司馬遼太郎は「この国のかたち 一」司馬遼太郎(文芸春秋 1986~1987)に”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである”と書いています。こうした司馬遼太郎のいわゆる「暗い昭和」に、「明るい明治」を対立させる歴史認識を利用するかのような動きが、今じわじわと日本社会に広がりつつあるように思います。
それは昨年、菅義偉官房長官が「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」というような発言していること、関連して11月3日を「明治の日」にしようとする動きや「明治150年」に向けた関連施策の推進が進められていること、また、子どもたちの使う教科書が、明治維新による王政復古によって形づくられた明治時代を、近代化の時代として美化しつつ、要所に神話が取り入れられたものに変えられつつあること、さらには、幕末から明治はじめの人物を高く評価して取り扱った出版物や番組などの増加となって表れているような気がします。
しかしながら、明治維新以降の日本の歴史は、多くの歴史家が明らかにしているように、”非連続”ではなく連続したものだと思います。司馬遼太郎は前掲書で、昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年を”─あんな時代は日本ではない─と、理不尽なことを、灰皿でも叩(タタ)きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである”とも書いていますが、あの悪名高い関東軍戦車部隊の一兵士としての酷い体験が、「智の巨人」と言われる国民的大作家、司馬遼太郎が、冷静な目で歴史を客観的に見ることを許さないのではないかと、私は想像します。
下記資料1は、「歴史の偽造をただす」中塚明(高文研)から抜粋したものですが、日清戦争当時の参謀総長、熾仁親王(タルヒトシンノウ)が、大島義昌混成旅団長に宛てた訓令です。極めて重要な文書だと思います。この兵站を軽視した補給なしの現地調達主義が、その後、日本の敗戦に至るまで続き、どれほどの悪影響をもたらしたか、見逃してはならないと思います。「餓死した英霊たち」藤原彰(青木書店)によれば、ガダルカナル、ポートモレスビー、ニューギニア、インパール(ビルマ戦線)、太平洋の孤島、フィリピン、中国戦線などにおける日本軍兵士の餓死者はおよそ140万名で、軍人軍属の戦没者230万名の6割以上であるといいます。それだけではありません、補給なしの現地調達主義によって、日本軍が戦地のいたるところで「徴発」を繰り返したことが、直接戦争と関わりのなかった戦地住民の抵抗を生み、抗日組織・反日組織との戦いともなって、被害を拡大させたと思います。
また、資料2は「兵士と軍夫の日清戦争 戦場からの手紙を読む」大谷正(有志社)から抜粋したものですが、下関講和条約の結果日本の領土となった、台湾・澎湖島でも、現地住民の激しい抵抗があり、日中戦争における「三光作戦」にも似た無差別の「村落焼夷作戦」や「沿道の住民ノ良否判明せざるに付惨酷ながら一網打尽」というような戦いが、日清戦争当時からあったことがわかります。”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年”も決して非連続ではないということだと思います。旅順虐殺事件と南京大虐殺、日台戦争と日中戦争、間違いなくつながっていると思うのです。だから、いわゆる「暗い昭和」の端緒が明治にあることに、目を閉ざしてはならないと思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第六章 朝鮮人は忘れない
2 朝鮮に広まる抗日の動き
「因糧於敵」(糧を敵に因る)という日本軍
私が福島県立図書館に『日清戦争史』の草案を調査に行った理由の一つに、日清両軍の初めての会戦であった成歓(ソンファン)の戦いを前にして、前衛部隊の大隊長が補給の困難に直面して自殺した、その詳細を調べたいということがあったと、本書のはじめに書いた。力を尽くして集めた朝鮮人および馬匹(バヒツ)がみな逃亡し、まだ本格的な戦争がはじまる前に、すでに食糧に窮したため、歩兵第二十一連隊第三大隊長古志正綱少佐が引責自殺したのである。
満州事変以後、とくに中国との全面戦争、そして西南太平洋の島々にまで戦線を拡大し、補給らしい補給もなしに、日本軍が現地徴発に走らざるをえず、それが中国はじめ日本軍によって占領された諸地域の住民にいちじるしい犠牲を強い、反日運動を引き起こす重要な要因一つになった。
しかし、十分な補給なしに現地調達する方針は、なにも戦線が拡大した中国との全面戦争以後からのことではない。その「伝統」は日清戦争の時からのものであった。
次の資料は、朝鮮に出兵して間もない混成旅団から補給の困難を訴えてきたことに対する参謀総長名による大本営の訓令である。
訓令 ニ十七年六月廿九日
軍を行(ヤ)るに要するのこと一にして足らざるも、煩累物随伴を減ずるをもって最も緊切の要務とす。煩累物とは何ぞや。すなわち敵を殪(タオ)すの力を有せざる非戦闘員の謂(イイ)にして、いやしくもこれを減ぜざれば軍隊の運動自在なることあたわず。ただ自在に運動することあたわざるのみならず、更にこれを保護せざるべからざればなり。輜重(シチョウ)運搬の人夫のごときはすなわち非戦員の首(シュ)なるものなるをもって、つとめて地方の人民を雇役しもって常備の輸卒を減ぜざるべからず。
古昔、兵家の格言に因糧於敵の一句あり。爾来内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものはこの理由の外ならず。人民の生命に関する糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、いわんやこれを運搬する人夫においてをや。
進軍もしくは屯駐地方の人民を徴発、もしくは雇役し我が使役に供せしむるすでに可なり。いわんや賃銀を直ちに支給してこれを使用するにおいておや。何のはばかることかこれ有らん。そもそも適地、もしくは外国の賃銀はもとより内国より貴(タカ)かるべし、しかれどもこれを煩累物減省の点より考うればその利益たる勝(ア)げて言うべからず。いわんやその人夫に給する食糧旅費及び輸送の金額を積算するときは幾倍の賃銀もかえって内国の者より低廉なるを得べきにおいておや。
けだし軍の要は一に煩累物減省し、もって進退の自由に最も顧慮し、且つ運搬はつとめてその地方によるの方法に慣熟するに在り。
今般、朝鮮国へ派遣の混成旅団には臨時輜重隊を付し、これを幹部となし糧食などの運搬はすべて徴発の材料を用うべきことを命令せられたり。しかるに六月二十八日、仁川発兵站(ヘイタン)監の報告に、軍隊は輸卒を備えざるため給養を行われず飢渇におちいらんとすうんぬんの言あり。これ甚だ解せざる所なり。
それ目下混成旅団の給養額は僅かに八千余名に過ぎず。又仁川と京城は僅かに八里の距離にして、先頭すなわち在京城の軍隊はまさに停止して行動せず。かくのごときの場合においてなお数多(アマタ)
の人夫を内国より送発せざれば給養行われ難しと言うときは、もし一朝兵站線路延長するか、あるいは全師団もしくは数多の師団渡韓して運動戦をなすの日に至らば、いかにしてこれを給養せんとするか。果して給養の道なくして全軍餓死を免れざるべきか。これ決してしからざるなり。
けだし目下いまだ戦時ならざるをもって運搬材料を求むるにやや著大なる費用を要するならん。しかれどもこれ万やむを得ざるの事情なれば、決して入費をおしむべきの時にあらず。よろしく百方努力して徴発材料を得るの方法を講究し、且つ我が帝国外交官の幇助(ホウジョ)を求め、もって各自の任務を完(マツタ)くすべし。
試みに思え、若し糧食運搬のため重ねて人夫を内国より送るときは、この人夫に要する糧食もまた追輸せざるを得ず。果してしかるときはこの運搬人夫の糧食のため更に又運搬人夫を要するに至り、層々増発あに底止する所あらんや。
これ大いに因糧於敵の原則に背き煩累物減省の道に戻(モト)る故に、成るべくその地に現在する運搬材料に因(ヨ)るものと決心し、内国よりの追送を請求することを慎むべし。
明治二十七年六月二十九日 参謀総長 熾仁親王
混成旅団長 大島義昌 殿
(防衛研究所図書館所蔵『自明治廿七年六月至同廿八年六月 命令訓令 大本営副官部』、請求番号:日清戦役・15、所収 四九号文書「非戦闘員減少スヘへキ訓令」)
「内国よりの追送を請求することを慎むべし」とのきつい訓令を受けた混成旅団では、この訓令にもとづいて行動するほかなかった。牙山(アサン)への進撃にのぞんで人馬の供給は、必須の課題であった。
杉村濬(フカシ)は当時を回顧して、次のように書いている。
……しかるに出兵に臨みて人馬の供給充分ならず。しばしば朝鮮政府に照会し、議政府より公文を出し、日本兵の通行には地方官よりその求めに応じ人馬その他を供給し、充分の便利を与うべし、もっともその代価は日本兵隊より相応これを償うべしとの意を諭示したるも、地方の官民皆疑懼(ギク)をいだきあえて官命に従わず。皆言う、これ倭(ワ)党等の所為にして本政府の意にあらずと。けだし一朝敵と味方との地位を変じたることなれば地方官民の疑懼するうべなりと言うべし。
当時、余は中間に立って一面は旅団の要求に迫られ、一面は無能力なる韓廷を相手として苦慮の余り非常手段をとることに決せり。すなわち軍隊より機敏なる兵卒二十余名を選抜せしめ、これに混ずるに二十名の巡査を以てして、これを京城近郊の要路〔龍山(ヨンサン)、鷺梁(ノヤン)、銅雀津(トンジャクジン)、漢江(ハンガン)、東門(トンムン)外等の処〕に分派し、およそ通行の牛馬は荷物を載せたると否とにかかわらず、ことごとくこれを押拿(オウダ)しすることとせり。これがため人民に多少の迷惑を与えたるも一時軍用に供するを得たりき(杉村濬『在韓苦心録』、59~60ページ)。
王宮占領といい、否応なしの人馬の押拿・徴発といい、公使館・混成旅団一体となったこうした日本側の行為が、朝鮮官民の反日運動を各地に広めたのは当然のことであった。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第七章 台湾の戦争
1 台湾民衆の抵抗
近衛師団の上陸と戦争の開始
下関講和条約の結果、台湾・澎湖島と遼東半島は日本の領土となった。その後、三国干渉の結果、日本は遼東半島を放棄したので、講和条約の結果獲得した領土は台湾・澎湖島のみとなった。日本政府は海軍大将樺山資紀(カバヤマスケノリ)を台湾総督に任じ、近衛師団〔師団長北白川宮能久キタシラカワノミヤヨシヒサ)中将〕とともに台湾に向かい新領土を接収するよう命じた。樺山は薩摩出身で、1874年(明治7)の台湾出兵の前に現地を調査した経験があり、台湾への思い入れが深かった。同じ頃、台湾では日本領土となるのを拒否する邱逢甲(キュウホウコウ)ら地元士紳は台湾省巡撫唐景崧(トウケイショウ)に独立を迫り、唐は五月二十五日台湾民主国総統に就任した。虎旗を国旗とする、アジアで最初の共和制国家が誕生し、諸外国に援助と承認を求めるとともに、日本軍への武力抵抗を試みた。
台湾民主国の樹立の報に接したが、台湾接収にに向かった樺山総督は近衛師団のみで接収する計画を変えなかった。日清戦争当時、近衛師団は歩兵連隊と砲兵連隊がそれぞれ二個大隊で編制されたので、連隊が三個大隊で編制される通常師団より兵力が少なく、戦闘能力が低かったにもかかわらず、事態は楽観視されていたのである。
五月二十九日、近衛第一旅団を中核とする部隊は基隆東方の澳底(オウテイ)に上陸を開始し、基隆と台北は簡単に占領された。台北城占領の前日、唐総統は淡水港から大陸に逃亡してしまった。六月十七日には早くも台北で総督府始政式がおこなわれた。しかし六月十九日に始まった新竹(シンチク)への侵攻作戦は、六月二十二日に近衛歩兵第二連隊が新竹城を占領したものの、直後から抗日義勇軍の逆襲を受け、台北の司令部との連絡が途絶え混乱した。ここで作戦が変更され、台湾南部に上陸する予定であった近衛歩兵第二旅団を台北に呼び、近衛師団の全力を集中して台北周辺の治安を確立した後、南進を計ることになった。
黄昭堂『台湾民主国の研究』は、五月末から十月の台湾陥落までの台湾攻防戦を三期に分け、各段階の抵抗勢力と抵抗の原因についてつぎのように説明する。
第一期は日本軍上陸から六月七日の台北陥落まで、第二期は日本軍が台北から南進を開始した六月十九日から九月七日台湾中部彰化(ショウカ)で南進を一時停止した時まで、第三期は日本軍が南進を再開した十月始めから台南を占領した十月二十二日までである。そして、台湾側の武力抵抗の主体勢力について、第一期は台湾民主国の統制下にあった軍隊で、多くは大陸で募集した兵士であり、戦意は低く、日本軍の攻撃に直面すると大陸に逃れたものが多かった。これに対して第二期と第三期の抗日勢力は、それぞれの村落街鎖の士紳を指導者とする地元民が中心となり、第三期には台南を守備していた台湾民主国大将軍劉永福(リュウエイフク)が加わった。彼は元々清朝に武力抵抗を試みた黒旗軍の指導者で、清朝に帰順後、清仏戦争の際にベトナムでフランス軍を打ち破ったという輝かしい経歴を持つ軍人であった。実際の抗戦意欲はともかく、抗日義勇軍を組織する住民の精神的支柱になった、と評価されている。
台湾住民の多くは、対岸の福建・広東からの移住者で、台湾原住民や隣接する移住者集団と対立抗争(分類機闘)しながら開拓を進めてきたので、土地に対する強い愛着心と郷土愛を持つとともに、戦闘にも慣れ、煉瓦塀・銃口・櫓を備えた民家や村落は要塞のような防禦機能を有した。日本軍が台湾を占領するために基隆東方に上陸すると、台湾民主国を支持する人々の抵抗のみならず、さまざまな流言蜚語や誤解に基づく住民の自然発生的抵抗が起こった。台湾占領を担当した近衛師団は、想定外の住民のゲリラ的抵抗に直面して、抵抗運動者とそうでないものの区別ができず、予防的殺戮や村落放火、時には略奪を行い、さらにそれが住民の恐怖と報復のための抵抗を惹起させる、という悪循環を発生させた。
台湾義勇軍の組織した抗日義勇軍は武器が劣悪、かつ銃を持つものは十分の二程度であったので、正面からの戦闘ではなく、主として分散した日本軍を地の利を生かして攻撃するゲリラ戦法を採用して日本軍を悩ました。村落単位の抵抗で、女性子供も参加した。しかし時には、1000人以上の集団で攻撃したり、大砲を利用し、堡塁を築いて抵抗することもあった。第二期はちょうど雨期で、河川が氾濫して日本軍の行動を阻害した。寒冷な冬を体験した後で満州から転進してきた日本軍、つまり近衛師団や第二師団は台湾で炎暑に悩まされ、マラリアやコレラなど疫病の流行で戦闘力を殺がれて、抗日義勇軍に活躍する余地を与えた。
台湾北部鎮圧作戦--ゲリラ戦と村落焼夷--
孤立した新竹の日本軍を救援するため、七月十二日から、台湾 -- 新竹間の補給線を確保するための作戦がはじまった。その時、山沿いの台北を流れ淡水河上流地域の掃蕩作戦を担当した、公家出身の伯爵坊城俊章少佐指揮の近衛歩兵第三連隊第二大隊を中心とする部隊は抗日軍に攻撃された。川を船で遡っていた糧食輸送隊(35名)は最初に全滅、坊城隊本隊も包囲攻撃され、多くの犠牲者を出しながら、かろうじて脱出するありさまであった。
思いがけない敗北に近衛歩兵第二旅団長山根信成(ヤマネノブナリ)少将を長とする部隊が編制され、坊城隊が苦戦した淡水川上流の掃蕩を命じられた。七月二十二日から二十五日にいたる間に、「賊ヲ屠(ホフ)ルコト数百、家ヲ焼夷スルコト数千ニ及ヒ、十三日以来兇焔ヲ逞フセル賊徒ハ一時全ク屏息スルニ至レリ」(『日清戦史』第七巻)アルイハ「三角湧付近ハ土匪(ドヒ)ノ巣窟。再ビ敵ヲシテ之ニ拠ラシムベカラザレバ、我支隊ハ火ヲ放チテ、悉ク其村落市街ヲ焚燬セリ」(川崎三郎『日清戦史』)という軍事行動をおこなった。
この台湾北部掃討作戦は、残存した清国軍との戦闘ではなく、台湾住民の組織した抗日義勇軍とのはじめての戦闘であった。抗日軍のゲリラ戦に対して日本軍は、無差別の村落焼夷作戦を実施し、以後、これが台湾での戦闘の基本形の一つとなった。この頃軍隊に同行した樺山資英(スケヒデ)は、「沿道の住民ノ良否判明せざるに付惨酷ながら一網打尽」(『現代史資料・台湾』第1巻)と両親に書き送っている。
宮城県出身の近衛師団所属兵士も戦闘に参加した。志田郡松山町出身の今野良治近衛騎兵一等軍曹の父親宛て手紙は、坊城隊が連絡を絶った後、偵察部隊である近衛騎兵第二中隊第三小隊が三角湧を偵察中、ゲリラの攻撃をうけて三名を残して全滅した事件を報告する。
小隊長山本特務曹長以下ニ十二名三角湧付近偵察の任を帯び、七月十五日台北を発して三角湧に向ふて前進せり。然るに沿道の土民皆国旗を掲げて大日本善良民の紙票を戸前に貼し、茶を汲み粥をすすめ大いに我偵察隊を犒(ネギラ)ふを以て、我亦大に意を安んじ益々前進し、将に三角湧に出んとするの頃ひ、全面の高地に監視兵の如き者処々に徘徊せるを以て三名の斥候を派捜索せしめたるに、、唯茶摘(タダチャツミ)のみなる故後方部隊の前進を促すに依り、更に進む5、60米(メートル)にして俄然砲声の耳に轟く者あり。其方向を視定むる遑(イトマ)もなく四面より乱射する小銃雨の如し。故に後方の村落に拠り防御せんと隊を収容して背進せしに、前に我が軍を犒ひし土民は皆敵軍となり、男子は銃を携え女子も亦小銃を放ち、小児は竹槍を以て我が退路を遮きる故、素より勇武を以て聞えたる同小隊なれども、右は峨々たる山岳にして左は洋々たる河流なり。嗚呼此の地我が隊をして進退攻守共に自由を失はしめたり。背進三里殆ど中途に仆(タオ)れ、其命を全ふして帰りしは僅かに下士上等兵一等卒の三名なり。(奥羽・九十五年九月四日、「台湾戦況」)
この地域の抗日軍は、日本軍騎馬偵察隊を歓迎すると見せかけ、日本軍弱しと見るや一斉に攻撃を開始したのであった。男女、小児まで含んだ、村ぐるみのゲリラ戦である。今野は前記の手紙の最後に、後日出動した近衛騎兵大隊長渋谷在明中佐が率いる部隊は三角湧住民に対して、「彼等の家屋を焼き彼等をせる者挙けて数ふべからず」という報復をおこなったと述べている。台北城の郊外でさえ、住民、婦女子を巻き込んだゲリラ戦となっており、対する日本軍も無差別殺人をおこなっていたことが手紙から明らかである。
そしてゲリラの勇敢さに対する驚きは多くの手紙に共通していて、ある近衛師団関係者も「土人は清国盛京省等の比に非ずして、敏速且つ胆力あり、死に就くは各自期する者の如し、従て戦争の熱心なる邦人の驚く処なる由、故に我歩兵の吶喊杯(トッカンナド)も敢て恐れさる」状態であり、対抗上近衛師団は「形跡の疑ふべき土人は殺戮遺類なからしむ故に、或は苛酷に失することあるも事情已むを得ざる次第」と述べている。 (奥羽・九十五年九月三日、「台湾近信」)。
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