいろ証言している。「『松代大本営と崔小岩』松代大本営を語り続けて逝ったある朝鮮人の証言」(松代大本営の保存をすすめる会編) からの一部抜粋である。
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2 食べ物も着る物もない飯場生活
履物もせつなかった【証言 1983年9月】
崔 履き物ね、昔の地下足袋は、買ってきてこうやるとポッキンと底が折れちゃう。ひと月一足くらいしか配給くれないんですよ。石に足カックンってやると、ポキンって折れちゃう。そうなると、あと配給くれないでしょう。足のところボロまいて、わらぞうり、あんなもんしか履いてなかったですよ。それで切れてしまえば、足から血が出ても、びっこひいてでも、結局、仕事でなくちゃならない。一番は食べ物がせつなかった。二番目は履物。三番目は自分の身体が自由にならなかったこと。
おかずは塩だけ【証言 1983年9月】
崔 こんど食べ物の話するけど、食べ物といえば、いじきたないっていうか、そういう腹になるかもしれないけれど……。
コウリャンってありますね、いまは豚とか牛のえさでしょう。そのコウリャン7分なら米3分、その上に大豆の豆、それでいくらか味つけるってわけで、大根を細かく切って、ご飯に入れて、おかずは何もない。ただ塩をかけて食べるだけ。
配給は、その飯場で、人夫30人いるとして、ひと月30人食べるのに、三升(醤油?)くらいしか配給にならないのですよ。それじゃ、へたすれば、一日分にもならなくなってしまうのです。しようがないから、塩がいちばん安いので、塩をみんな買ってきて、水入れて、塩煮立てて、それに水何倍も入れて、薄い色しかない、たたの塩の味だけでね。
栄養失調に【証言 1976年8月16日】
──栄養失調かなにか、病気になって亡くなる方もいたようですね。
崔 そうですね。栄養失調になって、ここで、イ地区の中でもって、栄養失調になってフラフラしたり、死んだりした人間は、5,60人いたんじゃないですか。それは主に年寄りだけどね。栄養失調にもなるわけですよ。食事ですよ。
【証言 1987年8月31日】
崔 それでまあ、おかずは何にもねえ。まあ、しょうがねえ。あれば何でもいいから、あの年は、なんか塩がいちばん安かったらしいんだよね。みんな塩、ご飯の上にかけて……。そいでその、みそ汁もみんな塩です。塩でいくらかしょっぱく味つけてあるけど、それでまあ、それずうーっと食べるようになって。私は体力あって、なんとかやれたけん、まあ、年寄りのような人は、ほとんど、栄養失調みたいで………。栄養失調になってくると、あれですね。ご飯も水も飲めなくなっちゃうんですね。水なんてはいちゃいますよ。
蚤、虱、南京虫【証言 1991年2月16日】
崔 はじめてこんなこと言うけど、まあ、恥ずかしいというか、あの当時の、ちょうど先生たち送ってくれる時、あそこの小林っていう角、ここからまっすぐ行って、橋渡って、私とこ入るとこの角あったでしょう。ここから行けば右側に昔お風呂あったですよ。銭湯。
暑い時なんか、たまにお風呂入りたい。本当にこんな話、恥ずかしくて、まあ、言えない。こんな話、めったにやらない。はじめて言うんだけど、あの年なんか、服もきれば着っぱなし。お風呂なんか入らない。
なんていうんですか、蚤、虱、南京虫っていうんですか。風呂、たまに行けば、本当みんな逃げちゃって。しまいには朝鮮人きりになったこともある。いよいよ最後には「朝鮮人なんか来るな」。そいでお風呂にも行かれない。そんなこともあったけど。
──飯場には風呂ないんですか。
崔 なかったです、全然。
──じゃあ、銭湯へ行くわけですよね。
崔 銭湯へ行って、自分たちも出てきてみれば、服の上、虱がはって歩いてる。そんなの見れば日本人、一緒に入る気なんかないですよ。最後にゃ、お風呂に入りたくても入れない。夏場になれば、ちょうど私たちの前、川あって、そこでバケツで水かぶったり、頭洗ったりなんかして。
それで(戦後)、松代の役場で、松代の町で、そういう話があったんじゃないですか。そいで昔、ぼかぼかDDTあったですよね。それみんな渡してくれて、それ毎日こうやったとき、だんだん虱もいなくなったり、蚤もいなくなったりしたこともありました。
──日本人もいやがったんですね。
崔 結局、それは、われわれだってああなれば、いやがる。虫がはって歩いているんだものね。それもいい虫がはってるんだったらいいけれども。
3 朝鮮語で話したらリンチ
棒が早く飛んでくるくるもんね【証言 1987年8月31日】
・・・
朝鮮のことばしゃべったの誰だ!
崔 わしも、そんなことまで知らないから、「それはわしが言いました」。あ、そうか。それじゃこっち来て、ちょっと待ってろや」 「それで朝鮮の言葉しゃべったの、誰だな」。それでまあ、連中たちは、わしらより早く来てしっているから、言わない。言わない、言わないで黙っていると全部やられちゃうから、それでまあ、「私がいいました」って出ていった。それで、「お前仕事やれや、後で迎えにくるから」。30分くらいたったら迎えにきて、「ちょっと会社まで来いや」。
その時、うちの飯場頭のおじいさんが、「催本さん、行ったらもう、何されても申し訳ありませんって謝れ。謝らなければへたすると、ここ、戻ってこないかも知れない」。「なんで」って言ったら、「いままでそうだ。ちょっと悪態をついた人間はいまだに戻って来ない」。「戻ってこないって、どこへ行っちゃったの」。「それ、わからない。それだから、みんななんか、言いたいことあっても、必ずそういう目にあうから、みな黙ってて。殴られても、こうやって仕事やるんだ。それだから催本さん、踏んだりけったり、かたわにされても、何しろ自分で声が出たら謝れや」、と。
それで、すぐたったら、もう迎えにきて、「来いや」って言うから、それでまあ行って、2人でいったんだけど、一人はすーっと入っちゃって、それでわしも中へ入った。「さっき言ったこと、もういっぺん、言ってみろ」。「監督さん、さっき言ったこと、わし、覚えありません。忘れましたよ」。
なーに、それからもう、はたかれちゃって、よくよくもう、最後、謝るも何も、声も出なくなるし。
仕込み杖で
・・・
(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。
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2 食べ物も着る物もない飯場生活
履物もせつなかった【証言 1983年9月】
崔 履き物ね、昔の地下足袋は、買ってきてこうやるとポッキンと底が折れちゃう。ひと月一足くらいしか配給くれないんですよ。石に足カックンってやると、ポキンって折れちゃう。そうなると、あと配給くれないでしょう。足のところボロまいて、わらぞうり、あんなもんしか履いてなかったですよ。それで切れてしまえば、足から血が出ても、びっこひいてでも、結局、仕事でなくちゃならない。一番は食べ物がせつなかった。二番目は履物。三番目は自分の身体が自由にならなかったこと。
おかずは塩だけ【証言 1983年9月】
崔 こんど食べ物の話するけど、食べ物といえば、いじきたないっていうか、そういう腹になるかもしれないけれど……。
コウリャンってありますね、いまは豚とか牛のえさでしょう。そのコウリャン7分なら米3分、その上に大豆の豆、それでいくらか味つけるってわけで、大根を細かく切って、ご飯に入れて、おかずは何もない。ただ塩をかけて食べるだけ。
配給は、その飯場で、人夫30人いるとして、ひと月30人食べるのに、三升(醤油?)くらいしか配給にならないのですよ。それじゃ、へたすれば、一日分にもならなくなってしまうのです。しようがないから、塩がいちばん安いので、塩をみんな買ってきて、水入れて、塩煮立てて、それに水何倍も入れて、薄い色しかない、たたの塩の味だけでね。
栄養失調に【証言 1976年8月16日】
──栄養失調かなにか、病気になって亡くなる方もいたようですね。
崔 そうですね。栄養失調になって、ここで、イ地区の中でもって、栄養失調になってフラフラしたり、死んだりした人間は、5,60人いたんじゃないですか。それは主に年寄りだけどね。栄養失調にもなるわけですよ。食事ですよ。
【証言 1987年8月31日】
崔 それでまあ、おかずは何にもねえ。まあ、しょうがねえ。あれば何でもいいから、あの年は、なんか塩がいちばん安かったらしいんだよね。みんな塩、ご飯の上にかけて……。そいでその、みそ汁もみんな塩です。塩でいくらかしょっぱく味つけてあるけど、それでまあ、それずうーっと食べるようになって。私は体力あって、なんとかやれたけん、まあ、年寄りのような人は、ほとんど、栄養失調みたいで………。栄養失調になってくると、あれですね。ご飯も水も飲めなくなっちゃうんですね。水なんてはいちゃいますよ。
蚤、虱、南京虫【証言 1991年2月16日】
崔 はじめてこんなこと言うけど、まあ、恥ずかしいというか、あの当時の、ちょうど先生たち送ってくれる時、あそこの小林っていう角、ここからまっすぐ行って、橋渡って、私とこ入るとこの角あったでしょう。ここから行けば右側に昔お風呂あったですよ。銭湯。
暑い時なんか、たまにお風呂入りたい。本当にこんな話、恥ずかしくて、まあ、言えない。こんな話、めったにやらない。はじめて言うんだけど、あの年なんか、服もきれば着っぱなし。お風呂なんか入らない。
なんていうんですか、蚤、虱、南京虫っていうんですか。風呂、たまに行けば、本当みんな逃げちゃって。しまいには朝鮮人きりになったこともある。いよいよ最後には「朝鮮人なんか来るな」。そいでお風呂にも行かれない。そんなこともあったけど。
──飯場には風呂ないんですか。
崔 なかったです、全然。
──じゃあ、銭湯へ行くわけですよね。
崔 銭湯へ行って、自分たちも出てきてみれば、服の上、虱がはって歩いてる。そんなの見れば日本人、一緒に入る気なんかないですよ。最後にゃ、お風呂に入りたくても入れない。夏場になれば、ちょうど私たちの前、川あって、そこでバケツで水かぶったり、頭洗ったりなんかして。
それで(戦後)、松代の役場で、松代の町で、そういう話があったんじゃないですか。そいで昔、ぼかぼかDDTあったですよね。それみんな渡してくれて、それ毎日こうやったとき、だんだん虱もいなくなったり、蚤もいなくなったりしたこともありました。
──日本人もいやがったんですね。
崔 結局、それは、われわれだってああなれば、いやがる。虫がはって歩いているんだものね。それもいい虫がはってるんだったらいいけれども。
3 朝鮮語で話したらリンチ
棒が早く飛んでくるくるもんね【証言 1987年8月31日】
・・・
朝鮮のことばしゃべったの誰だ!
崔 わしも、そんなことまで知らないから、「それはわしが言いました」。あ、そうか。それじゃこっち来て、ちょっと待ってろや」 「それで朝鮮の言葉しゃべったの、誰だな」。それでまあ、連中たちは、わしらより早く来てしっているから、言わない。言わない、言わないで黙っていると全部やられちゃうから、それでまあ、「私がいいました」って出ていった。それで、「お前仕事やれや、後で迎えにくるから」。30分くらいたったら迎えにきて、「ちょっと会社まで来いや」。
その時、うちの飯場頭のおじいさんが、「催本さん、行ったらもう、何されても申し訳ありませんって謝れ。謝らなければへたすると、ここ、戻ってこないかも知れない」。「なんで」って言ったら、「いままでそうだ。ちょっと悪態をついた人間はいまだに戻って来ない」。「戻ってこないって、どこへ行っちゃったの」。「それ、わからない。それだから、みんななんか、言いたいことあっても、必ずそういう目にあうから、みな黙ってて。殴られても、こうやって仕事やるんだ。それだから催本さん、踏んだりけったり、かたわにされても、何しろ自分で声が出たら謝れや」、と。
それで、すぐたったら、もう迎えにきて、「来いや」って言うから、それでまあ行って、2人でいったんだけど、一人はすーっと入っちゃって、それでわしも中へ入った。「さっき言ったこと、もういっぺん、言ってみろ」。「監督さん、さっき言ったこと、わし、覚えありません。忘れましたよ」。
なーに、それからもう、はたかれちゃって、よくよくもう、最後、謝るも何も、声も出なくなるし。
仕込み杖で
・・・
(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。