下記の資料1は、「朝鮮戦争の起源 1 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭/林/加地:訳(明石書店)の文章ですが、”アメリカ軍政は、あくまでも自らの主導力の下で朝鮮の政府を樹立しなければならないということだ”とか、”南だけの単独政府を樹立しようとするソウルの米軍政の決定は、1945年11月20日付のウイリアム・ラングドンの電報の中にはっきり述べられている”というような表現で、 戦後の朝鮮半島に対するアメリカ軍や政府関係者の本音を知ることができると思います。
特に、ラングドンの電文で示された(1)から(6)の内容は、アメリカの対外政策や外交政策がいかなるものであるかをよく示しているように思います。
資料2の「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)は、アメリカの朝鮮支配の実際を、詳細に記述していますが、その中から、南朝鮮に李承晩政権が誕生するまでの経緯の重要部分を抜き出しました。
まずアメリカは、”呂運亨率いる建国準備委員会とその後身である「朝鮮人民共和国」勢力”が、民族自決の精神を持つ国民自治行政組織として、すでにめざましい活動を展開していたにもかかわらず、それを受け入れず、完全に潰しました。
そしてアメリカは、「朝鮮人民共和国」勢力のような左派的な革新勢力を排除し、既存の旧統治体制、すなわち日本の統治機構である朝鮮総督府組織の日本人総督府官吏・警官を継続利用し、戦時中の対日協力者である朝鮮人、いわゆる”民族反逆者と当時呼ばれていた人物集団・階級”を吸収しながら、反共的で親米的な南朝鮮政権を樹立させる方向に進めたのです。
それは、「朝鮮総督府」の名称を「アメリカ軍政庁」に変え、アーノルド軍政庁官の下、旧総督府から引き継いだ警務局、財政局、鉱工局、農商局、交通局、逓信局、学務局の八局長官を米軍将校に挿げ替えただけともいえるものであったようです。
そして、”アメリカ占領軍は、この明確な反共主義者である李承晩を活用すべく、1945年10月12日から15日まで、東京においてマッカーサーとホッジ中将会談の後の10月15日、李承晩は、マッカーサーの飛行機でソウルに送られた。”ということで、李承晩が登場してくるのです。
こうしたアメリカの朝鮮支配、その他の実際を踏まえて、私は、ウクライナ戦争を受け止めるのですが、そうすると、いろいろ気になることが出てくるのです。
たとえば、最近、ゼレンスキー大統領は、”プーチンが大統領である間は、ロシアとは交渉しない”というようなことを言ったようですが、それはプーチン政権を崩壊させ、ロシアを弱体化させようとするアメリカやウクライナの意図が、透けて見えるような発言だと思います。
”ほかの人が大統領になれば交渉します”というような姿勢を見せることによって、”プーチン大統領を失脚させれば、戦争が終わるのではないか”という期待を、多くの人に抱かせる発言のように思えるのです。
ゼレンスキー大統領の発言は、いつも、アメリカの思いを代弁しているように思えると同時に、停戦ではなく、くり返し武器の供与を求め、ロシアとの戦争に突き進むゼレンスキー大統領の方針も、ロシアをヨーロッパ諸国から排除し、孤立化させ、弱体化させようとするアメリカの方針そのもののように思えるのです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第六章 南朝鮮の単独政府に向かって
臨時政府の帰国と「政務委員会」(Governing Commission)
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マックロイは明らかにアメリカの対朝鮮政策の矛盾を指摘したうえで、軍政庁の方針に賛成したのである。つまりアメリカ軍政は、あくまでも自らの主導力の下で朝鮮の政府を樹立しなければならないということだ。マックロイは、言うまでもなく片田舎の下っ端役人などではなく、戦後のアメリカ外交政策の決定にあたっては中心的な役割を演じてきた人物の一人だった。アメリカ軍政当局はこうして国務省との対立抗争に際して強力な味方を獲得したのである。
南だけの単独政府を樹立しようとするソウルの米軍政の決定は、1945年11月20日付のウイリアム・ラングドンの電報の中にはっきり述べられている。彼は信託統治の構想は破棄すべきだという主張から始めている。
解放後の朝鮮で一ヶ月ほど見聞したこと、およびそれより以前、朝鮮で仕事に携わった経験から考えて、私は信託統治を朝鮮で現実に適用することは不可能であると思うし、倫理的観点からも実際的観点からも信託統治が妥当であるという確信を持つことができない。従って、我々は信託統治の構想を放棄すべきであると信じる。信託統治が誤りであると考えるのは、朝鮮人は日帝支配の35年間を除けば、常に独自性を給ってきた民族であったし、アジア的、或は中東的基準から考えれば、識字率が高く、文化と生活の水準も高いからである。……だから、朝鮮人は例外なく自分達が生きている間に自分達の国をつくることを望んでおり、人から押しつけられた国家の水準を満たすために、それがたとえ如何なる形態のものであれ、外国の後見のようなものを受け入れようとはしないだろうというのが現実のように思われる。
彼は続けて、金九のグループは「解放された朝鮮における最初の政府として、これに挑戦しうる競争相手をもたない」のだから、臨政が帰国すれば「アメリカは嫌われたりそしられたリする心配のない建設的な朝鮮政策を樹立する好機をつかむことができるであろうし、そのような政策とは大まかに言って次のようなものである。
(1) アメリカ軍政の司令官は金九に命じて朝鮮の政府形態を研究しその樹立を準備させるため、いくつかの政治グループの代表からなる協議会を軍政庁の中に設置させ、これを基盤に政務委員会(Governing Commission)を組織させる。軍政庁は、政務委員会に対して様々な便宜、助言、及び運営資金を提供する。
(2) 政務委員会は軍政内に編入される(軍政は直ちに朝鮮人だけの機構に作り変えられる)。
(3) 政務委員会は軍政を継承して暫定政府となるが、しかし米軍の司令官は拒否権を保持し、また必要に応じてアメリカ人監督及び顧問を任命する権限を持つ。
(4) 他の関係三国(イギリス、中国、ソ連)に対しては、アメリカ人の代わりをつとめるべく、政務委員会に若干の監督と顧問を派遣することを要請する。
(5) 政務委員会は国家元首を選ぶ。
(6) 選出された国家元首によって構成された政府は外国の承認を得、条約を締結し、外交使節を派遣することができる。そして朝鮮はUNO(国連)への加盟が認められる。追記──この過程のある時点、多分(4)と(5)の間で、相互撤兵、及びソ連地域にまで政務委員会の拡大をすることに関する交渉がまとまる。ソ連には予めこのような計画を通告し、またソ連地域の人物で協議会により政務委員会のメンバーに指名された人にはソウルに来ることを許容し、そうすることによってこの計画が更に進められるようソ連側(の協力)を促すべきである。しかしたとえソ連の参加が実現されなくても、この計画は38度線以南の朝鮮で実施されるべきであろう。
朝鮮の伝統的な旧体制(李王朝)は、国内的には封建的で腐敗していたが、記録にしるされている限り、外国の利益すなわち外国人の生命、財産、並びに企業に保護を与えるとか、条約もしくはそれに基づく特権を尊重するとかの面においては極東三国の中でも誠に申し分のない性格を備えたものであった。私がいま確信をもって言えることは、以上のようなプロセスで樹立されるであろう朝鮮の政府は最小限、旧体制の朝鮮政府並みのこと位はするだろうと期待してよいことである。勿論、(古い体制が崩壊したあと)朝鮮人社会の中で起こった発展と、外国人監督の下におけるこれから先の変化を勘案すれば、上に述べたこと以上のことを期待してもあながち不当だということはありえないだろう。…… 総人口の四分の一(ママ)を占める北朝鮮の人びとについて言うならば、朝鮮人は全く同質性の民族であって、たとえ政治的、社会的な変革が(この計画によって)もたらされるにしても、彼らがそれに反発し、全国的統一政府の成立を歓迎しないということは考えられない。
ラングドンのこの文書は実に驚くべき内容を秘めたものであるが、この文書は11月13日付(つまりこの文書の一週間前)の軍政法令第二八号に対する直接的な言及をもって締めくくられている。法令二八号とは「朝鮮人の陸海軍を組織し、これに訓練と装備を提供することを目的にするもの」であったのだ。
グランドンの電文は占領1年以内に現われたもののうち最も重要な文献だったのでほぼ全文を引用した。この電文は、後日、たとえば1946年2月の代表民主議院、1947年の南朝鮮過渡政府、そして1948年の李承晩政権による最終的な権力掌握という結果に帰着することになる政策を具体的に述べたものだったといえよう。ラングドンの提案と実際の経過との間の基本的な違いは、国連が(6)の時点ではなく(5)の時点で引き入れられ、1948年5月の南朝鮮単独選挙に合法性を与えることに利用されたことであった。勿論この選挙での勝者となったのは、(計画が予見した)金九ではなく李承晩である。この位のくい違いを別とすれば、ラングドン計画は字句その通りに最終結論に向けて遂行されたと言えるだろう。
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資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第1章 戦後米ソ対立と南北体制の起源
第四節 分割占領下における政情の混沌
(一) アメリカ軍政の人共否認と韓民党登用
一方、米ソ両軍による38度線を境界とする南北朝鮮分割占領の、その当初の時期での朝鮮政情においては、すでに呂運亨率いる建国準備委員会とその後身である「朝鮮人民共和国」勢力が事実上の初期国民自治行政組織として、すでにめざましい活動を展開していた。
すなわち、8月15日以後の朝鮮全土を政治の嵐が吹きつづけた時期に、ほとんどすべての朝鮮大衆がもとめていたのは、過去の植民地時代の社会的不正の是正、旧体制の清算と、新しい抜本的な社会改革であり、民族自決の原則にもとづく国民政府の創建であったからである。その結果、南朝鮮での圧倒的大衆、すなわち圧倒的な比率を占める貧困な無産階級、旧日本統治時代に犠牲を強いられていた多数派は、解放後社会の抜本的改革をもとめて、結果として左派の主導する朝鮮人民共和国、その傘下の地方人民委員会を支持する形となっていた。
しかし、このような人民共和国勢力と地方人民委員会の革命的、容共的な性格は、明らかにアメリカ政府の極東政策にそぐわないものであった。また、きわめて強固な反共主義者であるマッカーサー司令部の意向にも反するものであった。さらに、人民共和国勢力の主張する「朝鮮人民共和国」としての自治「政府」としての機能は、ルーズベルト構想にもとづく戦勝四大国による朝鮮への国際信託統治プランと相反する部分もあった。
その結果、南朝鮮占領米軍は、この上級指令部などの意図にそって、「朝鮮人民共和国」なる朝鮮人民から発生した自治政府機能を否認するとともに、親米的朝鮮政権の養成に進もうとしたとみられた。こうして南朝鮮を占領したアメリカ軍政の方針が、この系統の左派的な革新勢力より、既存の旧統治体制、すなわち旧植民地統治機構である朝鮮総督府組織の維持利用にあたることが明確になって来る情勢となった。それは、旧時代における日本人総督府官吏・警官をも継続利用する方向のものであった。また、旧時代においての対日協力者である朝鮮人、いわゆる民族反逆者と当時呼ばれていた人物集団・階級をも吸収しながら、反共的な親米政権をつくりあげるために利用するものとの印象を一般に与えよたような方向の政策であった。
(二) 派遣米軍の長期占領政策の欠如
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すでに、9月11日、米軍当局は、その管轄占領地区に軍政を施行し、軍政庁を設置することを発表していた。また、アーノルド軍政長官は、9月14日には旧植民地時代の警官をそのまま登用すると発表尉していた。また、9月17日には、米軍将校をそれぞれ旧総督府から引き継いだ警務局、財政局、鉱工局、農商局、交通局、逓信局、学務局の八局長官に任命した。また、9月19日には、朝鮮総督府の名称が廃止され、アメリカ軍政庁の名が宣布された。こうして、朝鮮一般市民大衆には、きわめて意外にも、36年の日本による異民族支配が終っても、依然、その日本人官吏が現職にとどまったままの形で、やはり異民族軍隊による軍事政府が、臨時的なものでありながらも樹立され、その外国勢力の統治下に南朝鮮は置かれることになった。
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(三) アメリカ反共軍政の開始
そこで、ソウルに設置されたアメリカ軍政庁は、南朝鮮諸政党を軍政の便宜のために活用するに当たって、当然のごとく、彼らからみてソ連勢力指導下にあると認識されていた呂運亨指導下の南朝鮮人民共和国系を排除しようとした。逆に、右派の保守系であり、旧体制・既存体制の受益者でもある宋鎮禹、金性洙などの韓国民主党勢力を、左派への対抗勢力として育成、活用しようとした。
これは、日本占領統治の遂行にあたって、日本の戦争責任を処断するよりも、米ソ対立状況の戦後世界において、天皇制度を含む日本の既存体制を温存し、それをアメリカ指導下で再編することによって、対日占領統治と以後の極東政策のために活用しようとした戦略傾向と共通するともみられた。そのようなアメリカ極東政策の南朝鮮における結果として、解放直後の一時期逼塞していた旧植民地時代の対日協力者、買弁資本家、植民地官吏、職員、警官などが以後のアメリカ軍政時代において、結果として保護温存されて、行政の全面に返り咲き、解放後社会において新受益者・権力者集団として復活していくことになった。
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(四) 「朝鮮人民共和国」の解体
だが、一方でアメリカ軍政庁とホッジ中将は、この呂運亨の軍政協力への拒否に激怒したとされ、朝鮮人民共和国勢力の政府機能を禁圧する方針を固めたとされた。軍政庁はあ、きわめて強硬な人民共和国勢力への圧迫政策をとることになった。まず、10月9日、アーノルド軍政庁官は人民共和国指導者は幼稚であるばかりか「自分らが朝鮮の合法政府としての機能を果たしうると考えるほど愚劣な詐欺師である」との露骨な悪罵と人民共和国の合法性を一切否定する軍政庁官声明文を起草した。さ
らに、それを10月10日付けのソウルの全新聞に掲載せよとの占領軍命令を行った。
だが、南朝鮮のどの新聞もその声明を批判した。とくに人民共和国に同情的な毎日新報は声明の掲載を拒否した。そのため、この毎日新報は、翌月に停刊処分が下されることになった。さらに、、アメリカ軍政庁より、人民共和国の政府機能の停止と傘下保安部隊の解散が厳命された。ホッジ米軍司令官も10月16日、南朝鮮における唯一の政府は軍政庁である旨を声明して、アメリカ占領軍の権力を宣明するとともに、人民共和国のような左派的勢力が「政府」を呼称し、行政類似行為を依然遂行していることに対する強硬態度をしめした。
人民共和国側は、「このようなアメリカ軍政庁の態度に反発した。
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第二章 異質の政治原理と二分された南北朝鮮
(三) 政情の激動と亡命政客の帰国
こうした戦後冷戦の世界化、米ソ対立のアジアへの波及は、朝鮮国内にも、深刻な政治的影響を及ぼすこととなった。
まず第一章でみたように、当時の南朝鮮政情においては、アメリカ軍政庁と左派の人民共和国勢力の関係が好転しなかった。逆に軍政庁は、政策的に右派保守勢力の韓国民主党などの旧体制的階層との政治勢力登用・強化して、左派への対抗勢力となるべき反共勢力として育成しようとしていた。
これについては一般的には、アメリカ軍政庁による政治統制とその結果による人民共和国勢力の分裂と衰退、また伝統朝鮮社会の保守的性格からして、右派がより政治的に優位な状況になったとみられた。だが、右派は群小の諸政党の乱立と、騒然とした相互の葛藤、またリーダーシップの欠如と対日協力者、いわゆる当時において民族反逆者と呼ばれていた人士を多数ふくんでいたために、解放後社会における政治活動の正統性に欠けていた。そのため、アメリカ軍政庁の有形無形の支持にもかかわらず、絶望的に分裂し、左派団体に対抗できる統一した勢力としては動けなかった。
しかし、この1945年10月16日、亡命33年におよぶ独立運動の巨頭李承晩が米軍当局の招請によって、一市民の資格ながらも米軍機によってアメリカから帰国した。
李承晩は、1896年、徐載弼を中心とする開花派の政治家たちが独立協会を組織した時期以来の独立運動家であった。独立への政治活動によって投獄され、その後アメリカに留学。ジョージ・ワシントン大学を卒業し、ハーバード大学で修士号、プリンストン大学で博士号を得た。このように李承晩ただ一度帰国したほかは、アメリカにおいて典型的な亡命政客の生活をおくるころになるが、かつて三・一独立運動を前後した時期での在米独立運動団体での有力活動家でもあった。また、1919年に上海亡命独立運動家たちによる大韓民国臨時政府が樹立されると、李承晩は国務総理に推されていた。その後は、臨時政府内部で個人主義的行為により、1925年3月、臨時政府大統領を解任され、以後、在米団体のリーダーの一人となっていたが、その中心団体である在米韓族連合会と不和になり、在米社会においても孤立した状態であった。
したがって、李承晩自身は全く組織的な基盤を持たなかったが、しかし、ふるくからの民族解放運動の指導者としての知名度は充分にあった。また8月15日の朝鮮の解放は、自力解放ではなく、連合軍の対日戦勝利の結果として8月15日に解放されたのが実際であった。そのため群小政党は乱立していても、明確な政治的リーダーシップの正統性の保持者をもたなかた一般大衆に対して、相当に大きな個人的権威をもつことになった。
アメリカ占領軍は、この明確な反共主義者である李承晩を活用すべく、1945年10月12日から15日まで、東京においてマッカーサーとホッジ中将会談の後の10月15日、李承晩は、マッカーサーの飛行機でソウルに送られた。ホッジ中将は李承晩の帰国をしきりに要求し、李承晩と中国亡命中の臨時政府指導者を、自分の構想する暫定政府の核心部分として利用したいと考えていたとみられた。
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