イギリスでも放射能に苦しむ人びとが大勢いる。チェルノブイリ原発事故が発生する30年近く前の1957年、周辺はもちろんヨーロッパ諸国をも放射能で汚染する核施設の重大事故があった。”ウィンズケール・ファイヤー”と呼ばれるその事故は、イギリス中西部、セラフィールド(プルトニウム生産炉の建設が始ま1947年以降、1981年6月までは、ウィンズケールと呼ばれた)で起きた。
原爆製造が、当時は急務の核技術開発であったために、廃棄物処理や放射能汚染などのさまざまな問題を置き去りにしたまま、開発が進められたのは、イギリスも他の原子力先進国と同じである。その後、東西冷戦の終結などもあって、核の軍事的価値が低下し、原子力の平和利用すなわち原子力発電にその開発競争が移行したとはいえ、相変わらず原子力産業は、どこでも国家を中心とする巨大な組織に支えられている。したがって、当時も今も、周辺住民や一般国民の声は、よほどのことがないと、まともに取り上げられることがない。
原子力関係機関が、事故を隠蔽し、放射能汚染を過小に評価しようとするのも、原子力先進国共通のようであるが、放射能汚染による被爆被害の問題はイギリスでも深刻なことがわかる。下記は「核燃サイクルの闇 イギリス・セラフィールドからの報告」秋元健治(現代書館)からの一部抜粋である。
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Ⅲ ”ウィンズケール・ファイヤー” ──封印された核事故──
(ⅰ)プルトニウム生産炉の炎
1957年10月、”ウィンズケール・ファイヤー”として知られる軍事用プルトニウム生産炉の火災事故が起こった。このときプルトニウム生産炉内の温度が急激に上昇し、ウラン燃料と減速剤の黒鉛が燃え上がった。英国原子力公社の技術者は、蒸気爆発の危険を顧みず、大量の水を原子炉へ流し込んで鎮火に成功する。しかし注水とともに、放射能を帯びた水蒸気が大気中に放出されてしまった。英国原子力公社の著名な原子力物理学者ジョン・コックロフトに因んで、コックロフト・フォリーズと呼ばれた煙突上部のフィルター装置が、多くの放射性物質の放出を抑えた。それでも大気中に放たれた放射能は相当の量だった。上空の雲を放射能雲とし、それはベルギー、オランダ、ドイツ、ノルウェーなどヨーロッパの国々を広範囲に汚染した。
火災事故の経過は、おおよそ次のようだった。1957年10月7日、プルトニウム生産炉一号基で計画された熱放出作業のため原子炉は停止した。この原子炉は空冷式で、液体の冷却剤を循環させるような特別な冷却装置をもたず、定期的に原子炉を冷やすことが必要だった。最初の誤りは10月8日の午前11時、原子炉内の黒鉛の温度を高める作業でなされた。炉心の熱を高い煙突から放出するために、黒鉛に一定の高い温度が必要で、そのため原子炉は加熱された。
翌9日、午前2時15分、技術者たちは異常に気がづいた。熱電対の示す温度が上昇し続けていたのだ。10月9日、原子炉内の温度が危険なレベルまで到達し、ついに原子炉内部の黒鉛と金属ウランに炎がついた。温度計のいくつかは、400度以上だった。そこで彼らは原子炉を冷やすため、二酸化炭素を原子炉に入れたが効果はなかった。そして、10月10日の午前5時、放射能レベルもかなり上昇した。そして10日の正午、測候所が通常でない事象を高い煙突の出口に発見した。空気が高温で蜃気楼のように揺らめいていたのだ。11日の1時38分頃、温度は、1300度にまで上昇した。これ以上、温度が上昇すると原子炉容器が溶け始めるかもしれなかった。炉内の炎を消すための様々な方法が試みられたが、鎮火できなかった。10月12日午前、追い詰められたスタッフは、原子炉に水を注入することを決断する。それには水素爆発の危険があった。そうなれば大惨事だ。彼ら自身の命も危ない。しかし他に選択肢はなかった。原子炉へ1分間に1000ガロンが注水され、黒鉛とウランの炎はようやく鎮火した。それと同時に放射能を帯びた水蒸気が、高い煙突から大量に排出された。
事故を起こしたプルトニウム生産炉1号基は、ソ連との原爆製造レースの中で建設され、設計もよくなかった。実験で検証すべき課題の多くは無視され、したがって不測の事態が頻発し、その度に試行錯誤が繰り返された。さまざまなケースに対処するためのマニュアルも満足に整備されていなかった。むしろ建設されたプルトニウム生産炉それ自体が、巨大な実験施設といえた。
設計段階で予測できなかったことの1つは、原子炉を取り巻いて置かれた黒鉛に計算以上の熱が蓄積することだった。黒鉛は、原子炉で臨界の際、余分なエネルギーを吸収する減速剤として機能する設計だった。高熱を帯びた黒鉛は膨張し、さらに温度が上昇すれば最後には燃え上がる。そこで黒鉛の周辺に空気を送り込むことによって、熱を400フィートの高さの煙突から逃がす作業が必要だった。その熱放出の作業は1957年の火災事故の前、すでに2回実施され成功していた。事故のときもエネルギーを逃がす作業中だった。事故原因の大きな要因として、事故直後の1957年に作成された、”ペニー報告書”は、設計ミスで温度計が誤った場所に取り付けられていた事実を指摘していた。そのために温度の測定を誤った結果、原子炉を加熱し、火災が発生したと推測された。そのため技術者たちは、温度の上昇を初期の段階で実際よりかなり低く認識していたのだ。
(ⅱ)放射能に曝された人びと
プルトニウム生産炉1号基から、大量の放射能が排出された1957年10月10日、地域の様子はどうだったか。ウィンズケールから1マイル離れたコールダー・ブリッジの丘では、人びとのパニックどころか警察のサイレン、点滅する警告灯すら見られず、いつものように静かな日だった。ウィンズケールの小数の技術者や作業員を除いて、大量の放射能が蒸気とともに大気中に放出された事実を誰も知らなかった。
カンブリアに生活する一般の人びとに、この火災事故の重大性が分かりはじめるのに2日もかかった。10月12日、ウィンズケールを運営する英国原子力公社の連絡を受けて、国や地方組織は対応を取り始めた。最初に、放射能でひどく汚染されたに違いない牛乳の出荷禁止が強制された。この牛乳の販売の禁止は、ミロム近くまでウィンズケールから20マイル内の農家に衝撃を与えた。およそ2万ガロンの牛乳が出荷できなくなり、その多くはアイリッシュ海に直接捨てられた。調査の結果、牛乳は放射能の安全基準の6倍以上も汚染されていた。牛乳やウサギや農作物に関する人びとの不安は、ウィンズケールの北40マイルに広がった。搾乳場の職員は言う。
「牛乳出荷禁止を伝えられて、私たちは怯えた。こんな経験をしたことがなかった。ウィンズケールで大変な事態が起こったと思った」
・・・
この”ウィンズケール・ファイヤー”の際、英国原子力公社や国、地方行政が地域住民のためにしたことは、極めて不充分だった。火災事故の周知やそれによる大量の放射能漏洩、人びとの生命、生活に関わる重要な情報はまったく伝えられなかった。しかしそれらを積極的に人びとに伝えたとしても、具体的にどう対処するのが最善であるか、説明できる人間は、英国原子力公社のスタッフにも少なかった。誰一人として過去、放射能事故など経験したことはなかったし、世界に前例とすべき事故もなかった。
ウィンズケールの火災事故の2日後、カンバーランドと北西ランカシャーの200マイル四方で牛乳の販売禁止が強制された。牛乳の出荷禁止の対象となった農家は、全部で997戸だった。事故後2週間して英国原子力公社の広報担当者は、牛乳の販売禁止について述べた。
「現在、牛乳の出荷や流通の制限についての解除が検討されている。われわれは頻繁に放射能レベルの測定をおこなっている。放射能のレベルは徐々に低下してきた。しかし制限の解除がされるまでさらに時間が必要だ」
また牛乳販売協議会の代表は言う。
「1万ガロンの牛乳が、主にウェストモーランド地域から毎日、この地域に運ばれている。われわれは、この地域の需要に対応できる供給能力がある」
しかし、ウェストモーランド地域の牛乳も、放射性ヨウ素131に汚染されていたのだ。
牛乳を満載したタンクローリーが、それを廃棄するため、ウィンズケール近郊の街、ミロムの広場に列を連ねた。しかし牛乳販売協議会は、ミロムの製鉄所前の海へ通じる下水道へ牛乳を捨てることを禁止した。街中の排水溝へ牛乳を捨てたために、多くの住人が悪臭にたいして抗議の声を上げたからだ。
そのためタンクローリーは牛乳を海へ直接捨てるために、海岸近くの排水路や入江に殺到した。すでに発酵し始めた牛乳はアイリッシュ海に流され、寄せる波は汚れた白濁色になり、美しい砂浜には悪臭が漂っていた。
・・・
事故から1ヶ月後、ウィンズケールのゼネラル・マネージャーであるH・G・ディビィが、カンブリア州議会の健康委員会に出席し、事故後の状況を説明した。彼はこのとき、事故の3年前の1954年に、ウィンズケールでの放射能漏洩など緊急事態に対処する計画が作成されていたことを初めて明らかにした。この緊急時の計画では、警察にはウィンズケールから事故発生の情報が入る。もし放射能が危険なほど高いレベルなら、警察は、地域の人びとが屋内に留まるよう警告を発すること、警察官と他のウィンズケールからの人員には防護服が支給されることなどが規定されていた。しかし緊急時の計画の存在すら知られていなかったため、緊急時に関係する組織や人びとどのように行動するべきか誰も理解していなかった。
”ウィンズケール・ファイヤー”の際、警察は英国原子力公社から事故の情報が入った。しかし火災事故から2、3日経って、地域の牛乳出荷を禁止する以外の対策はなにもとられなかった。カンブリア州議会の健康委員会は、州の健康医療管理官のW・H・P・ミント医師によって助言された。その内容は、ウィンズケール近隣の地域でも健康への危険はないというものだった。それは、地域で動植物の調査や分析が充分なされた上での結論ではなかった。ただ混乱を静めるためだけの言葉だった。
タイソン・ドーソンの農場は、ウィンズケールに隣接している。彼は事故から2日経った1957年10月12日、ウィンズケールでの火災事故を初めて知った。ドーソンは早朝に起こされ、地元の警察官から牛乳を飲んではいけないと言われた。指示されたことは、それをすべて排水溝に捨てることだった。しかしそうした指示は、地域によっては事故の数日後までなかった。事故後の2日間、搾乳された牛乳は通常どおり出荷され、家での食卓に出されていた。人びとは最初、放射性降下物についてもまったく知らなかった。そして、農作業や散歩など普通と変わらぬ生活をしていた。
ウィンズケールの火災事故に関しての公式発表は、とにかく安心しろだった。火災事故にたいする政府の調査結果は、最悪でも健康にどんな影響もありえない。その言葉の繰り返しだった。しかし、核施設から遠くない農場では、数週間後、奇妙なことが起こり始めた。家畜が見たこともない奇病で死んだり、子牛や子羊が奇形で生まれたりした。タイソン・ドーソンの農場でも雄牛は事故から2週間して、倒れて死んだ。獣医は、それが何の病気であるか理解できなかった。事故から8日後、ウィンズケール近くのモーア・エンド農場で突然、鼻から出血しはじめた牛が何頭か死んだ。1ヶ月後、多くの家畜の口に爛れたような損傷がみられた。その後何年も経て、人びとの間にも白血病やガンなどの病気が少しずつ現れるが、英国原子力公社など当局は、こうした病気と、”ウィンズケール・ファイヤー”との関連性を一貫して否定してきた。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は省略を示します。
原爆製造が、当時は急務の核技術開発であったために、廃棄物処理や放射能汚染などのさまざまな問題を置き去りにしたまま、開発が進められたのは、イギリスも他の原子力先進国と同じである。その後、東西冷戦の終結などもあって、核の軍事的価値が低下し、原子力の平和利用すなわち原子力発電にその開発競争が移行したとはいえ、相変わらず原子力産業は、どこでも国家を中心とする巨大な組織に支えられている。したがって、当時も今も、周辺住民や一般国民の声は、よほどのことがないと、まともに取り上げられることがない。
原子力関係機関が、事故を隠蔽し、放射能汚染を過小に評価しようとするのも、原子力先進国共通のようであるが、放射能汚染による被爆被害の問題はイギリスでも深刻なことがわかる。下記は「核燃サイクルの闇 イギリス・セラフィールドからの報告」秋元健治(現代書館)からの一部抜粋である。
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Ⅲ ”ウィンズケール・ファイヤー” ──封印された核事故──
(ⅰ)プルトニウム生産炉の炎
1957年10月、”ウィンズケール・ファイヤー”として知られる軍事用プルトニウム生産炉の火災事故が起こった。このときプルトニウム生産炉内の温度が急激に上昇し、ウラン燃料と減速剤の黒鉛が燃え上がった。英国原子力公社の技術者は、蒸気爆発の危険を顧みず、大量の水を原子炉へ流し込んで鎮火に成功する。しかし注水とともに、放射能を帯びた水蒸気が大気中に放出されてしまった。英国原子力公社の著名な原子力物理学者ジョン・コックロフトに因んで、コックロフト・フォリーズと呼ばれた煙突上部のフィルター装置が、多くの放射性物質の放出を抑えた。それでも大気中に放たれた放射能は相当の量だった。上空の雲を放射能雲とし、それはベルギー、オランダ、ドイツ、ノルウェーなどヨーロッパの国々を広範囲に汚染した。
火災事故の経過は、おおよそ次のようだった。1957年10月7日、プルトニウム生産炉一号基で計画された熱放出作業のため原子炉は停止した。この原子炉は空冷式で、液体の冷却剤を循環させるような特別な冷却装置をもたず、定期的に原子炉を冷やすことが必要だった。最初の誤りは10月8日の午前11時、原子炉内の黒鉛の温度を高める作業でなされた。炉心の熱を高い煙突から放出するために、黒鉛に一定の高い温度が必要で、そのため原子炉は加熱された。
翌9日、午前2時15分、技術者たちは異常に気がづいた。熱電対の示す温度が上昇し続けていたのだ。10月9日、原子炉内の温度が危険なレベルまで到達し、ついに原子炉内部の黒鉛と金属ウランに炎がついた。温度計のいくつかは、400度以上だった。そこで彼らは原子炉を冷やすため、二酸化炭素を原子炉に入れたが効果はなかった。そして、10月10日の午前5時、放射能レベルもかなり上昇した。そして10日の正午、測候所が通常でない事象を高い煙突の出口に発見した。空気が高温で蜃気楼のように揺らめいていたのだ。11日の1時38分頃、温度は、1300度にまで上昇した。これ以上、温度が上昇すると原子炉容器が溶け始めるかもしれなかった。炉内の炎を消すための様々な方法が試みられたが、鎮火できなかった。10月12日午前、追い詰められたスタッフは、原子炉に水を注入することを決断する。それには水素爆発の危険があった。そうなれば大惨事だ。彼ら自身の命も危ない。しかし他に選択肢はなかった。原子炉へ1分間に1000ガロンが注水され、黒鉛とウランの炎はようやく鎮火した。それと同時に放射能を帯びた水蒸気が、高い煙突から大量に排出された。
事故を起こしたプルトニウム生産炉1号基は、ソ連との原爆製造レースの中で建設され、設計もよくなかった。実験で検証すべき課題の多くは無視され、したがって不測の事態が頻発し、その度に試行錯誤が繰り返された。さまざまなケースに対処するためのマニュアルも満足に整備されていなかった。むしろ建設されたプルトニウム生産炉それ自体が、巨大な実験施設といえた。
設計段階で予測できなかったことの1つは、原子炉を取り巻いて置かれた黒鉛に計算以上の熱が蓄積することだった。黒鉛は、原子炉で臨界の際、余分なエネルギーを吸収する減速剤として機能する設計だった。高熱を帯びた黒鉛は膨張し、さらに温度が上昇すれば最後には燃え上がる。そこで黒鉛の周辺に空気を送り込むことによって、熱を400フィートの高さの煙突から逃がす作業が必要だった。その熱放出の作業は1957年の火災事故の前、すでに2回実施され成功していた。事故のときもエネルギーを逃がす作業中だった。事故原因の大きな要因として、事故直後の1957年に作成された、”ペニー報告書”は、設計ミスで温度計が誤った場所に取り付けられていた事実を指摘していた。そのために温度の測定を誤った結果、原子炉を加熱し、火災が発生したと推測された。そのため技術者たちは、温度の上昇を初期の段階で実際よりかなり低く認識していたのだ。
(ⅱ)放射能に曝された人びと
プルトニウム生産炉1号基から、大量の放射能が排出された1957年10月10日、地域の様子はどうだったか。ウィンズケールから1マイル離れたコールダー・ブリッジの丘では、人びとのパニックどころか警察のサイレン、点滅する警告灯すら見られず、いつものように静かな日だった。ウィンズケールの小数の技術者や作業員を除いて、大量の放射能が蒸気とともに大気中に放出された事実を誰も知らなかった。
カンブリアに生活する一般の人びとに、この火災事故の重大性が分かりはじめるのに2日もかかった。10月12日、ウィンズケールを運営する英国原子力公社の連絡を受けて、国や地方組織は対応を取り始めた。最初に、放射能でひどく汚染されたに違いない牛乳の出荷禁止が強制された。この牛乳の販売の禁止は、ミロム近くまでウィンズケールから20マイル内の農家に衝撃を与えた。およそ2万ガロンの牛乳が出荷できなくなり、その多くはアイリッシュ海に直接捨てられた。調査の結果、牛乳は放射能の安全基準の6倍以上も汚染されていた。牛乳やウサギや農作物に関する人びとの不安は、ウィンズケールの北40マイルに広がった。搾乳場の職員は言う。
「牛乳出荷禁止を伝えられて、私たちは怯えた。こんな経験をしたことがなかった。ウィンズケールで大変な事態が起こったと思った」
・・・
この”ウィンズケール・ファイヤー”の際、英国原子力公社や国、地方行政が地域住民のためにしたことは、極めて不充分だった。火災事故の周知やそれによる大量の放射能漏洩、人びとの生命、生活に関わる重要な情報はまったく伝えられなかった。しかしそれらを積極的に人びとに伝えたとしても、具体的にどう対処するのが最善であるか、説明できる人間は、英国原子力公社のスタッフにも少なかった。誰一人として過去、放射能事故など経験したことはなかったし、世界に前例とすべき事故もなかった。
ウィンズケールの火災事故の2日後、カンバーランドと北西ランカシャーの200マイル四方で牛乳の販売禁止が強制された。牛乳の出荷禁止の対象となった農家は、全部で997戸だった。事故後2週間して英国原子力公社の広報担当者は、牛乳の販売禁止について述べた。
「現在、牛乳の出荷や流通の制限についての解除が検討されている。われわれは頻繁に放射能レベルの測定をおこなっている。放射能のレベルは徐々に低下してきた。しかし制限の解除がされるまでさらに時間が必要だ」
また牛乳販売協議会の代表は言う。
「1万ガロンの牛乳が、主にウェストモーランド地域から毎日、この地域に運ばれている。われわれは、この地域の需要に対応できる供給能力がある」
しかし、ウェストモーランド地域の牛乳も、放射性ヨウ素131に汚染されていたのだ。
牛乳を満載したタンクローリーが、それを廃棄するため、ウィンズケール近郊の街、ミロムの広場に列を連ねた。しかし牛乳販売協議会は、ミロムの製鉄所前の海へ通じる下水道へ牛乳を捨てることを禁止した。街中の排水溝へ牛乳を捨てたために、多くの住人が悪臭にたいして抗議の声を上げたからだ。
そのためタンクローリーは牛乳を海へ直接捨てるために、海岸近くの排水路や入江に殺到した。すでに発酵し始めた牛乳はアイリッシュ海に流され、寄せる波は汚れた白濁色になり、美しい砂浜には悪臭が漂っていた。
・・・
事故から1ヶ月後、ウィンズケールのゼネラル・マネージャーであるH・G・ディビィが、カンブリア州議会の健康委員会に出席し、事故後の状況を説明した。彼はこのとき、事故の3年前の1954年に、ウィンズケールでの放射能漏洩など緊急事態に対処する計画が作成されていたことを初めて明らかにした。この緊急時の計画では、警察にはウィンズケールから事故発生の情報が入る。もし放射能が危険なほど高いレベルなら、警察は、地域の人びとが屋内に留まるよう警告を発すること、警察官と他のウィンズケールからの人員には防護服が支給されることなどが規定されていた。しかし緊急時の計画の存在すら知られていなかったため、緊急時に関係する組織や人びとどのように行動するべきか誰も理解していなかった。
”ウィンズケール・ファイヤー”の際、警察は英国原子力公社から事故の情報が入った。しかし火災事故から2、3日経って、地域の牛乳出荷を禁止する以外の対策はなにもとられなかった。カンブリア州議会の健康委員会は、州の健康医療管理官のW・H・P・ミント医師によって助言された。その内容は、ウィンズケール近隣の地域でも健康への危険はないというものだった。それは、地域で動植物の調査や分析が充分なされた上での結論ではなかった。ただ混乱を静めるためだけの言葉だった。
タイソン・ドーソンの農場は、ウィンズケールに隣接している。彼は事故から2日経った1957年10月12日、ウィンズケールでの火災事故を初めて知った。ドーソンは早朝に起こされ、地元の警察官から牛乳を飲んではいけないと言われた。指示されたことは、それをすべて排水溝に捨てることだった。しかしそうした指示は、地域によっては事故の数日後までなかった。事故後の2日間、搾乳された牛乳は通常どおり出荷され、家での食卓に出されていた。人びとは最初、放射性降下物についてもまったく知らなかった。そして、農作業や散歩など普通と変わらぬ生活をしていた。
ウィンズケールの火災事故に関しての公式発表は、とにかく安心しろだった。火災事故にたいする政府の調査結果は、最悪でも健康にどんな影響もありえない。その言葉の繰り返しだった。しかし、核施設から遠くない農場では、数週間後、奇妙なことが起こり始めた。家畜が見たこともない奇病で死んだり、子牛や子羊が奇形で生まれたりした。タイソン・ドーソンの農場でも雄牛は事故から2週間して、倒れて死んだ。獣医は、それが何の病気であるか理解できなかった。事故から8日後、ウィンズケール近くのモーア・エンド農場で突然、鼻から出血しはじめた牛が何頭か死んだ。1ヶ月後、多くの家畜の口に爛れたような損傷がみられた。その後何年も経て、人びとの間にも白血病やガンなどの病気が少しずつ現れるが、英国原子力公社など当局は、こうした病気と、”ウィンズケール・ファイヤー”との関連性を一貫して否定してきた。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は省略を示します。