真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO2

2015年09月08日 | 国際・政治

  「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO1では、櫻井よしこ氏の「推薦のことば」と、著者の考え方が示された「あとがき」について、同意できない部分やその理由をあげた。

 同様に、著者の「日本人48人の証言」の受け止め方および証言者自身の南京事件のとらえ方にも、同意できない部分があった。その理由を示すにあたって引いた証言は「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からの抜粋である。
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                             第一章 ジャーナリストの見た南京
                                 一 朝日新聞
大阪朝日新聞・山本治上海支局員の証言
 「検閲の実態はどんなものですか」という著者の質問に答えて
 「検閲のはっきりした基準というものはなく、とにかく軍のこれからの動きがわかるような記事はだめでした。私はその年の4月まで新京支局にいて関東軍の検閲をけいけんしていましたから軍の検閲は大体わかっており、私の持っていくものはほとんどフリーパスでした
と言っている。したがって、従軍記者は軍の検閲なしに記事を送ることが出来なかったという事実が確認できる。そして、さらに重要なのは、「南京の実態」がきちんと取材され報道されていたのかどうかということだと思う。でも、そのことには触れていない。

 また、「南京の様子はどうでした」との質問に
 「城壁の周りには中国兵の死体がありました。中山門から見た時、城内には何カ所も煙が上がっているのが見えました
と答えている。山本記者は陸軍の飛行機で上海から南京に飛び、入城式の終わった午後南京に入ったという。だとすれば、中国兵はすでに撤退しており、逃げ遅れた中国兵も武器を捨ててほとんど南京難民区に入っていた。「城内には何カ所も煙が上がっていた」ということはどういうことか。放火による火災ではないのか、と思う。

 「上海や杭州でも南京虐殺は聞いていませんか」との質問には
 「徐州作戦に従軍した後、私は体を悪くして昭和13年夏に日本に帰ってきました。神戸へ着いたところ、神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです。…」
と答えている。当時、南京事件は「外字新聞」で報道されていたということである。どんな記事が、どのような方法で、どんな「外字新聞」に掲載されたのか、著者は確かめることをしないのだろうか、と思う。

・東京朝日新聞・足立和雄記者の証言
南京で大虐殺があったと言われていますが、どんな「ことをご覧になっていますか」との質問に答えて
 「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日だったから、14日だと思うが日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが難民区ではなかった」
 と答えている。続いて「ご覧になって、その時どう感じました」との質問には
「残念だ、とりかえしのつかぬことをした、と思いました。とにかくこれで日本は支那に勝てないと思いました」
と答えている。そして「なぜ勝てないと…」の質問に
 「中国の婦女子の見ている前で、1人でも2人でも市民の見ている前でやった。これでは日本は支那に勝てないと思いました。支那人の怨みをかったし、道義的にもう何も言えないと思いました
と答えている。これが虐殺の証言でなくてなんであろう、と思う。「塹壕を掘ってその前に並ばせた」中国兵は、多分逃げられないように縛り上げられていたであろう。抵抗不可能な中国兵を、並ばせて機関銃で撃ち殺すことが、戦闘行為によるものであるとすることが、国際的に認められるであろうか。でも、著者は、すでに前項で触れたように「あとがき」に
「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない
と書いている。確かに足立記者が見たのは「30万人の大虐殺」ではない。しかし、同様の虐殺が繰り返されたことは、様々な記録や証言によって明らかなのである。

                                         二 毎日新聞

・東京日日新聞・金沢喜雄カメラマンの証言
 著者の「死体は全然なかったのですか」という質問に金沢カメラマンは、
いや。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。それは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ。あれだけの戦場で、しかも完全なる包囲作戦をとっていますから、死体があり、川に死体が流れているのは当たり前です。殲滅するためにわざわざ包囲作戦をとったのですよ。
 また、南京城内も戦場になったところですから、難民が撃たれて死んでいるのは当然です。そういうことはあったと思います。それが戦争です。それを虐殺というなら、戦争はすべて虐殺になりますし、それは戦場を知らない人の話です
 この証言には、意識的か無意識的かはわからないが、日本軍の行為を正当化しようとする考えがあるのではないかと思う。「死体があり、川に死体が流れている」のは当たり前」だろうか。「完全なる包囲作戦」による殲滅の理由は何だというのだろうか。「難民が撃たれて死んでいるのは当然です」というのはどういうことだろうか。戦火を逃れて避難する難民が撃たれて死んでいるのは当然なのだろうか。軍の行為に何の疑問も抱かない受け止め方ではないかと思うのである。

 また、「それが戦争です。それを虐殺というなら、戦争はすべて虐殺になりますし、それは戦場を知らない人の話です」というけれど、それは違うと思う。
 戦争というのは武器を所持して殺し合うことで、投降兵や武器を捨て戦う意志を持たない敗残兵、また、戦火を逃れて避難している難民を殺すことは、国際法で禁じられた虐殺なのだと思う。したがって彼らの死は戦死ではない。戦って死んだのではないのだと思う。

 投降兵や武器を持たず戦う意志のない敗残兵、難民の殺害は、戦場だから許されるわけではない。「それは戦場を知らない人の話です」という証言は問題だと思う。国際法など関係がないといっているのに等しい。
 著者の聞き取り調査は貴重な取り組みであるとは思うが、戦闘行為による殺害と虐殺をごちゃまぜしたようなこうした証言を集めても、「南京大虐殺」をなかったことにはできないと思う。

東京日日新聞・佐藤振寿カメラマンの証言
 彼は「百人斬り競争」の件で、下記のように証言している。
 「常州では百人斬りの向井少尉と野田少尉の2人の写真を撮りました。
 煙草を持っていないかという話になって、私は上海を出る時、ルビークインを百箱ほど買ってリュックのあちこちに入れていましたので、これを数個やったら喜んで、話がはずみ、あとは浅海記者がいろいろ聞いていました。私は疑問だったのでどうやって斬った人数を確認するのだと聞いたら、野田の方の当番兵が向井が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数えると言っていました。よく聞けば、野田は大隊副官だから、中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。向井も歩兵砲の小隊長だから、戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです。
 戦後、浅海記者にばったり会ったら、東京裁判で、中国の検事から百人斬りの証言を求められている。佐藤もそのうち呼び出しがくるぞ、と言っていましたが、私には呼び出しが来ませんでした。浅海が、あの事件はフィクションですと一言はっきり言えばよかったのですが、彼は早稲田で廖承志(初代中日友好協会会長)と同級だし、何か考えることがあったんでしょう。それで2人が銃殺刑になってしまいました
 この証言で、実際に向井少尉と野田少尉は、記者に「百人斬り競争」の話をしており、「百人斬り競争」の記事は、浅海記者の作り話ではないということがわかる。また、2人とも白兵戦で日本刀を振り回し、人を斬る立場になかったこともわかる。さらに、佐藤カメラマンの質問に、2人のどちらが答えたのかわからないが、数え方について「野田の方の当番兵が向井が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数える」と答えている。もし「百人斬り競争」がフィクションなら、佐藤カメラマンに嘘をついたということである。責任ある立場の少尉が、何の理由があって自国の従軍カメラマンに嘘をつくのであろうか。また、斬った人数を数えることができたのは、投降兵や武器を持たない敗残兵などの捕虜を並ばせて斬ったことの証ではないかと思う。

 野田毅少尉は南京占領後帰国して、故郷の小学校で講演し、下記のようなことを語ったという。
 ”郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4、5人しかいない……
 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 2人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……”(志々目彰・月刊誌『中国』1971年12月号ー南京大虐殺否定論の13のウソより))
これが真実に近く、中国兵を塹壕前に並ばせ刺殺した「捕虜虐殺」の一例だろうと思う。

 また、「大宅壮一氏(評論家)が当時『改造』に、佐藤さんと会ったと書いていますが…」との質問に                                                                         
 「その頃、大宅壮一は学芸部の社友でしたから、南京には準社員として来ていました。そこで私は大宅を中山文化教育館に連れてきたのです。彼はどこで入手したのか中国の古い美術品を持っていましてね。大宅だけではなく、記者にもそういう人がいました。その頃は『十割引で買ってきた』という言い方があってね、中国には古い仏像とかがありますから、そういうものを略奪する人がよくいました
と、略奪が相当あったことを裏付ける証言をしていることも見逃してはならないと思う。『十割引で買ってきた』というは、お金を払わず手に入れたということで、略奪してきたということだろうと思う。
 また、
「… それから何人かで車で城内をまわりました。難民区に行くと、中国人が出て、英語で話しかけてきました。われわれの服装を見て、兵隊でないとわかって話しかけてきたのでしょうが、日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ、と言っていました。この時、難民区の奥が丘になっていて、その丘の上の洋館には日の丸があがっていました。全体としては落ち着いていました」  
と証言してもいるが、この証言も、武器を持たない難民区の中国人殺害を裏付けるものだと思う。

さらに
「…14日のことだと思いますが、中山路から城内に向かって進んだ左側に蒋介石直系の八十八師の司令部がありました。飛行場の手前です。建物には八十八師の看板がかけてありました。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺していました。敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います。…」
とか
16日は中山路で難民区から便衣隊を摘出しているのを見て、写真を撮ってます。中山通りいっぱいになりましてね、頭が坊主の者とか、ひたいに帽子の跡があって日に焼けている者とか、はっきりと兵士とわかるものを摘出していました。髪の長い中国人はみな市民とみなされていました。
との証言をしているが、戦う意志があったのかどうか、武器を所持していたのかどうか、疑わしい。それを戦闘行為の続きだと簡単に言ってしまうところに、問題があると思う。
そして、 難民区から摘出した中山通りいっぱいの「便衣隊」と呼ぶ中国人は、その後どうなったのか、確かめることをしていない。
 難民区国際委員会のメンバーは、武装解除して難民区に入れた中国兵が殺されているようだと日本大使館や関係機関に訴えているし、前に抜粋した文章のなかにも、「日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ」というのがあった。第一、難民区には「便衣隊」と呼べるような中国兵の組織などなかったし、日本軍による便衣隊相手の戦いなどもなかったはずである。
難民区国際委員会のメンバーは、日本軍に抵抗する中国兵がいないのに、なぜ、日本軍は戦う意志なく、武器を捨てた中国兵を連行するのか、と訴えていたのである。

 佐藤カメラマンは、浅海記者が早稲田で廖承志(初代中日友好協会会長)と同級だったから、「百人斬り競争」をフィクションだとは言えなかったかのように言い、だから、「2人が銃殺刑になってしまいました」と言っているが、それは、逆に彼の証言が、彼を取り巻く人に配慮せざるを得ない証言であることを感じさせる。
 それは、「戦場のことは平和になってから言っても無意味だと思います…」とか「戦場はそういうものです」というような言葉にも表れている。国際法、ハーグ陸戦法規は、戦場の野蛮な人殺しを防ぐための法規である。 むやみやたらに人を殺したり、残虐な方法で人を殺したり、また、不特定多数の人を殺すような武器の使用を禁じるハーグ陸戦法規は、戦場でこそ尊重されなければならないのだと思う。

 佐藤カメラマンは、著者が南京大虐殺について「直接見ていなくとも噂は聞いていませんか」との質問に
こういう噂を一度聞いたことがあります。なんでも鎮江の方で捕まえた3千人の捕虜を下関の岸壁に並べて重機関銃で撃ったというのです。逃げ遅れた警備の日本兵も何人かやられたと聞きました。一個中隊くらいで3千人の捕虜を捕まえたというのですから、大変だったということです。もちろんその時は戦後言われている虐殺というのではなく、戦闘だと聞いていました。
 捕虜を捕まえても第一食べさせる食物があい、茶碗、鍋がない、日本兵ですら充分じゃなかったでしょうからね。私らも上海から連絡員の持ってくる米が待ち遠しい位でしたから
と証言している。この証言もおかしい。鎮江の方で捕まえた3千人の捕虜を下関の岸壁に並べて重機関銃で撃つことがなぜ戦闘行為なのか、与える食べ物がないから殺すことが戦闘行為と言えるのか。 当然のことながら、鎮江で捕えられた3千人の捕虜は、下関の岸壁まで連行されたのであり、武器など持ってはいないはずである。そして、逃げたり抵抗したりできないように縛り上げられていたであろう。でも、殺されるとわかれば、必死に逃れようとしたはずである。だから日本兵にも犠牲者が出たということではないか。それを戦闘行為というのは、日本軍による虐殺を、正当化しようとするものではないかと思う。

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