国際法律家委員会(ICJ)は、1993年4月から5ヶ月かけてフィリピン、日本、韓国、朝鮮民主主義共和国で、のべ40人以上の証言者からの聞き取りを行い、また、資料を収集し、報告書をまとめました。その最終報告書には、日本政府に対する勧告が含まれています。
また、クマラスワミ氏の「戦時における軍事的性奴隷問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」にも勧告が含まれています。
さらに、マクドゥーガル氏の報告書付属文書〔第2次大戦中設置された「慰安所」に関する日本政府の法的責任の分析〕にも勧告が含まれています。私は、そうした国際組織の調査結果に基づく勧告を、いつまでも放置せず、誠意をもって応えるべきだと思います。
下記は、『金学順さんの証言─「従軍慰安婦問題」を問う』(解放出版社編)から「第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言」の後半を抜粋したものです。
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第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言
朝鮮人男性に助け出され
鉄壁鎮と呼ばれていたその地に二ヶ月ほどいて、次の地に移動しました。また戦闘の最前線の地です。軍人たちは教えてもくれませんから、地名はよくわかりません。私は中国語もよくできるし、日本軍がどこにいるかはだいたいわかってきましたが、どこかはわかりません。
当時の状況を知らない人にはわからないでしょうが、中国人、韓国人、日本人が入り乱れてたたかった時期であり、中国の八路軍と戦闘をしていました。そのときには日本軍のいろんな秘密を八路軍に伝えたり、最後には中国軍の中に入っていっていっしょにたたかった。そういう状況でした。
それまでと同じく軍人が来ると相手をせねばならず、どんなにつらくても逃げられませんでした。すでにそこに送られていた三人と一緒に行動することになりました。
あまりに悔しく腹がたったとき、抵抗したりして命令をきかなかったりすると、ひどく殴られました。
最前線では、作戦に出かける時は軍人は来ませんでしたが、作戦から戻ったときは一日に十人、二十人といわずとにかく相手をしなければならないので、そのときのつらさは言いあらわせません。
もう人間のすることではありません。いつまでもその夢を見ることがあります。私が死んでいのちが消えてしまうまで続くでしょう。死んだときにやっと自由になるのかもしれません。しかし何をやっても、その悪夢を忘れることはないでしょう。
部隊がどんどん前進していくので、軍人といっしょに車に乗って移動しながら過ごしました。移動先でも同じことをするのです。私は死んではいけない。とにかくどうやっても生きるのだと決心したのです。
そうこうするうちに、ここを脱出しなければ生きられないと思うようにもなりましたが、どこへ行ったらいいのか分からなくて、脱出する勇気も出ないまま、軍人たちに酷使されてからだをこわしました。肺が悪くなり病の床にふせってしまったのです。
軍人たちが作戦で出かけてしまったある日の夕方のことです。ふせっている私の部屋に朝鮮人男性が突然入ってきました。驚いていると、私に「声をあげてはいけない」と口を押えて、「私は朝鮮人だ。お前も朝鮮人だろう。どうしてこんなところにいるのか。何もしゃべってはいけない」と言いました。だいぶ年上の男性でした。
日本人、韓国人、中国人が入り乱れてたたかっていたのですから、韓国人男性が前線に忍び込んでくることはそう不思議ではありませんでした。彼は「商売をしている」といっていましたが、何かを調べているようでした。
彼を見ると、私は「おじさんも朝鮮人、私も朝鮮人。おじさんがここを出るときには私を逃してほしいのです。このままここにいたら死んでしまう。どうかいっしょに連れて行って下さい」と頼みました。彼は「お前はいくつだ。こんなかわいそうなことがあるのか。17歳でどうしてこんなところに連れられて、苦労しているのか」と言いながら、「自分といっしょだと、あちこち移動しなくてはならない。それが出来るか」と聞いてきました。
私は「おじさんが行くところについて回りますから、助けて下さい」と言いますと、彼は道をよく知っていたので、手をつないでいっしょに連れて出てくれたのです。その日の夜明け前、軍人たちが戻らないうちに慰安所を脱出しました。
北京、南京、蘇州……と逃げて
ちょうどそのときは軍隊は出撃していて、見張り番がいる程度だったので、逃げだすことが出来たのだと思います。
この逃走の手引きをしてくれたのは、将来の夫になった人でした。私より18歳年上でした。名前はチョー・ウォンチャンといいます。
彼は日本軍から追われていたので、中国で足を踏み入れない所はないほど逃げ回りました。小都市は日本軍に見つかりやすいので大都市を隠れながら転々としました。奉天、ハルビン、沈陽、北京、西京、南京、蘇州──と、転々としました。
日本軍に見つからないように、中国服を着て逃げたのです。人間が隠れて暮らすということは、たいへんにつらいことです。
私が19歳のときに、妊娠しました。夫が「どこかに定着しないといけない」といって上海に行くことになりました。上海では重慶にあった大韓民国臨時政府の光復軍とも連絡がとれるからです。
上海で日本人が住んでいるところを避けて、落ち着いたのはフランス租界の近くでした。フランスの外交官が住んでいた近くでは、日本軍の目から逃れられた生活ができたからです。
朝鮮人が多かったのは、このフランス租界とイギリス租界周辺でした。
上海は国際都市であり、五十四カ国の領事館があるところです。イギリス租界などに住んでいると、領事館の許可がないと逮捕できないわけです。
夫も私も中国語ができたことが幸いして、中国人からお金を借り、「松井洋行」という看板をあげて商売をしました。金貸し、質屋の仕事です。中国人の質屋に預けた質札をもってきた人にもお金を貸すことをしました。ですから、すごく商売が上手くいきました。
質屋では三ヶ月たつと全部がながれることになっており、私はこの商売をして初めて「ながれる」という意味も覚えました。
日本式の名前の「松井洋行」という名前にしたのは、日本名にすると日本の警察は一切手を出さないからです。
こうして中国人と朝鮮人はお互いに助け合ったのです。
もう上海を離れて半世紀以上がたっていました。その上海はいまも行ってみたいところです。私たち夫婦が三年間住んでいた思い出多いところですから。
解放の年、四十五年に、私が22歳のときです。男の子が生まれ、四人家族になりました。
上海から仁川(インチョン)へ
上海では金九先生の講演を聞いたことがあります。同胞の人が皆集まり、大光明という劇場で聞きました。
金九先生は上海と重慶の間を行ったり来たりしていました。やがて蒋介石が敗走し、最後に日本に逃げるだろうと思っていました。そうすれば大変なことになるだろう──というのが大方の見方でした。
そうして日本が戦争に負けて解放になりました。解放から間もなくして、上海の自宅で夫が白い紙を出して旗の枠の中に何かのしるしを書きました。「これは何か知っているか」と私に問うたことを覚えています。それはやがて祖国の国旗となる太極旗でした。夫は喜びをいい表したのです。
大韓民国臨時政府を樹立した金九先生は先に祖国に帰られました。最後まで残った光復軍と私たち親子四人は一緒に上海から船に乗って韓国の西海岸の仁川に上陸して帰ることになったのです。2000人くらいの人が乗船して祖国をめざしました。
しかし、当時はコレラが流行っていたのです。船の中でコレラにかかった人がでて、なかなか韓国には上陸できませんでした。26日間も船中に滞在してから、ようやく仁川に上陸したのです。
当時は戦地から仁川に上陸した人々は避難民といわれていて、ソウルの奨忠堂(チャンチュンタン)収容所という施設にたくさんの人が収容されていました。私たち親子もこの収容所で約三ヶ月暮らしました。
収容所でもコレラが流行っていました。4歳になる娘チョプジャはそのコレラにかかったのです。そしてあっという間に死んでしまいました。息子ジェフアと夫、そして私の三人家族になってしまったのです。
私たちは収容所を出てからソウルの東大門区昌信洞で部屋を借りて暮らしました。なんとか食べて行かなくってはならないので、夫は掃除夫の仕事をし、私は商売をしてがんばりました。
そうすると、六・二五(朝鮮戦争)が起こりました。また三年間の間、残酷な生活をせねばなりませんでした。
夫、そして息子も死んで
戦争が休戦になり、幸いにも家族三人は死なずに生き残れました。荒れはてた国土で、生活をどうしていくか考えた末、夫が軍隊に副食を納入する仕事を始めたのです。私はいろいろな小物を売ったりして生活をしました。
1953年1月も末の、雨が三日間も降り続いていた寒い日でした。
夫は軍隊の老朽化した倉庫に副食を納入するので出かけていきました。そこで検査を受けるため倉庫にいたのですが、二階建てのその倉庫が急に崩れて、民間人七、八人、軍人二十六人が事故に巻き込まれたのです。夫は赤十字病院に運ばれたのですが、かけつけてみると重体で、まもなく亡くなったのです。夫は47歳の若さでした。
私にはどうして不幸が待ち受けているのか、不幸な人生ばかりを歩むのか──と、何度悔やんだことか。娘を亡くし、さらに夫までもが。
一人息子と私だけが生き残りました。
しかし生きていくため働かねばなりません。いつまでも悲しみにくれてはおられません。風呂敷に服などを包んであちこち売り歩く生活をするようになりました。
主に江原道(コンファド)の村々を、回らないところはないほど歩き回り商売をしました。
息子はソウルの国民学校のチャンシン小学校三年生になっていたのですが、「一度海に行きたい」と言うので連れていって、韓国江原道の東海岸にソクチョンというところがあり、そこへ息子を連れて行くことになったのです。
朝、ソウルからバスに乗ると、夕方、そこに到着しました。
私は商売をしなければならないので、息子を置いて帰ったのですが、息子はソクチョンのヨンナンで湖で溺れ死んだのです。私は一人息子まで失ってしまいました。
昔、「従軍慰安婦」にされたという過去がある中で、誰が再婚してくれるでしょうか。誰と再婚することができるでしょうか。
従軍慰安婦だったことで、女扱いしない、むしろ犬よりも劣る存在として回りで見られるのに、どうして再婚などできるでしょうか。再婚できたとしても過去が分かると、「お前は慰安所にいた奴だ」と胸に突き刺さるような言葉を朝鮮人の男でさえ言うだろうと思い、「ずっと一人で生きていこう」と心に決めて今まで生きてきたのです。
ただ一人で、いまソウルの東大門近くの民家の一室に住んでいます。
胸の内の恨(ハン)を解きたい
毎日の趣味をいうと、朝早く起きて新聞を丹念に読むことです。夜はテレビをみます。体調も良くないので外にでかけることはあまりありません。
そんなある日、テレビで日本政府が「従軍慰安婦はいなかった」と言っているのを聞いて、本当に腹が煮えくり返るような思いでした。
あったことはあったこととして話すべきです。私がこの様な境遇になってしまったことを考えると、この怒りをどうしたらよいのか分かりません。
女性が女性として生きるというのも何もわからずに、五十年間を耐え続けて生きてきたのですが、こうした生きた証人がいるにもかかわらず、日本は慰安所は関係ないと言う。こんなとんでもないことがなぜありえるのかと、胸が引き裂かれる思いになりました。
私は生きた証人として、どこかへでかけてしゃべらないと、と思うようになりました。
慰安所から四ヶ月たって、何んとか逃げだしたので、いま、こうして証言することができるのですが、慰安所にいっしょにいたほかの四人は一体どうなったのでしょうか。解放を迎えたあと、いま生きているのか、一体どうしているのでしょうか。
私はすごく彼女らに会いたくって、(マスコミを通じて)何度となく会いたいと言っているのですが、これまで何の連絡もありません。どこかに隠れていて会おうとしないということでは決してないでしょう。もう死んでしまったのではないでしょうか。
またあの時私を苦しめた日本人は、今は7、80歳になっているはずです。会うことができたら、着ている衣服を引き裂いてやりたい気持ちをもっています。
怒りのあまり、韓国教会女性連合で、私の胸のうちを全て打ち明けて、どうしたらいいのか相談しました。私の胸の中につまっているハン(恨)を解きほぐしたい……。日本が過去にそういう事実があったことを正直に認めてほしいのです。
それで、放送局や新聞社を呼んで全てを話すことになったのです。政府や国会議員にも国会で証言したいと頼みましたが、何の連絡もありません。それでは私が日本に行って直接日本人に体験を話して、事実を語ろうと思って日本にやって来たのです。
当時、軍人たちは口々に天皇陛下と言っていたことは忘れません。天皇陛下、日の丸という言葉を聞くと、昔のつらい思い出がよみがえってきて、その気持ちは口ではとても表せません。この怒りをどうやって鎮めればよいのでしょうか。
日本政府は当時、「従軍慰安婦」を天皇陛下の下賜品とか言っていました。数万人の女性を引っ張っていって殺しておいて、よくそんな事が言えたものです。とにかく、そうすることによって朝鮮人の種をなくそうとしていたのは事実だと思います。名前や姓を奪い日本語を使わなければ学校にもいけませんでした。父を殺され、私自身も「従軍慰安婦」にさせられました。
私は裁判をして補償してもらうのが目的ではありません。事実を明らかにしてどうしても謝罪してほしいのです。日本で裁判するため来日し、「何を主張したいか」と問われたのですが、「もう一度、17歳の時代に戻してほしい」と言いました。
お金などいらないし、17歳のときの青春を戻してほしいと言いました。
無論、17歳のときの青春が戻るはずなどありません。戻りっこないでしょう。でもそういう思いがこみ上げてきたのです。私のハンを解いてほしいのです。しかしながら、何をしてもそのハンは消えないでしょう。余りにも深いからです。多分、このハンを胸に抱えたまま死んでいくでしょう。
歴史を正しく伝えてほしい
過去の侵略の歴史を若い世代に正しく伝えてほしいと思っています。日本の若者たちは日本が過去にどうしたことをしたか知らない。日本政府が過去にあった侵略の歴史を隠し、なかったことだというふうに押し通しているから、若い世代が知らないのです。若い世代、次の世代に正確に歴史を伝えてほしいのです。過去にあったこと、悪かったことも正しく伝えなくてはなりません。それを隠すということは、それをまた繰り返すことにもなりかねません。
日本は朝鮮を三十六年間植民地支配し、多くの朝鮮人を殺し、朝鮮という国をなくそうとした歴史があります。姓や名前までも変え、日本人として名乗らないと学校へも通えなかった時代が三十六年間続いたのです。そのような歴史を今の若い人に隠し、なかったことだというのではなく、正しく伝えてほしいのです。
私が過去の体験を語るのは、どうしてなのだと思いますか。お互いにそうした過去の嫌なことを繰り返さないように、そして戦争なんかしないで、仲良く暮らしていこうと思うからです。
日本の皆さん、昔はそうであったとしてもこれからはお互いに争わないようにして下さい。
日本の軍隊は争いを好んできました。朝鮮を植民地にしたのにあきたらず、日中戦争をおこし、うまくいかないので太平洋戦争をおこしました。どうしてこの様に争いを好むのかわかりません。
どんどん戦争を続けたことで、そのような過去がおこったのではないでしょうか。朝鮮人女性を慰安所に連れ、朝鮮人男性を弾よけにし、そうしたメチャクチャなことをして反省もしないとは、とんでもありません。自ら反省すべきであって、言わなければわからないというのはおかしなことだと思います。
日本はいま、経済大国でもあり、軍事大国でもあります。そういう大きな国が今度派兵するというのは、どういうことでしょうか。今度は何をするために派兵するのでしょうか。過去にやったことを明らかにもせず隠したままで、今度は出かけていって誰かを殺すことになるのでしょうか。
過去において不幸にした人びとに対して何らかの謝罪があってしかるべきです。過去におこったことを、ちゃんと謝罪すべきではないでしょうか。そこから新しい関係が始まるのではないでしょうか。
私のように従軍慰安婦にされた人にたいして謝ることすらせず、いま派兵する日本が怖いのです。これは私だけの感情ではありません。
解放のとき、日本人が韓国から出ていくときに、「十年後に日本がどうなるかみておれ」と言っていたことが思い出されます。
今日、皆さんがいくら笑顔で迎えてくれても私はそれで満足することはできません。日本政府が悪かったと謝罪しない限り、私の気持ちは晴れません。
日本に怖いことをいろいろされたので、いまも日本という国の名前を聞くだけでも怖くってたまりません。しかし、実際日本にきてみて感じたのは、日本の若い人でいい人がたくさんいることがわかりました。
私は日本のあちこちで私自身の過去の体験をしゃべってきました。日本に来てこうして話しているだけで、私は日本をすでに許しているのかもしれません。
韓国を発つ時に私が決心したことは、皆さんに言いたいことを全て話してから、最後に天皇の前で死ぬことでした。しかし生きてたたかうことが大事だと思うようになりました。自ら訴えていかなければならないのだと思っています。どこにでもでかけて行って証言していきたいと思います。それが、いま私を駆り立てていることです。
あちこち話がいきまして、何を言ったのかも思い出せません。とにかく胸の中にある思いを全部ひっぱり出してしゃべりました。