大本営の移転地決定後、井田少佐は「どこに何を収容するか、大体の配置プランを決め其の設計を鎌田建技中佐に一任した」という。鎌田建技中佐は、すぐに設計に取り掛かったが、この仕事は、間もなく大学の後輩で陸軍省建築課の同僚伊藤節三建技少佐が引き継ぐことになった。そして、その伊藤少佐に対して東条首相は設計図の”書き直し”を命令したのである。伊藤少佐の証言を「昭和史の天皇3」(読売新聞社)から抜粋する。
--------------------------------
地下建設隊を組織
・・・
「わたしは、たまたま大学(東京帝大工学部)が鎌田さんの2年後輩ということでお手伝いすることになりました。市谷台上の陸軍省の玄関をはいって、広い廊下を真っすぐ行った右側、半地下になったところに建築課があり、そこで毎日、鎌田さんと作業しました。ところが間もなく、鎌田さんは建築課の高級課員になった。これは課長代理のような仕事で雑用が多く、とても設計に専念できない。そこでわたしがあとを引き継ぐことになったのです。最初の略設計図ができたのは7月中旬だと思う。まず大臣にお見せしよう、と東条大将のところへ持っていったら、大きなカミナリが落ちましてね、
『やり直せ!』といわれるんです」
ついにサイパンも落ち、わが絶対国防圏の一角がくずれ、B29により本格的な東京空襲がはじまろう、というとき、東条内閣への国内の風当たりは一段と高まっていた。いらいらしていたんだろう。
施工命令くだる
伊藤節三少佐が書いた最初の松代大本営の設計図は、軍事課の井田正孝少佐があらかじめ決めた配置とは少し違っていた。井田案では、象山には大本営と政府機関を収容、ノロシ山は行在所だけという構想だった。しかし伊藤案はノロシ山に大本営が置かれ、象山は一応政府機関を収容することにはなっていたが、トンネルはわずか2本、つまり規模が小さかった。これは象山の地質が堅いので、工事が手間取ると考えたためだった。東条首相(兼陸相)がおこったのは、その狭さに理由があったらしい。
伊藤節三氏の話
「概略の設計図ができたので、まずわたしは大臣室へ持っていきました。大臣は図面を見、わたしの説明が一通り終わると、きびしい口調で
『君ッ、この図面には行在所と大本営は書いてるが、政府機関のはいるところがまるでないじゃないか。これはどういうことなんだ。そもそもこの移転計画は、単に軍機関の移動を目的とするもんじゃないんだ。日本の政府全体が松代に移ることを目的としているんだぞ。わが国は軍政下にあるわけじゃない!すぐ書き直したまえ』
しかたがないので『ハイ』と答えて引き下がりました」
東条大将の『軍政下ではない』という言葉は、当時の東条内閣への風当たりの強さの中では、なかなか含蓄があっておもしろい。実際、東条内閣はその数日後に”やめさせられる”結果になる。しかし、それは別の話。こうして2度目の設計図が書かれ、松代の地下施設は、ようやくその膨大な全容を現してくる。
(イ)地区──これは象山を中心にしたところで、象山の胎内にはほぼ東西に20本の隧道(本坑)を掘り、これを5本の連絡坑で結び、ここに政府機関約1万人を収容する。
(ロ)地区──象山の南東、ノロシ山の一部(地元の人たちが、白鳥山と呼ぶところ)の胎内には、3─5本の本坑を南北に貫通させ、これを6本の連絡坑で結ぶ。ここに陸海軍統帥部を収容。隧道の奥深くは、御前会議用の部屋も造る。行在所は、この隧道群の東寄りの山腹にはめ込みし式に、一部を露出して三棟造り、いずれも地下道で連結する。収容人員は、宮内省、大本営関係合わせて約2千人の予定。
(ハ)地区──白鳥山の東北方にある皆神山(すりばち型の死火山で、地盤は比較的弱い)の胎内には、東西に2本の本坑を貫通させ、利用目的は、一応皇族方をお迎えすると仮定。そのほか
(ニ)、(ホ)地区──として松代町から北東へ20キロほど離れた雁田山、神田山の山麓に燃料基地。
(ヘ)地区──として、前記二山と並ぶ臥竜山に軍通信隊のための隧道
(ト)地区──として象山から西へ2キロの妻女山に、一般政府機関のものもふくめた通信センターのための隧道が、それぞれ計画された。
これらの用途、規模は、その後たびたび変更されるが、大綱は変わらず、この設計通りに工事が進められることになった。施工命令は、陸軍大臣杉山元元帥(小磯内閣に代わった直後)から東部軍司令官藤江恵輔大将に対して出された。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。
--------------------------------
地下建設隊を組織
・・・
「わたしは、たまたま大学(東京帝大工学部)が鎌田さんの2年後輩ということでお手伝いすることになりました。市谷台上の陸軍省の玄関をはいって、広い廊下を真っすぐ行った右側、半地下になったところに建築課があり、そこで毎日、鎌田さんと作業しました。ところが間もなく、鎌田さんは建築課の高級課員になった。これは課長代理のような仕事で雑用が多く、とても設計に専念できない。そこでわたしがあとを引き継ぐことになったのです。最初の略設計図ができたのは7月中旬だと思う。まず大臣にお見せしよう、と東条大将のところへ持っていったら、大きなカミナリが落ちましてね、
『やり直せ!』といわれるんです」
ついにサイパンも落ち、わが絶対国防圏の一角がくずれ、B29により本格的な東京空襲がはじまろう、というとき、東条内閣への国内の風当たりは一段と高まっていた。いらいらしていたんだろう。
施工命令くだる
伊藤節三少佐が書いた最初の松代大本営の設計図は、軍事課の井田正孝少佐があらかじめ決めた配置とは少し違っていた。井田案では、象山には大本営と政府機関を収容、ノロシ山は行在所だけという構想だった。しかし伊藤案はノロシ山に大本営が置かれ、象山は一応政府機関を収容することにはなっていたが、トンネルはわずか2本、つまり規模が小さかった。これは象山の地質が堅いので、工事が手間取ると考えたためだった。東条首相(兼陸相)がおこったのは、その狭さに理由があったらしい。
伊藤節三氏の話
「概略の設計図ができたので、まずわたしは大臣室へ持っていきました。大臣は図面を見、わたしの説明が一通り終わると、きびしい口調で
『君ッ、この図面には行在所と大本営は書いてるが、政府機関のはいるところがまるでないじゃないか。これはどういうことなんだ。そもそもこの移転計画は、単に軍機関の移動を目的とするもんじゃないんだ。日本の政府全体が松代に移ることを目的としているんだぞ。わが国は軍政下にあるわけじゃない!すぐ書き直したまえ』
しかたがないので『ハイ』と答えて引き下がりました」
東条大将の『軍政下ではない』という言葉は、当時の東条内閣への風当たりの強さの中では、なかなか含蓄があっておもしろい。実際、東条内閣はその数日後に”やめさせられる”結果になる。しかし、それは別の話。こうして2度目の設計図が書かれ、松代の地下施設は、ようやくその膨大な全容を現してくる。
(イ)地区──これは象山を中心にしたところで、象山の胎内にはほぼ東西に20本の隧道(本坑)を掘り、これを5本の連絡坑で結び、ここに政府機関約1万人を収容する。
(ロ)地区──象山の南東、ノロシ山の一部(地元の人たちが、白鳥山と呼ぶところ)の胎内には、3─5本の本坑を南北に貫通させ、これを6本の連絡坑で結ぶ。ここに陸海軍統帥部を収容。隧道の奥深くは、御前会議用の部屋も造る。行在所は、この隧道群の東寄りの山腹にはめ込みし式に、一部を露出して三棟造り、いずれも地下道で連結する。収容人員は、宮内省、大本営関係合わせて約2千人の予定。
(ハ)地区──白鳥山の東北方にある皆神山(すりばち型の死火山で、地盤は比較的弱い)の胎内には、東西に2本の本坑を貫通させ、利用目的は、一応皇族方をお迎えすると仮定。そのほか
(ニ)、(ホ)地区──として松代町から北東へ20キロほど離れた雁田山、神田山の山麓に燃料基地。
(ヘ)地区──として、前記二山と並ぶ臥竜山に軍通信隊のための隧道
(ト)地区──として象山から西へ2キロの妻女山に、一般政府機関のものもふくめた通信センターのための隧道が、それぞれ計画された。
これらの用途、規模は、その後たびたび変更されるが、大綱は変わらず、この設計通りに工事が進められることになった。施工命令は、陸軍大臣杉山元元帥(小磯内閣に代わった直後)から東部軍司令官藤江恵輔大将に対して出された。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。