「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO1では、櫻井よしこ氏の「推薦のことば」と著者の「あとがき」について、同意できない部分とその理由をあげ、NO2では、著者の「日本人48人の証言」の受け止め方および証言者自身の南京事件のとらえ方で同意できない部分やその理由をあげた。
今回も同様に、「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からいくつかの証言を取り上げ、その問題点を考えたい。
証言者の中には、著者の意図に反し、はっきりと”「虐殺」を目撃した”という人もいる。たしかにそれは「30万人の大虐殺」ではないが、「南京大虐殺」を裏付けるものの一つだと思う。
また、証言者が「虐殺」とはとらえていないが、明らかに「虐殺」と判断すべき証言も多い。捕虜や難民の殺害証言の大部分は、「それが戦争だ、戦場だ」などといって正当化できるものではないのである。そういう意味で、「南京大虐殺」を否定するために集めた証言が、逆に、「南京大虐殺」を裏付けるものとなっている側面を見逃してはならないと思う。(○印のある文章は著者の質問、「 」のついた文章は証言者のものである)
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二 毎日新聞
東京日日新聞・鈴木二郎記者の証言
鈴木記者は浅海記者とともに「百人斬り競争」の記事を書いた一人である。
「中山門上での虐殺以外に直接ご覧になった虐殺はどんなものですか」との質問に
「中山門のほか、励志社の入口で敗残兵をつるはしで殺した場面、それと場所は覚えていないが、殺す時はこうするんだと伍長がほかの兵に言いながら中国兵を殺す場面を、見ています。直接自分で見たのはこの3カ所です。」
と答えている。虐殺を見たという証言である。また、「塹壕には焼けただれた死体があったと書いていますが…」と聞かれて
「それは虐殺の跡とでも言うものです。虐殺らしき跡は、光華門での累々とした死体もそうですが、それと下関での死体です。」
と答えており、「下関の死体は千人以上はありました」とか「ガソリンをかけて焼いてありました」とも証言している。そして、「南京でどの位の虐殺があったと思いますか」という質問には
「自分が見たことではないから言えない、わかりません」
と答え、さらに、「巷間20万人とも30万人とも言われていますが…。」との著者の重ねての質問に
「全体を知っている人は日本人では誰もいないのではないかと思います。せいぜい部隊長が自分の部隊が掃除した兵の数を知っているくらいでしょう。今、部隊長に聞いても人数なんか言わないでしょう…」
と答えている。その通りだと思う。
こうした証言を無視して、「東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事のようだ」というのは、いかがなものかと思う。また「百人斬り競争は創作ではないかと言う人がいますが…」、との質問には、はっきりと
「創作特電はありませんよ。…」
とはっきり答えている。記者は直接見てはいないので、「百人斬り競争」に、軍国美談を意識したフィクションの部分が含まれている可能性は大きいが、記者の創作ではないことがわかるのではないかと思う。
また、鈴木記者が南京に行く途中、浅海記者から2人の少尉に出会ったら、何人斬ったか数を聞いてくれと頼まれたという話でも、浅海記者の創作ではないことがわかる。したがって、実際は、「捕虜虐殺」の競争であったのではないかと思う。
三 読売新聞
報知新聞・二村次郎カメラマンの証言
○南京虐殺ということが言われていますが…
「南京にいる間見たことがありません。戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいぐらいです。逆に人が書いたものを見たりしています。アウシュビッツの様に殺す場所があるわけでもないからね。私が虐殺の話を聞いたのは、戦後、東京裁判の時です。それで思い出すのは、南京に入った時、城内に大きい穴があったことです。
○それはいつ頃のことですか。
「南京城に入ってすぐです。長方形で、長さが2、30メートル位ありました。深さも1メートル以上あり、掘ったばかりの穴でした。大きい穴だったから住宅の密集地でなく、野原かそういう所だったと思います」
○日本兵が掘ったのですか、中国人が掘ったのですか。
「それは知りません。南京虐殺があったと言われていたので、その穴が関係あるのではないかと思っていましたが、本当のことは知りません」
○あとで見に行ったりしませんでしたか。
「その時は別に気にも止めていなかったので見にいったりしません。戦後、南京虐殺と言われて、思い出したくらいです」
このやり取りの中で、二村カメラマンが、城内にあった大きな穴を「南京虐殺があったと言われていたので、その穴が関係あるのではないかと思っていましたが…」というところが重要だと思う。穴の前に並ばせて、捕虜を刺殺したり、銃殺したりした証言が多くあるからである。
○捕虜をやったという話がありますが…。
「数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れて行かれるのは見たことがあります。たしか昼でした」
との証言も、多くの証言にあるように、捕虜虐殺のための連行であると考えられるからである。
○捕虜を見て、社で話題にしたりしませんでしたか。
「捕虜といっても、戦いの途中、捕虜の1人や2人斬るのは見たことがあります。皆もそういうのは見ているから、特に話題になったことはありませんでした。捕虜と一言で言いますが、捕虜とて何をするかわかりませんからね。また、戦争では捕虜を連れていく訳にはいかないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。南京で捕まえた何百人の捕虜は食べさせるものがなかったから、それで殺したのかもしれないな。あの時捕虜を連れて行った兵隊を捜して捕虜をどうしたのかを聞けば、南京虐殺というものがわかると思います」
当時の日本軍にとっては、「捕虜は殺すしかなかったと思います」との証言を見逃すことができない。捕虜の面倒を見るような余裕はなかったし、第一食糧が徹底的に不足していた。しかし、大事なのは、捕虜虐殺は国際法違反であり、ハーグ陸戦法規に反するということである。無茶な戦争を押し進めた作戦計画の結果、当時の日本軍は、捕虜を殺さざるを得なくなったということであって、いかに戦場とはいえ、許されることではないのである。そのことを踏まえないで、捕虜の虐殺が当然であるかのようにいうのは、無茶な日本の侵略戦争を肯定するもので、先の大戦に関する総括も反省もない、ということではないかと思う。
二村カメラマンは「捕虜の1人や2人斬るのは見たことがあります」と簡単に言っているが、その捕虜がいかにして捕虜になったのか、また、戦う意志があったのかどうか、殺さなければならない理由は何であったのか、というようなことを全く問うことなく、捕虜の殺害を受け入れてしまっている。
繰り返しになるが、いかに戦場とはいえ、むやみやたらに人を殺すことが許されるわけではないことを忘れてはならないと思う。
・・・
○南京ではどこに行っていますか。
「揚子江にいきましたが、私が見たのは1人か2人の死体でした。故物保存所にも行きました。大きい建物で内部はちらかっていました。中国兵が略奪したのか、日本兵が荒らしたのか、めぼしいものはありませんでした。
今でも写真が残っているのが中山陵に行った時のもので、報知新聞の連中何人かで行きました。百段もの石段があるところで一日がかりでした。悪い日本兵がいて、紙屑を陵の部屋に投げ込み燃やしているのがいたので、特派員一同水を汲みに行った記憶があります。
また、国民政府の建物に行って、日の丸があがっているのも撮りました」
この証言の中にも、確かめるべき「略奪」や「放火」の問題がある。日本兵の略奪や放火に関する多くの証言があるからである。
報知新聞・田口利介記者の証言
田口記者は、後に海軍省普及部に入り、新聞発表、検閲などの仕事にたずさわり、また、昭和18年には、ハルピンで特務機関の仕事にもついていて、シベリア抑留を経験しているという。
○南京虐殺があったといわれていましすが…。
「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」
○第十六師団の軍紀はどうでした?
「私が見た限り特にどうということはありませんでした。ただ、南京に向かう途中でしたが、第十六師団の曹長で、百人斬りをするんだと言っていたのがいました。南京まで百人斬ったかどうか知りませんけど、戦友の仇をとるんだといって、中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣の者もいたと言います」
○周りの人は曹長を見てどう思っていたのでしょうか。
「誰もいいことだとは思っていないでしょう。私もそれを見て、戦争では殺すか殺されるかだと思いました。曹長は仇をとることに夢中でしたが、気の小さい人だと思います」
○さきほどの長参謀がいろいろ命令したと言われていますが…。
「長参謀には、一度会ったきりですからよくわかりませんが、ただ、私のような海軍記者から見ると、一般に陸軍の参謀は命令違反は平気ですね。佐藤賢了(中将)、富永恭次(中将)はその典型で、長勇もそんな一人だと思いますよ」
田口利介記者の証言にも確認すべき内容のものがある。「百人斬り」もさることながら、「戦友の仇をとるんだといって、中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣の者もいたと言います」という証言である。こうしたことが、当時の日本軍では許されていたということをしっかり踏まえる必要があると思う。
また、「一般に陸軍の参謀は命令違反は平気ですね」という証言も、当時の、日本軍の実態をよくあらわしていると思う。長勇参謀は、捕らえた捕虜をどうするか問われて「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、後で松井石根中支派遣軍司令官に叱られたことで知られている人である。
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