真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ウラルの核惨事 隠蔽された事故 放射能汚染 NO1

2013年07月10日 | 国際・政治
 1976年の夏、ジョレス・メドべージェフ(元オブニンスク放射性医学研究所:分子放射性生物研究室長)は、イギリスの科学雑誌『ニュー・サイエンティスト』の編集者の求めに応じて、ソ連における大きな核事故で数百人が死亡したという1958年のいわゆる「ウラル核惨事」に関する論文を発表した。この事故は、ソ連原子力工業中心地の地下に大量に貯蔵されていた放射性廃棄物が爆発によって大気中へ噴出したもので、数百人の死者を出し、数千人が強制退去させられたり、病院に収容されたりしたという。そして工業地域を含む広大な面積が危険地帯となり、現在に至るという。それは、原子炉の故障による放射能漏れというレベルではないというのである。

 ところが、この事故による人的被害や放射能汚染があまりにも深刻であったためであろう、この事故を隠蔽し、なかったことにしようとしたり、極端に過小評価したりしようとするのは、当事国ソ連にとどまらなかった。欧米諸国はもちろん、日本も核開発に取り組み、国策として原子力発電を推進していた時期であり、彼の論文は、海外でも”たわごと””サイエンス・フィクション””想像上の作り話”だとされたのである。そして、事故を察知した情報筋も、”事故は今日の原子力発電とほとんど関係のない原子炉技術に関わるものであり、今日の原子力発電の安全性との関連性は僅少である”などと論評したのである。

 「ウラルの核惨事」ジョレス・メドベージェフ:梅林宏道訳(技術と人間)の著者は、単に不確かな秘密の情報を暴露しているのではなく、自らが知り得た事実と公衆に開放された情報を徹底的かつ効果的に活用することによって、科学的に推理できるのだという。そして、放射性同位元素を扱う経験を積んだ研究者ならば、それを理解するのに困難は感じないであろう、ともいう。
 読み進めれば、多くの証言や数え切れない研究資料を駆使した彼の論証を覆すことが難しいことは、誰にでも分かるであろう。

 今なお多くの謎につつまれている「ウラルの核惨事」を、実証的に明らかにした意味は大きい。
 下記は、目次と第1章の一部抜粋であるが、「エルサレム・ポストの編集者へ」の文章が、「私は核惨事のニュースがイスラエルでの原子力発電所建設反対闘争の武器として利用されるのではないかと心配しました」という(大学教授)L・トウメルマンのものであることが印象的である。
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 目次
第1章 一大センセーション始まる
第2章 センセーションは続く 
第3章 ウラルの惨事
第4章 巨大な湖を汚染する
    ──湖、水草、魚類に放射能汚染
第5章 1千万キューリーの汚染
    ──ウラルの汚染地帯における哺乳類
第6章 惨事はいつ、どこで起こったか
    ──汚染地帯はチェリャビンスク地域であり、核惨事の時期は1957年秋─冬であることを証明する
第7章 渡り鳥と放射能の国外への拡散
    ──放射性生物群集における鳥類と放射能の国外への拡散
第8章 死滅した土中動物
    ──ウラルの汚染地帯における土壌動物
第9章 森林の様相は一変した
    ──ウラルの汚染地帯における樹木
第10章 草原植物の放射線遺伝学
    ──ウラルの汚染地帯における草原植物と放射線遺伝学の研究
第11章 生き残ったクロレラ
    ──放射線環境における集団遺伝の研究
第12章 CIA文書は語る
    ──ウラルの核惨事に関するCIA文書
第13章 核惨事のシナリオ
    ウラル核惨事の原因、1957──58年の出来事を再構成する一試論

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             第2章 センセーションは続く

ソビエトの核惨事

 エルサレム・ポストの編集者へ

ソ連での大きな核事故が原子炉の故障に関係しているという報道(12月7日および11日)に反論するため、私はその惨事の目撃者としての説明を行いたいと思います。

 1960年、私は北ウラルのスペルドロフスク市〔の北東〕から、南ウラルのチェリャビンスク付近のある場所〔へ〕自動車旅行をする機会がありました。私たちは真夜中少し過ぎに出発し5時頃にスペルドロフスクから南に通ずる幹線高速道路に到着しました。5時という時刻は周囲一帯を見るのに充分に明るい時刻でした。(註略)

 スペルドロフスクから約100キロメートル(60マイル)のところに、「ここより30キロメートルの間、決して停車せず最高スピードで通り抜けること」と運転手に警告する道路標識がありました。
 道路の両側は見渡すかぎり土地は死に絶えていました。村も町もなく、ただ壊れた家の煙突だけがあり、耕地も牧場も家畜の群れも人びとも……全く何もありませんでした。

 スペルドロフスクの周囲の全領域は極度に放射能を帯びていました。数百平方キロメートルの広大な領域が久しい間、何十年あるいは何百年の間、荒れたまま放置され、利用価値がなく生産性を失ったかのような状態にされていました。
 私はこの場所が何百人もの人々が殺され、あるいは障害者にされた有名な”キシュチムの大惨事”の場所だと聞きました。


 私はその事故が、ジョレス・メドベージェフが『ニュー・サイエンティスト』や『エルサレム・ポスト』に書いているように埋蔵されていた核廃棄物によるものか、情報部筋が言うように(APや『タイムズ』に引用されている)プルトニウム生産用原子炉の爆発によるものか、確信をもって言うことができません。しかし、素人はもちろん科学者たちも、私が話をしたすべての人びとは非難されるべきは核廃棄物の貯蔵において怠惰で不注意であったソビエト官僚であると確信をもって考えていました。
                              (大学教授)L・トウメルマン
                                  ワイツマン科学研究所
                                        レホボス


 私はトウメルマン教授に『ニュー・サイエンティスト』の論文のリプリントを送った。というのは、どう見ても彼はそれを読んでおらず、単に新聞記事に反応しているように思われたからである。数日後私は彼から手紙を受けとった。手紙には、彼はイスラエルには原子力や原子力発電所が必要だと感じているが、ウラルの惨事が一般の人びとにそれらと関連づけて受けとられないように、正確で忌憚のない発言をしてゆく決心をした、と書かれていた。「何のエネルギー資源もなく、世界のほとんど全部の石油資源を掌握している敵性国家によって包囲されている私たちの国においては、反核宣伝はとりわけ危険に思われます。私は核惨事のニュースがイスラエルでの原子力発電所建設反対闘争の武器として利用されるのではないかと心配しました。そして『エルサレム・ポスト』の編集者に手紙を送り、私の見たことを書き、惨事は原子力発電所の機能と決して関係ないことを強調しました……。」とトウメルマンは書いていた。

 ・・・

 この見解(核廃棄物の埋蔵が事故につながることはあり得ないという見解)は原子力の技術面を扱っている多くの管理者や専門家の意見を反映しているにちがいない。また、こうした大規模な事件を論ずるさいには、全面的な検閲があり完全な拒否がありうるのだということを疑問視したり理解できないということも、西欧知識人に典型的なことである。
 ソビエトの原子力技術を専門に追っている情報機関員の間では、このような決定的な事件を彼らが見落とすことなどありえない、という見解が広く存在するらしい。彼らは南ウラル地域はソビエト原子力工業の中心地であり、最初の軍用原子炉のできた場所であることを知っていた。

 二大工業都市─スペルドロフスクとチェリャビンスク─と近隣地域はすべて常に外国人には閉ざされてきた。フランシス・ギャリイ・パワーズの操縦するアメリカのU二型機が、1960年5月1日に撃墜されたのはまさにこの地域の上空であった。アメリカで出版されたフルシチョフの回顧録は、この事件よりそう遠くない以前に、もう一機のU二型機がスペルドロフスク地域と南ウラルの上空に飛来したことがあったとのべている。しかし当時は、地対空ミサイルが設置されておらず、戦闘機ではスパイ機の21キロメートルという高度に到達することができなかった。1960年の1回目と2回目のU二型機の飛行(そして回顧録のなかでフルシチョフが語っているそれ以前の数多くの飛行)は、ウラル地帯のすべての地域、とりわけスペルドロフスクとチェリャビンスク地域の写真撮影に従事していたのである。ウラルの上空を通過するアフガニスタンからノルウェーへの空路は長年U二型機の空路だったのだから、これらの写真の分析から、この地帯における深刻な惨事についての必要な情報はすべて得ることができる、とみるのは当然であろう。

 1957年に、ウラル地帯で起きた”ある種の惨事”についての噂や口伝えの報告は、多くの亡命者の証言や外国の情報部に寝返ったソビエト情報部員やソ連内部にいるCIA独自の機関員、たとえば、相当に情報に通じているオレク・ベンコフスキーのような人物、によってCIAに知らされていた。「軽微な汚染除去作業を要するに過ぎない軍用原子炉の事故」というCIAの論評が新聞に出たが、背景にはこのような事実があった。情報部が持っている実際の文書は、1年後に公表されたが、それは、この最初の控え目な解釈に対する最良の反証となるものである。

 1957年末(あるいは1958年初め?)にチェリャビンスク地域で発生した事件についての本書の分析は、けっして私がソ連で働いていたときに知ったセンセーショナルな秘密を暴く目的で書いたものではない。1958年頃から、確かに私はウラルの核惨事についてかなり詳しく知ってはいたが、情報はけっして秘密の出所からえたものではなかった。
 ウラルに住む何万という人びとが、この惨事のことを知っていた。しかし大多数の普通の人びとは、核廃棄物の貯蔵所が爆発したという話は全くの嘘であると考えた。むしろ彼らは原子爆弾が事故によって爆発したのだという避けようもない噂を信じたのである。
 スペルドロフスク、チェリャビンスおよびその付近の住民から惨事そのものを隠そうとしたところで、それは非現実的なことであった。市内の病院や診療所は、退去させられ診察のため抑留された住民で一杯であった。しばらくして、より隠れた地区で放射線病の症候が現れ始めたとき、強制退去地帯は拡大され、患者は病院だけではなく、サナトリウムや病院として設備しなおした保養所(休暇施設)にも収容され始めた。そして狩猟や魚釣りは南ウラル、中央ウラル全域にわたって禁止され、数年にわたって個人経営や集団農場の市場での肉や魚の販売は、放射能についての特別検査なしには許可されなかったのである。


 ・・・

 この本を書くにあたって、私はまた秘密機関の貧弱なデータに依存して、私の最初の論文を”たわごと””サイエンス・フィクション”そして”想像上の作り話”と呼んだ人びとのことを念頭においた。しかし、何よりも第1に、私の目的は今後何百万年も人類が生存してゆかねばならない環境の核汚染を止めさせることに関心をもっている人びとの役に立つことであった。政治家は彼らの決定を下すに当たって2、30年を考えて計画を立てる。原子力エネルギーの専門家は時に数世紀を視野に入れて彼らの計画を練る。生物学者や遺伝学者は、私自身もその1人だが、進化という観点から未来について考え、何百万世代を考慮しつつ未来のモデルをつくるのである。

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、改行したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。 

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