真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議あり NO1

2015年09月06日 | 国際・政治

 「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)には、ジャ-ナリストの櫻井よしこ氏が、下記のような「推薦のことば」を寄せている。(一部抜粋)
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 本書は、1937年当時の南京にいた軍人、ジャーナリスト、外交官など関係者の体験談を集めた第一級の資料である。いわゆる「南京事件」は、その呼び方すら今だ定まらないほど議論の分かれる問題だが、まずは、そのとき現地にいた人々の話を実際に聞くのが筋である。従って、本書をまとめた阿羅健一氏の手法は、ジャーナリズムという観点からみて、極めて基本に忠実なアプローチだといえる。
 一体、日本人は南京で何をしたのか、しなかったのか、そして何を見たのか。虐殺と言われるようなことは本当にあったのか。
 それらの結論は、本書を読めば自ずと見えてくる。
 ・・・
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 まず、この「推薦のことば」にひっかかった。
 櫻井氏は、南京事件当時、現地にいた日本の軍人、ジャーナリスト、外交官の証言が「第一級の資料」であるという。

 一般的に歴史を考察する上で手がかりになる「一次史料」は、その当時の生の史料、すなわち同時代史料のことである。そして、南京事件に関しては、様々な「一次史料」が存在する。「一次史料」と「第一級の資料」との関係を櫻井氏がどのように考えているのかはわからないが、「一次史料」と矛盾する「日本人48人の証言」を、そのまま「第一級の資料」などと言って、検証することなく、無批判に受け止めてしまっていいものであろうか、ということである。日本は南京事件の加害国なのである。

 「一次史料」として、日本には当時の日本兵の陣中日記や手紙、陣中日誌、部隊の戦闘詳報があり、さらに、南京難民区国際委員会の関係者が、日本大使館や関係機関に宛てて出した文書などがある。「日本人48人の証言」とは矛盾する元日本兵の証言や手記なども多数ある。それらを無視し、日本人48人の証言によって「南京大虐殺」がなかったかのように主張すれば、日中の関係改善を一層難しくするのみならず、日本は国際的に信頼を失うことにもなると思う。

たとえば
第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』の12月13日には、
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
  イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
    其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
  ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ
  ハ、聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
    貴大隊ノ任務ハ前通リ
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命シ整理集積セシメ監視兵ヲ附ス
  午後3時30分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果各中隊(第一第二第四中隊)ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ50名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地第三中隊ハ路営  地西南方凹地第四中隊ハ露営地東南谷地附近ニ於テ刺殺セシムルコトヽセリ
  但シ監禁室ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ感知サレサル如ク注意ス
  各隊共ニ午後5時準備終リ刺殺ヲ開始シ午後7時30分刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス
  第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ失敗セリ
  捕虜ハ観念シ恐レス軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸フルモノ銃剣ノ前ニ乗リ出シ従容トシ居ルモノアリタルモ中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ
 と書かれている。ここにある「監禁室ヨリ50名宛連レ出シ」指示された場所で、抵抗不可能な「捕虜」を刺殺するというのは、「交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦」などが規定されている国際法、「ハーグ陸戦法規」に反することだと思う。ハーグ陸戦法規には「俘虜(捕虜)は人道をもって取り扱うこと」と定められているのである。

 第十三師団、歩兵第六十五連隊第一大隊、遠藤重太郎輜重特務兵の陣中日記には
江陰を出発して5日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向つた所はやくも我が六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまつたので又南京北方の砲台に向つたら南京敗残兵が白旗をかゝげ掲げて来たので捕虜2万…”
とある。「白旗」を掲げて投降してきたのであり、はっきり「捕虜」と書いている。捕虜は保護されなければならないはずである。


 同じ歩兵第六十五連隊第一中隊の、伊藤喜八上等兵の陣中日記には、
”… 午後1時から南京入城式。
 夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。
 その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した。”
とある。捕虜2万人を銃殺したと書いているのである。


 また、歩兵第六十五連隊第四中隊の宮本省吾少尉の陣中日記には
”警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。”
とある。捕虜3千を「射殺」したという記述である。

 また、歩兵第六十五連帯第八中隊、遠藤高明少尉の陣中日記には、
定刻起床、午前9時30分ヨリ1時間砲台見学ニ赴ク、午後零時30分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ同3時帰還ス、同所ニ於テ朝日記者横田氏ニ逢ヒ一般情勢ヲ聴ク、捕虜総数1万7千25名、夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一江岸ニ引出シI(第一大隊)ニ於テ射殺ス。
 1日2合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシノ命令アリタルモノノ如シ。”
と、食糧不足のため軍命によって射殺するのだと受け止めている記述がある。

 さらに、歩兵第六十五連隊第九中隊の、本間正勝二等兵の戦闘日誌には、
12月14日午前5時出発、体ノ工合ハ良カツタ、途中降参兵沢山アリ、中隊デモ500名余捕虜ス、聯隊デハ2万人余モ捕虜シタ
とか
12月17日、午前9時当聯隊ノ南京入城、軍ノ入城式アリ、中隊ノ半数ハ入城式ヘ半分ハ銃殺ニ行ク、今日1万5千名、午后11時マデカゝル、自分ハ休養ス、煙草2ケ渡、夜ハ小雪アリ
と捕虜1万5千名銃殺の記述がある。こうした捕虜殺害の記述や証言がほかにも多数残され、記録されているのである。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記』小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)
『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)
『─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行』ティンバーリイ原著 訳者不詳(評伝社)

 また、同書「あとがき」の、著者自身の文章に、私は、いくつかの点で同意できない。下記は、その「あとがき」全文であるが、同意できない点を箇条書きにしたい。
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                   あとがき      
 南京を歩きまわってあちこち見ていた日本人の証言から、どんなことが浮かびあがってくるであろう。
 南京でいわゆる「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない。それが一つ。それから9年たち、南京での暴虐が東京裁判で言われたとき、ほとんどの人にとっては、それがまったくの寝耳に水だった。
 つぎに、48人の証言から、市民や婦女子に対する虐殺などなかったことがわかる。とくに婦女子に対する暴虐は、誰も見ていないし、聞いてもいない。”
 南京にはいたるところに死体があり、道路が血でおおわれていた、としばしば語られるけれど、そのような南京は、48人の証言のなかにまったくない。東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事のようだ。

 一般市民に対してはそうであるけれど、しかし軍隊に対してはやや違うようだ。
 中国兵を処断している場面を何人かが見ている。中国兵を揚子江まで連れていって刺殺しているし、城内でも刺殺している。南京に向かう途中でも、そのような場面を見ている人がいる。揚子江岸にはのちのちまで処断された死体がたくさんあった。
 これから推察すると、南京事件と言われているものは、中国兵に対する処断だったのであろう。
 といって、だからそれが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない。大騒ぎすることではない、それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている。

 大多数ということは、そうでない人もいた。なかには、処断の場面を見て残酷だと感じ、行き過ぎだと見なす人がいた。しかし、そういう人でも、とくに話題にすることはなかったから、特別なこととは見なしていなかった。

 48人の証言者のなかには軍人がいた。彼らの証言をみると、中国兵をとくに虐待しようとしていた人はいなかった。中島今朝吾師団長、長勇参謀のように、中国兵にきびしくあたるような言動の人もいたけれど、軍からそのような命令がでたわけではない。反対に、最高司令官松井石根大将は中国兵には人道的に対応するように命じている。

 中国軍は、証言にもあるように、降伏を拒否していた。日本軍と最後まで戦うつもりだったし、追い詰められても、降伏は認められていなかったから、捕虜になるという考えや気持ちもなかった。最後の段階になって中国兵は軍服を脱ぎ、市民の中に紛れこんだ。中国軍には戦時国際法が念頭になかった。

 一方、中国兵を処断した日本兵は、そのことを隠すこともしないし、なかには、ジャーナリストらにわざわざ処断の場面を見せようとするものもいた。中国兵の処断は戦闘の続きだ、と日本兵はみなしていたからである。のちに虐殺だと言われるとは思いもしなかっただろう。
 それでは、中国兵の処断は戦時国際法からどのようにみなされるのだろうか。
 現在の研究からみると、意見は分かれる。
 ひとつは、司令官が逃亡し、中国兵が軍服を脱いで武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった、日本が非難されるいわれはない、とみなす意見である。
 その反対に、最後まで中国兵を人道的に遇すべきだし、処断は戦時国際法違反だ、という見方がある。
 また、処断するにしても、軍律会議などを経るべきだった、そうすれば非難されることはなかっただろうという見方もある。
 ともあれ、南京事件と言われるものの実態は、中国兵の処断である。戦場であったから、悲惨な場面もいくらもあった。逃げようとする中国兵のなかには城壁から落ちて死んだものもいた。しかし、それは戦場ならどこにでもる光景である。48人の証言はそういったことを教えてくれる。

 2001年11月21日                       阿 羅 健 一
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○ まず、 ”「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない。”という文章である。現実に「30万人の大虐殺」など見ることはできない。また、何を「虐殺」ととらえるのか、ということがきちんと確認されていないと、虐殺を見たかどうかの証言を集めたことにはならないと思う。
 著者はどういう意図があってか、捕虜の殺害(虐殺)を一貫して「処断」と表現し、処断は「合法」といいたいようであるが、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」は捕虜はもちろん、捕虜の資格がなくても、「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」を禁じている。また、たとえ捕虜の資格がない便衣兵に敵対行為や有害行為があった場合でも、正当防衛でない限り、裁判の手続きなしに殺害することは許されない。軍事裁判などの手続きがなされなければならないということである。一般刑法が殺人を禁じているのと同じであろう。 

○ 著者は、日本軍が中国兵を揚子江岸で刺殺したり、銃殺したりしたことは認めている。
 ところが、”「南京事件」と言われているものは、中国兵に対する処断だったのであろう”ということで、「それが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない」などという。「大騒ぎすることではない、それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている」というのである。
「それが戦争だ、戦場だ」と大多数の証言者が見なしていても、それはハーグ陸戦法規に反する考え方であり、人命尊重の意識を欠く野蛮な考え方でろう。投降兵や自ら武器を捨てた敗残兵を縛り上げて、銃殺したり、刺殺したりすることは、責められるべきことであり、虐殺ととらえられても仕方がないことだと思う。

 では、なぜ、日本軍のいろいろな部隊が、何千、何万という捕虜を殺害(虐殺)したのか、また、なぜ、多くの日本兵が、捕虜の殺害(虐殺)に躊躇することなく加担したのか。私は、下記のような軍中央の方針や命令が、その重要な要素であると思う。

 陸支密第198号(昭和12年8月5日)次官ヨリ駐屯軍参謀長宛(飛行便)「交戦法規ノ適用ニ関スル件」「今次事変ニ関シ交戦法規ノ問題ニ関シテハ左記ニ準拠スルモノトス」として

その一で
現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラサルヲ以テ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラス
とし、その四で
軍ノ本件ニ関スル行動ノ準拠前述ノ如シト雖帝国カ常ニ人類ノ平和ヲ愛好シ戦闘ニ伴フ惨害ヲ極力減殺センコトヲ顧念シアルモノナルカ故ニ此等ノ目的ニ副フ如ク前述「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」中害敵手段ノ選用等ニ関シ之カ規定ヲ努メテ尊重スヘク又帝国現下ノ国策ハ努メテ日支全面戦争ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦争ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルゝカ如キ言動(例ヘハ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用、或ハ軍自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セリト公称シ其ノ他必要已ムヲ得サルニ非サルニ諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言動)ハ努メテ之ヲ避ケ又現地ニ於ケル外国人ノ生命、財産ノ保護、駐屯外国軍隊ニ対スル応待等ニ関シテハ勉メテ適法的ニ処理シ特ニ其ノ財産等ノ保護ニ当リテハ努メテ外国人特ニ外交官憲等ノ申出ヲ待テ之ヲ行フ等要ラサル疑惑ヲ招カサルノ用意ヲ必要トスヘシ”
と明示している。

 日本は、国際法の適用を逃れるため敢えて宣戦布告をせず他国を攻撃する方針をとり、したがって「戦争」という言葉を使わず、「事件」「事変」という名称で「戦争」を繰り返したのである。北清事件、満州事変、上海事変、支那事変、ノモンハン事件等々。事件や事変であれば、ハーグ陸戦法規などの国際法に拘束されないと考えていたので、日本軍は、戦場で戦う将兵に国際法をきちんと教えることをしなかった。だから、日本兵は、戦友を殺された憎しみに差別感も加わって、「捕虜」を虐待したり、拷問したり、殺したりすることにあまり抵抗を感じなくなっていったということではないかと思う。捕虜の虐殺が国際法、ハーグ陸戦法規に反する犯罪であるという自覚がなかったから、陣中日誌などにも「捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す」と正直に記述したのだと思う。
 また、食糧などの補給がほとんどない日本軍に、捕虜を養う余裕がなく、第十六師団、中島今朝吾師団長が日記に書いたように、「…大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ……」というような方針を取らざるを得なかったことも見逃すことはできないと思う。前述の「(捕虜には)1日2合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシノ命令アリタルモノノ如シ」という遠藤少尉の陣中日記と符合するのである。

 著者は「中国兵を処断(虐殺)した日本兵は、そのことを隠すこともしないし、なかには、ジャーナリストらにわざわざ処断の場面を見せようとするものもいた」と書いているが、それが事実だとすれば、それは、捕虜の処断(虐殺)が国際法違反であるという自覚がなかったからではないかということである。

 戦場の日本兵が「捕虜」と受け止めていても、軍中央は戦争ではなく「日支事変」だから、拘束した中国兵は「捕虜」ではなく、ハーグ陸戦法規の対象ではないとして、捕虜の殺害(虐殺)に何の指示も命令もせず放置したのではないのか、と思う。

○ 著者は、南京事件当時の現地最高司令官松井大将は「中国兵には人道的に対応するように命じている」というが、その松井大将自身が「支那事変日誌」に、軍紀・風紀の乱れについて

”…我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。是レ思フニ
一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。
等 ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。”
と書いていることを見逃してはならないと思う。「人道的に対応するように命じている」にもかかわらず、実際は人道的な対応がなされなかったということである。だから、「48人の証言者のなかには軍人がいた。彼らの証言をみると、中国兵をとくに虐待しようとしていた人はいなかった」というが、実態は虐殺・虐待が日常化していたといえる。

○ 著者は「中国軍は降伏を拒否し、降伏を認めていなかったから、中国兵は捕虜になるという考えや気持ちもなかった」というようなことを書いているが、日本人である著者に、どうしてそんな断定ができるのだろうか。何か記録や証言があるのだろうか。では、なぜ中国兵は集団的に投降したのだろうか。その理由を説明しなければならないと思う。

 投降兵や武器を持たない中国兵を縛り上げ、並ばせて銃殺したり、刺突訓練で初年兵に突き殺させたり、首を切り落としてそのまま埋めたりしたことを、「処断」などと称して、合法とすることはできないと私は思う。また、中国兵と疑われた民間人が多数殺害されたという証言も多い。そうした事実は、48人の証言だけで、なかったことにできるほど簡単なことではないし、「それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている」などということで正当化できることでもないと思う。

○ 「南京での暴虐が東京裁判で言われたとき、ほとんどの人にとっては、それがまったくの寝耳に水だった」として、南京事件が東京裁判でのでっちあげであるかのように主張するのも、当時の日本軍の「情報統制」を考慮しないものであると思う。戦後、「大本営発表」がウソの代名詞のようになったことを忘れてはならない。「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」で、著者ティンバーリイは、「日本側の報道を見よ」と題して
日本軍隊が南京を占領してから後の状況は日本紙にはほとんど登載されず、あるいは全然何も載せられなかったと言えるかも知れない。日本で出版された英字紙 を見ても、日本軍の南京やその他都市におけるいろんな暴行は全然痕跡すら見出されない。日本紙は南京を、平和な静かな地方として粉飾しようと考えていたのである
と指摘し、当時の日本の報道をそのまま掲載している。
 「東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事」でないことははっきりしている。南京難民区国際委員会の関係者が、連日、日本大使館や関係機関に宛てて出した多くの暴行報告や請願の文書および当時の海外報道を見れば分かることである。

 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」に違反する日本軍の投降兵や武器を捨てた敗残兵などの「捕虜」の殺害(虐殺)は、著者のいうような戦闘行為による殺害ではない。
 ハーグ陸戦法規の、第一款 第一章、交戦者の資格の第1条には、

戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵にも適用される」

とあり、その第二款、第一章、第23条には「特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り」として、

その中にはっきりと「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」と定めている。

 「白旗」を掲げて投降してきた中国兵を銃殺したり、刺殺したりすることを禁じているのである。したがって、上記のような記述や証言を、戦闘行為による殺害で合法と主張することは国際社会では通用しない。

○著者は「現在の研究からみると、意見は分かれる」として、「司令官が逃亡し、中国兵が軍服を脱いで武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった、日本が非難されるいわれはない」という主張に同調したいようであるが、この文章もひっかかる。
 南京難民区国際委員会は「南京市民に告げる書」の中で中国軍の「防衛軍司令長官が、本区域内の兵士および軍事施設を一律に速やかに撤去し、以後いっさい軍人を本区に入れないことを承諾いたしました」と伝え、また「日本軍は軍事施設がなく、軍事用 工事・建設がなく、駐屯兵がおらず、さらに軍事的利用地でないような場所に対してはすべて、爆撃する意図をけっして持っていない、それは当然のことである」と述べたことを明らかにして、「この区域内の人民は他のところの人民にくらべて、ずっと安全であることは間違いないと、信じています。したがって市民の皆さん、本難民区へおいでになってはいかがでしょうか!」と呼びかけている。
 南京安全区国際委員会の外国人委員たちは、南京城からの脱出に失敗し、難民区に逃げ込んでくる中国兵をそのまま難民区に入れることをしなかった。民間人保護のため、武器を捨てた中国兵を地区内の建物に収容したのである。「武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった」というのは、どこの話であろうかと思う。「武器を隠し持ち市民に紛れこんだ」中国兵が、日本兵を殺害したことがあったであろうか。
 国際委員会の書簡文・第7号文書(1937年12月18日付国際委員会発日本大使館宛公信)に
難民区には既に武装を解除する中国兵なく従って便衣隊の襲撃事件も発生し居らざるにも鑑み各収容所私人住宅は既に幾回となく捜索せられ捜索はただ掠奪と姦淫の口実を与え居るを以て貴軍が若し常時憲兵を派し難民区を巡邏せしむれば中国兵はその身を容るる所なかるべし
とある。
 にもかかわらず、肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他、兵隊であったことを示すしるしのある男子を、一軒一軒しらみつぶしに捜索し、南京安全区に収容されていた中国兵の大部分を裁判なしに集団処刑したのである。
 
 前述の日本兵の陣中日記や手紙、陣中日誌、戦闘詳報、さらに、南京難民区国際委員会の関係者が、日本大使館や関係機関に宛てて出した文書、元日本兵の証言や手記などと符合する中国側の調査結果や中国関係者の証言をすべて無視して、「南京大虐殺」はなかったと主張することは、日本で受け入れられても、世界では通用しないのみならず、国際社会の信頼をうしなうことにもなると思う。
 日本は敗戦国であり、極東国際軍事裁判や南京軍事法廷などで、虐殺などの加害責任を問われ、関係者が処刑されている。したがって加害者側である日本の関係者の証言が真実であると主張するためには、被害者側の証言や資料もきちんと踏まえ、矛盾する内容はきちんと検証しなければならないと思う。一方的な主張では、国際社会では受け入れられないと思うのである。そして、南京大虐殺についての事実の究明には、どうしても共同研究の姿勢が欠かせないとも思う。

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