真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの対朝鮮政策とウクライナ戦争

2022年10月05日 | 国際政治

  私は、日々、ウクライナ戦争の死者の報道があるのに、停戦・和解の話がほとんどないことに苛立ちを感じています。なぜだろうと思います。
 また、ウクライナ戦争について報道される事実についても、双方の言い分を知りたいと思うのですが、ロシア側の情報はほとんどありません。だから、ツイッターやユーチューブ、english.pravdaなどから、ほんのわずかな情報を得ます。でも、その情報が真実であるかどうか、自ら確かめる手段がありません。
 そこで、わずかな情報と関係者の時々の発言、諸事件の前後関係、また、ウクライナ戦争を主導するアメリカの対外紛争に対する関わり方の歴史などをふり返ります。すると、プーチン大統領のいうアメリカの過ちや犯罪性が否定できないように思われるのです。

 今回は、前回に引き続き第二次世界大戦後の、朝鮮に対するアメリカの関わり方を取り上げます。
 第二次世界大戦後、日本の植民地であった朝鮮に関わる戦後処理も、アメリカによって、建国準備委員会の取り組みや朝鮮の人たちの思いを無視するかたちで進められました。
 アメリカ政府は、1945年8月8日、ソ連が対日宣戦を布告し、ソ連軍が急速に南下してきて、朝鮮全土を占領しつつあることに驚き、それを阻止するため、急遽、アメリカ政府内で38度線を設定し、ソ連に分割占領を提案、了承を得ました。それは、「一般命令第一号」としてアメリカ軍によって起草され、発令者は日本国大本営のスタイルをとったのですが、決して朝鮮の人たちのためではなかったと思います。
 
 1945年10月には、アメリカ政府の国務、陸軍、海軍三省調整委員会は、朝鮮に関する一般的政策を決定しましたが、信託統治制実施に関するジョン・カーター・ヴィンセント極東部長の見解の発表は、 朝鮮全土に大きな衝撃を与えたといいます。1945年8月15日、日本敗戦のその日に建国準備委員会を結成し、即時独立の準備を進めていた朝鮮の人たちは、その左右両派の立場にかかわらず、ヴィンセント極東部長の信託統治制に反対する声を一斉にあげたということです。韓国民主党、国民党、人民党、共産党、その他すべての政党が信託統治拒否のため結束し、朝鮮の各新聞も、信託統治反対の論調を継続的にとりあげたというところに、アメリカの方針に対する朝鮮の人たちの強い思いが現れていると思います。
 
 でも、朝鮮の人たちの取り組みや思いを無視するアメリカの戦略は、実に巧妙でした。
 ”ソウルのアメリカ軍政庁関係筋の思惑や、物情騒然たる朝鮮国内政情とはいっさい関わり無く、12月16日から6日間モスクワにおいて、戦後、連合国の間に起こった諸問題の処理のための国際会議である米英ソ三国外相会議(米バーンズ国務長官、英・ベヴィン外相、ソ連・モロトフ外相)が開催”され、「モスクワ三相会議決定」が発表されるのですが、その発表内容と、現実に朝鮮で展開されたアメリカ軍政庁の施策には、無視することのできない乖離があるのです。
 だから、私はアメリカが公言することと、実際にやっていること、また、表に出てくる事実と無視され、隠されてしまう事実などを見逃さないようにしなければならないと思うのです。

 ウクライナ戦争に関して言えば、先日、ノルドストリームにガス漏れが発生し、破壊工作の結果であるという疑いが発表されました。また、ロシアの関与が疑われるというようなことも報道されました。でも、ノルドストリームについてアメリカは、オバマ大統領のときから、懸念を表明しており、トランプ大統領やバイデン大統領は、攻撃的な発言をくり返してきたと思います。
 また、関連会社やその会社幹部に制裁を科したりした事実や、原発の停止と関連して、ロシアとノルドストリームの計画を進めていたドイツのメルケル首相の携帯電話が、アメリカの情報機関に盗聴されていたという事実は、この破壊工作がアメリカによるものである可能性が大きいことを物語っていると思います。アメリカにとっては、ノルドストリームの復活は好ましくないことだからです。
 逆にロシアは、ドイツを中心とするヨーロッパ諸国が、エネルギー問題で行き詰まり、NATO諸国のウクライナ支援国から外れて、ロシアの天然ガス輸入再開を決定するのを持ち望んでいると思います。だから、自らパイプラインを破壊することはないだろうと、私は思います。 

 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から、「第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾」の一部を抜萃しました。
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              第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾

               第一節 冷戦の開始と信託統治問題

 (五) 信託統治案ショックと政治的騒擾
 すでに第一章で述べたように、1943年3月以来、アメリカ政府内部において朝鮮半島戦後処理問題が構想されていた。この年のカイロ会談で適当な時期の朝鮮独立が国際公約として連合諸国間で諒解されていたが、これはルーズベルト構想による朝鮮への国際信託統治プランとして明確化されていた。だが、これは相互諒解のみの段階であって、共同宣言、あるいは条約公文などで細部確認されたものではなかった。これがはっきりした協定に達したのは、1945年5月になってからであった。それはルーズベルトの死後、スターリン首相と新しく就任したトルーマン大統領との間でのことでだった。  
 だが、それまでの、この朝鮮に対する国際信託統治構想は、単に連合諸国政策決定機関レベル間の内部においてのみで口頭で交渉協議されていた戦後処理計画であった。そのため、この朝鮮の国際信託統治計画については、文書による協定もなかったし、その具体的な実行計画も立案されていなかった。
 この朝鮮半島に関するルーズベルトの戦後処理構想が、やがて1945年12月にモスクワで開かれることになった米英ソ三国外相会談で具体的に討議され、それがモスクワの議定書として朝鮮に五年間の米英中ソの四大国による信託統治プランとして決定されることになる。

 だが、これは以後の朝鮮の命運を決する外国勢力による国際決議であった。これが一旦公表されて南北朝鮮に伝わると、外部からの一大政治的衝撃は、南北政情をおおきく揺るがすことになった。また、その結果、この国際信託統治構想を拒否し「反託」の立場に立つか、逆に、受け入れて「受託」の立場にたつかが、その選択がきわめて国家と民族の運命に重大な意味を持つだけに、以後の南北政情の進む方向を決定する分水嶺となった。また左右両派が、一方は「反託」にまわり、もう一方が「受託」にまわったことにより、以後、合作が不可能なほど分離することになる政治的踏み絵となった。さらには、米ソが朝鮮半島を舞台として 、直接激しく、しかも妥協の余地のない形で衝突し、そして「冷戦」の時代に突入していく、極東における発火点ともなった。

 まず、1945年10月20日、アメリカ政府の国務、陸軍、海軍三省調整委員会は、朝鮮に関する一般的政策を決定した。そこには「現在のアメリカ軍とソ連軍による朝鮮の地域別軍事占領は、できるだけ早い時期に朝鮮への信託統治という形に置き換えられるべきである」と述べられていた。そこで翌日、国務省のジョン・カーター・ヴィンセント極東部長は、長期間日本の統治下にあった朝鮮に対しては、その独立自治能力の養成準備のためにも、当分の間、国際信託統治制を実施したい意向を表明して、つぎのような発表をした。「現在の朝鮮は、長年日本に服従してきた後であるので、すぐに独立した政府を持つ用意ができていない。従って、われわれは朝鮮が独立国家としての行政を行う準備が整う間、信託統治の期間を設けることを主張する。どのくらいの時間がそのためにかかるのか、あなた方にも私にもいえない。しかしわれわれは、その期間が短ければ短いほど、好ましいという点に同意するだろう。」

 だが、これが朝鮮に伝えられると、朝鮮全土は大きな衝撃を受けた。従来から即時独立以外の過渡的政治形態をなんら予想していなかった朝鮮民衆は、その政見立場にかかわらず信託統治反対の声を一斉にあげた。韓国民主党、国民党、人民党、共産党、その他すべての政党が信託統治拒否のため結束した。また朝鮮の各新聞は、信託統治反対の論調を継続的にとりあげた。

 (六)反託運動と政治的騒擾
 しかし、国際信託統治構想は、本来はルーズベルトの戦後処理構想であり、基本的にはアメリカ政府が企画し推進したものである。だが、在南朝鮮米軍司令官であるホッジ中将は、アメリカ政府各省間の連絡の不備のためか、また別の理由からか、彼は常に接触する南朝鮮右派政客に対して、信託統治構想の性格と主旨を否定する態度をとりつづけた。そのようなアメリカ国務省の立場と食い違うソウルのアメリカ軍政庁の立場から、10月30日、アーノルド軍政長官の言葉として、信託統治に関する国務省極東部長の発言は、ヴィンセント部長の個人的な見解にすぎないとの旨が新聞報道された。

 だが実際は、翌11月10日、ワシントンにおいてトルーマン大統領、イギリスのアトリー首相およびカナダのマッケンジー首相が会談して戦後の諸問題を討議しているが、その際に極東情勢についても話し合われていた。その結果、朝鮮問題については、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の戦勝四大国による国際信託統治を行うために、アメリカが直ちに何らかの政策をとるという同意が成立していた。すなわち、南朝鮮占領の現地アメリカ軍の独断的な動きとは逆に、アメリカ政府部内においては、この信託統治構想が具体化していた。

 このような一連の外部からの大国の朝鮮干渉の動きがつたわると、朝鮮政情はさらに動揺した。38度線封鎖による経済の麻痺状態のため、深刻な市民生活の打撃をうけていた朝鮮大衆の世論に、一層の深刻な不安感を与えた。
 そのため、この信託統治問題に関する限り、当初は左右両派一致して反対したような民族的連帯が生じ、超党派的に朝鮮信託管理委任統治制反対委員会が結成された。また、国連および関係各国に朝鮮に対する信託統治案の撤回、自主独立国家早急樹立を要請する決議文を発送して、左右を超越した挙国的な反対機運が動いていた。11月2日、右派の独立促成中央協議会は李承晩自らが起草したという「四大連合国およびアメリカ民衆へ送る決議書」を可決したが、これにも共同信託制を拒否し、その他の如何なる種類を問わず完全独立以外のあらゆる政策に反対する旨の結論が述べられていた。
 しかし、その間共産党は、独立促成中央協議会の掲げた朝鮮問題解決の原則的条件に反発をしめした。12月5日には独自の信託統治反対のメッセージを関係諸国当局に発送したのち、12月24日、遂に協議会との正式絶縁を発表するに至る経緯となった。
 一方、この間の12月12日、アメリカ軍政庁は東京のマッカーサー司令部の許可のうえで、呂運亨指導下の人民共和国に対してさらに強硬な態度に出ることになった。すなわち、人民共和国を公然と非難し、その活動は「不法」であるとして、人民共和国の政府機能類似活動および、その傘下の大衆団体の活動を禁止、抑圧する方針を一層明確にした。
 また、それまで労働組合が自主管理していた旧日本系企業、工場の占領軍による接収作業を一層強硬にすすめた。これらの企業には、軍政庁から朝鮮人管理者が任命されたが、のちに李承晩政権が誕生してのちには、これらの任命管理者はその企業の公然たる所有者として、これらの企業を私物化することになる。

 (九)モスクワ三国外相会議、朝鮮問題議定
 こうして、ソウルのアメリカ軍政庁関係筋の思惑や、物情騒然たる朝鮮国内政情とはいっさい関わり無く、12月16日から6日間モスクワにおいて、戦後、連合国の間に起こった諸問題の処理のための国際会議である米英ソ三国外相会議(米バーンズ国務長官、英・ベヴィン外相、ソ連・モロトフ外相)が開催された。
 そこにおいて、かねて戦時中からの四大国間の懸案でもあった朝鮮に対する国際信託統治構想も、とくに南北を分割占領し、38度線を封鎖した米ソ両軍の調整問題とも関連して討議されることになった。これは朝鮮問題に関する限り、もっとも重要な国際会議であったが、やはり朝鮮市民の意志にかかわりのないところで開かれた戦勝連合国間の、戦後支配構想の角遂する政治的戦場でもあった。

 この1945年12月16日午5時、モロトフ・ソ連外相が議長をつとめる会議において、「独立した朝鮮政府を樹立するための前奏曲として、朝鮮に統一行政を設立すること」を議題とすることを提議し、同意された。つぎにバーンズ国務長官が、12月8日付けのハリマン大使よりモロトフ外相宛の、「朝鮮にいるソ連軍司令官がアメリカ軍司令官と通信・通商・通貨・貿易・交通・電力・分配・沿岸船その他一般的な問題に対する統一行政の整備について話し合う全権を与えられているか」を問う書簡を発表した。これに対しモロトフ外相は、「この書簡は、政府の行政とは異なった問題に関係しているから、現在議論している問題とは何の関係もない」として、議題を信託統治問題にのみ限定しようとした。
 翌日バーンズ国務長官は、アメリカの対朝鮮政策に関する声明を発表した。彼は「カイロ宣言」を強調し、その統一された独立国家朝鮮の成立の目的達成のため、米ソ両軍により二つに分割された状態を廃止し、統一政府を樹立することを主張した。そして朝鮮を国際連合下の信託統治に移行するための行動に、直ちに移ることを提案した。
 この際に、バーンズ国務長官は、それまで十年にわたる程度の信託統治期間がアメリカの構想であったのを変えて、ソ連の短期案に対抗するため5年に期間を短縮したものを発表した。また本来のアメリカ案が、四大国管理による最高統治機関として、一人の高等弁務官と各国代表よりなる執行委員会設置によって朝鮮の行政、立法、司法に対する信託統治実施をほどこすという、より直接統治的色彩がある内容であったのに対して、ソ連案は、信託統治は朝鮮人自身による臨時朝鮮政府を構成し、それを通して行うとの間接管理的(後見的)立場であった。バーンズ国務長官はアメリカ案を捨てて、ソ連案の原則を認めた。
 これを承けて、12月20日モロトフ外相は、経済的都合、臨時政府の樹立、四大国による5年間の信託統治の承認などの緊急問題について新しいソ連案を合同会議に提出。バーンズ国務長官は、そのソ連案の二つの点について細部の変更を求めたが、基本的にこれを受け入れた。イギリスの代表のベヴィン外相もこの協定内容に同意し、これによって、この案はモスクワ議定書に盛り込まれた。

 こうして、12月27日合意が成立した。以後、このモスクワにおける三国外相会議で採用された議定書が、以後の朝鮮処分に関する国際的決定の基礎となった。また、のちに中国(国民党政府)も参加することとなった。このモスクワ協定の朝鮮に関する箇所の全文は、翌日の12月28日にワシントン、モスクワ、ロンドンにおいてとして同時公表されたが、それはつぎのような内容のものであった。

第一 朝鮮を独立国家として再建し、民主主義的原則にもとづく国家として発展させる条件を造成すること、および長年におよぶ日本統治の悲惨な結果をできるだけ早く清算するために、民主的な朝鮮臨時政府を樹立すべきである。この臨時政府は、朝鮮の工業、交通、農業そして朝鮮人民の民族文化を発展させるために必要なあらゆる施策を行うべきである。
第二 朝鮮臨時政府の構成を助け、そのための適切な諸方策を予備的にとる目的のために、在南朝鮮米軍司令部と在北朝鮮ソ連軍司令部の代表からなる共同委員会を組織すべきである。この共同委員会はその提案を作成するにあたっては、必ず朝鮮の民主的諸政党および社会団体と協議すべきである。委員会によって審議され作成された諸建議案は、共同委員会に代表されている米ソ両国政府が最終的決定を行うが、その前に米、ソ、英、中の四か国政府の審議に付されなければならない。
第三 共同委員会は、朝鮮臨時民主政府と朝鮮の民主的諸団体の参加のもと、朝鮮人民の政治的、社会的進歩と民主的自治の発展および独立国家の樹立を援助協力する諸方策も作成する。共同委員会の諸提案は、朝鮮臨時政府と協議したのち、5年以内を期限とする四カ国信託統治に関する協定を作成するために、米、ソ、英、中の各政府の共同審議に付さなければならない。
第四 南北朝鮮に関連する緊急な諸問題を審議し、または在南朝鮮米軍司令部と在北朝鮮ソ連軍司令部との行政、経済諸問題に関する日常的調整を確立する諸方策を作成するため、二週間以内に朝鮮に駐屯する米ソ両軍司令部代表による会議が召集されなければならない。 
 
 朝鮮半島の第二次大戦後の国際的地位は、国連憲章第77条がその一のⅡにおいて「第二次世界戦争の結果として敵国より分離されることあるべき地域」と規定するのに該当しているとされていた。モスクワ協定はその規定の上に立って朝鮮に対する信託統治の手続き、期間に関し具体的に内容を示したものであった。

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