真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカによる38度線分断支配とウクライナ戦争

2022年10月08日 | 国際・政治

 第二次世界大戦末期の1945年8月8日、ソ連が対日宣戦を布告し急速に南下して来て、朝鮮全土を占領しつつあることに驚いたアメリカ政府は、ソ連と戦うことなくそれを阻止するため、急遽、政府内で38度線を設定し、ソ連に分割占領を提案して了承を得たことは既に確認しました。また、それが「一般命令第一号」としてアメリカ軍によって起草され、発令者は日本国大本営のスタイルをとったことや、それが、朝鮮の人たちの思いなど全く考慮していなかったことも確認しました。
 そしてホッジ中将率いる第24軍団が、占領軍として朝鮮に入り、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を設置します。アーノルド少将が軍政長官をつとめたということですが、この軍政がまた、きわめて問題のある動きを展開します。

 なぜなら、当時朝鮮の人たちは、日本の降伏が発表されるや否や、建国準備委員会を結成し、朝鮮独立の準備を始めていたからです。朝鮮の人たちは、皆、朝鮮の信託統治南朝鮮単独政府の樹立など考えていなかったのです。でも、アメリカは大陸に対する足掛かりを得ようと、当初の方針にこだわり、いかにしてそれを実現するか工夫を凝らしたのでしょう。モスクワ三相会議における「信託統治」、すなわち、”統一民主朝鮮政府を樹立するため、朝鮮人民の構成する臨時政府を後見する”という考え方ではなく、”国連の信託により関係国が当該地域の統治を代行する”という考えた方で、南朝鮮単独政府樹立の方向に動くのです。
 国際社会におけるアメリカと南朝鮮におけるアメリカが、同じとは思えない動きを展開したということです。
 そして、朝鮮全土で信託統治や南朝鮮単独政府樹立に反対する声が高まると、ホッジ中将は、”信託統治に反対し、朝鮮の即時独立を主張しているのはアメリカだ”という反ソ的なキャンペーンを開始し、朝鮮の人たちを分断していくのです。
 また、韓国民主党の重鎮宋鎮禹が、金九系のテロリスト韓賢宇により拳銃によって射殺されたことも、共産主義過激分子によるものと宣伝したといいます。
 
 そしてアメリカは、朝鮮の人たちの信託統治の反対運動を潰すために、そうした運動の指導者、宋鎮禹金九を排除した後、李承晩の独立促成中央協議会や韓国民主党関係者の一部を強化育成する方向に進んだということです。
 また、そうした動きの中で、”朝鮮共産党責任秘書、朴憲永が朝鮮に対するソ連一国の信託統治を絶対に支持し、5年後に朝鮮がソ連に編入されることを希望した”というようなデマが、真実であるかのような報道がなされたといいます。
 私は、個人的に「国鉄三大ミステリー事件」といわれた下山事件三鷹事件松川事件に関し、”GHQが事件を起こし、国鉄労組や共産党員に罪をなすりつけたのだろう”といわれたことを思い出します。
 そうしたアメリカの朝鮮に対する関わり方を踏まえて、私はウクライナ戦争を受け止めます。

 ロシアやウクライナはもちろん、世界中にウクライナ戦争の停戦・和解を求める声があると思います。日本では、近代ロシア史やソビエト連邦史および現代朝鮮史などが専門の歴史学者、東京大学名誉教授の和田春樹教授や平和学研究者といわれる伊勢崎賢治教授が中心になって、「日本、韓国、そして世界の憂慮する市民はウクライナ戦争即時停戦をよびかける」という声明を発表しています。
 でも、日本のメディアは、その取り組みを後押しすることはもちろん、その取り組みに関する報道すらほとんどしていません。
 そして、アメリカやウクライナからもたらされる情報、すなわち、ロシアを悪とし、プーチン大統領を悪魔に仕立て上げるような情報を、日々流し続けています。
 ウクライナ戦争の当初、バイデン大統領は”この戦いは長い戦いになる”と言いました。なぜ、アメリカの大統領が、そんな見通しを語るのか、と思いました。
 また、アメリカのオースチン国防長官は、”ロシアが二度とこのような戦争ができないように、弱体化する必要がある”、というようなことを言いました。ロシアが、このような戦争ができないようにするために戦争をするのだという事だと思います。だから、停戦・和解をするつもりはなく、話し合うつもりもないのだろうと思います。
 バイデン大統領が、ロシアと話し合いをしないのかと問われて、”今は話し合いの時ではない”とか”話し合う意味がなければ、話し合いはしない”というようなことを言ったのは、まさに、ロシアの弱体化が目的だからだろうと思います。

 でも、欧米のメディアや日本のメディアは、毎日、人が無惨に死んでいるのに、アメリカやウクライナを後押しするような報道を続けているように思います。

 先日、朝日新聞は、「日中国交正常化50年」にあたって、社説に「平和を築く重層的な対話を」と題する文章を掲載しました。50年間にわたる日中関係をふり返りながら、相互に「違いを越える努力」の必要性を説いたのです。でも、その朝日新聞が、なぜロシアを敵視し、「違いを越える努力」を放棄するのか、私には理解できません。
 また、ウクライナ東部と南部の4州の「住民投票」を「民意の捏造だ」というように断定するのはなぜでしょうか。朝日新聞の社説にそうした断定的な文章を掲載することは、読者に対して大きな責任を伴うと思うのですが、その責任をどのように考えているのでしょうか。
 ”現地からは、係員が重武装した兵士と各戸を回って票を回収したとも伝えられる”というような、重大な問題を含む記事を 自らの取材に基づかず、また、きちんとした検証もなく”伝えられる”というような無責任なしめくくりで掲載するのは、どういうことでしょうか。 
 やはり、アメリカのバイデン大統領やウクライナのゼレンスキー大統領と同じように、人が何人死のうが、ロシアの弱体化がはっきりするまで、また、プーチン政権が倒れるまで、戦争を続ける方がよいと考えているのでしょうか。

 アメリカのオースティン国防長官は、”米国はなぜ長距離兵器を供与しないのか”、と問われたときに、”ウクライナの国防相とは定期的に連絡を取り合っている”と語り、”米国が戦場において効果のあるものを効果的に提供している”とも語って、ウクライナとアメリカが一体となってロシアと戦っていることを語っているのに、なぜ、アメリカがウクライナ戦争に深く関わっている事実の意味を考慮しないのでしょうか。
 私は、アメリカがウクライナ戦争に深く関わっている事実の意味を考慮しない姿勢が、ノルドストリームのパイプラインがなぜ破壊されたのか、ということをあまり深く追求しないことと結びついているように思います。

 日本国内の主要なメディアは、戦争で日々人が死んでいるのに、朝日新聞と同じように、停戦・和解ではなく、「ウクライナ支援・ロシア非難」の立場で報道していると思います。また、もう少しでロシアが屈服し、戦争が終るかのような無責任な報道が続いているようにも思います。
 戦争の長期化を憂慮し、アメリカの姿勢を批判的に取り上げて、停戦・和解を求める論調がほとんどないように思います。

 さらに、ロシアのウクライナ侵攻の経緯を考慮せず、2月24日侵攻以前に、すでに戦争が始まっていたという側面を無視して、突然ロシアが領土の拡張のために一方的にウクライナ侵略を始めたという論調が、ロシアはいつ北海道に上陸してくるか分からないとか、中国が近々台湾に侵攻するのではないかとか、北朝鮮が韓国や日本を爆撃するのではないかというような不安をかき立て、防衛力の強化に力をいれようとする政府の姿勢を後押しすることにつながっていることも見逃すことができないことだと思います。

 だから私は、アメリカの対外政策や外交政策がとても気になるのです。

 今回も、第二次世界大戦後、朝鮮戦争に至るアメリカの朝鮮に対する対応を踏まえるために、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)の、「第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾」から一部を抜萃したのですが、アメリカの対応に、とても問題があることわかると思います。
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              第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾

               第一節 冷戦の開始と信託統治問題

 (十) 信託統治と後見制
 だが、このモスクワ三相会議における決定第三項の「信託統治」は、いわゆる一般的な信託統治である国連憲章第七十五条の「信託条項」とは意味合いが本来は違っていた。前者はあくまで統一民主朝鮮政府を樹立するため、朝鮮人民の構成する臨時政府を後見する目的からの信託統治であるが、後者は国連の信託により関係国が当該地域の統治を代行するものであった。すなわち、両者は根本的に異なった政治的、外交的条件と目的を持つものであるが、しかし、このモスクワでの三相会議決議が朝鮮社会に伝わった時には、一般的には他国による朝鮮統治という形のものとして理解されることになった。

 (十一) ホッジ中将の反ソ扇動
 だが、このモスクワでの三国外相会議は、かねてから信託統治構想に反対するかのような一連の言動を行っていたホッジ中将の立場を、窮地に追い込んだ。すなわち、南朝鮮のアメリカ軍政庁は占領以来三ヶ月の間、南朝鮮において事実上単独行動、すなわち米ソの協調の不可能を前提に、とくに韓国民主党などの勢力を育成して、南朝鮮だけの反共的分離政策を目指すような方向での施策を実施していた。この親米勢力として再編された保守勢力ならば、ソ連を含む多国間共同信託統治よりも、アメリカ単独の後見を希望することは明らかであった。
 しかし、モスクワ協定は米ソ間の緊密な協力を規定していた。そのため、これが現実に実施されることになると、9月以来アメリカ軍政庁が南朝鮮で実施してきた重要な施策のほとんどが白紙化することになる。

 また、アメリカ軍政庁は、それまでアメリカ国務省の朝鮮への国際信託統治プランは、親ソ主義者である国務省内部の一部人士の個人的見解であるとの、国務省政策を否定する一連の言動を行っていた。だが、12月のモスクワ三相会議の結果は、それまでの一連のソウルのアメリカ軍政庁の言動や政策と大いに乖離するものであった。すなわち、結果として軍政庁は南朝鮮大衆を騙していた形となった。
 そのため、南朝鮮政情におけるアメリカ軍政庁の立場は、左右両派ほとんどの朝鮮大衆の反発をうけるようになった。すべての政党は敵対的となり、保守勢力さえもホッジ中将に反発した。南朝鮮におけるアメリカ軍政の立場は、きわめて困難な状態になり、市民の不満は激しく高まった。
 この南朝鮮政情における反米感情の昂揚と、社会全体の騒擾は、ホッジ中将の立場を非常に困難なものにした。彼は、この1945年末の南朝鮮政情について、有効な対応の方策を失い、逆に、事態の逆転をはかり、信託統治に反対し、朝鮮の即時独立を主張しているのはアメリカだというキャンペーンを開始した。それ以後ホッジ中将は、信託統治に反対する声明をつぎつぎに出した。また、アメリカ軍政庁は、「朝鮮に無理矢理に信託統治を布こうとしているのはソ連だという多くの朝鮮人の誤解を黙認し、むしろ意図的にそれを煽ったのは米軍政庁であった」という、いささか奇怪な態度をとった。これについては、モスクワ外相会議のニュースが最初にソウルに伝えられたとき、朝鮮の即時独立を希望したのはアメリカであり、これに反してソ連が信託統治を主張したとの重大な誤報があり、朝鮮市民大衆のみならず、アメリカ軍政庁のアメリカ軍人のなかにも、この誤報をそのまま受け取っていた者もいたという事情もあったとされた。
 だが、このアメリカ軍政庁の態度と、一連のホッジ中将の行動と信託統治への支持は、右翼による反託運動に強力な刺激を与えた。それはやがて朝鮮信託統治陰謀の元凶はソ連であるとの、反ソキャンペーンと変質していった。

 なかでも、韓国民主党および李承晩らの親米勢力、金九らの帰還した臨時政府に結集した二つの系統の右派民族主義勢力は、これに強く反応した。
 反託運動は、朝鮮全土がソ連の支配下に入るか、朝鮮民族がソ連の支配を拒否して即時独立するかというような本質から歪められた形として進められることになった。こうして南朝鮮は、不十分かつ不正確な情報のままで、激しく暴走をはじめた。朝鮮右派は29日、直ちに反託国民総動員委員会を組織して全朝鮮にわたるデモ、ストなどの一大抗議運動を展開した。
 さらに、李承晩と韓国民主党は、信託統治を実施し、朝鮮民族を奴隷化しようとしているのは、ソ連およびその手先である南朝鮮内の赤色カイライ勢力、およびアメリカ国務省内部に巣くう容共分子であるとして、反託運動を反ソ・反共愛国運動として提示し、煽動的な大衆動員を行った。

 一方、12月29日、韓国民主党の重鎮宋鎮禹は、ホッジ中将と会談したのち、帰還臨時政府派の指導者である金九を訪ねて、彼に軍政庁との衝突を避けることを説得した。だが、その2時間後の30日未明、金九系のテロリスト韓賢宇により拳銃によって射殺された。だが、これは当時共産主義過激分子によるものと宣伝された。

 (十二) 右派の反託運動激化
 こうしてモスクワ三相会議の議定である国際信託統治プランについては、左右両派は、一斉に起って反対の声をあげた。ことに右派は大衆を動員してデモ、ストライキ、閉店運動などを行った。また、アメリカ軍政庁との協力関係の断絶も厭わないと宣言し、軍政庁に雇用されている朝鮮人職員の罷業なども指令した。
 すなわち、12月30日、金九は大韓民国臨時政府国務委員会主席の名において①現在の全国行政庁所属の警察機構および朝鮮人職員をすべて臨時政府指揮下に帰属させる。 ②反託の示威運動は系統的かつ秩序をもって行う ③暴力行為ならびに破壊行為は絶対に禁止する。 ④国民の基本的生活に必要な食糧、燃料、水道、電気、金融、医療機関の確保、 運営に関する妨害行為を禁止する。⑤不良商人の暴利、買い占め等を厳重に取り締まる。などの臨時政府布告第一号を発表して、この反託国民運動の盛り上がりに乗じての政権奪取構想を示している。

 そして大規模な街頭デモおよびストライキがソウルその他の都市で行われた。だが、この一連の金九の演説で、金九が信託統治反対とともに糾弾したのは、ソ連ではなく朝鮮内の反逆者と親日分子(軍政庁雇用の旧総督府朝鮮人職員・警官および韓国民主党関係者など)であり、この12月28日から1月1日にかけて、金九指導下の臨時政府派の指導者は、呂運亨指導下の人民共和国派指導者たちと会見して、反託運動のための連合体を結成しようと試みていた。

 だが、この金九指導下の臨時政府派(かつて中国亡命大韓民国臨時政府系)による、政権掌握を意図したかともみられる大衆動員行動は、アメリカ軍政庁に対する一種のクーデター的行為として、ホッジ中将の激しい反発をかった。2日後の1946年1月1日、ホッジ中将は金九を呼び、一連の軍政庁占領政策に反する行動ならびにアメリカ軍政に対する背信について、厳しく痛罵した。結局、このアメリカ軍政当局の激しい反発にあい。金九の政権奪取構想は頓挫することになった。
 これでホッジ中将の政権育成構想のリストから、まず宋鎮禹が暗殺され、これで金九がはずされ、李承晩の独立促成中央協議会および臨時政府派に入っていない韓国民主党関係者を強化育成していこうと試みるようになったとされた。
 また一方、韓国民主党の宣伝は、依然、信託統治提案をしたのはソ連であり、アメリカは即時独立を主張したとの扇動宣伝をつづけ、対ソ非難、対左派非難をつづけていた。この有産保守階層と軍政庁に継続雇用されている旧総督府朝鮮人職員たちには、旧日本時代に対日協力経歴のあるものがきわめて多かった。米ソ共同管理となればアメリカ軍政の庇護がはずされることになる。そのような場合、南北ともに圧倒的多数を占める左派のため、かつての民族反逆的行為が処断されるのが必至の情勢であった。そのため、彼等にとっての反託運動は、自己の生存にかかわる問題でもあり、また手段であったようであったとみられた。 
 (十三) 左派路線変更と左右分極化
 だが、この1月初旬、南朝鮮左派はこの信託統治問題に関して路線変更、俄然態度を一変させた。すなわち、1946年1月3日、人民共和国派の中央委員会は声明を発して、「モスクワ会談の信託統治決定はそれが独立を促進する意味を持つ限り進歩的である」と突如態度を豹変して、信託統治案を支持する経過に至った。
 この南朝鮮左派の「反託」から「受託」への大幅な路線変更については、当時から一般に北朝鮮の平壌指令によるものと考えられてきた。だが、南朝鮮の共産主義者と、北朝鮮ですでに政治の前面に金日成を新しい中心とする共産主義者グループとは、当時派閥対立的関係にあり、おおむね南朝鮮の共産主義者は朴憲永指導下に北朝鮮とは独自の行動をとっていた。この南北共産主義者間の軋轢はのちに、1953年からの金日成派による南朝鮮労働党系の粛清として、朴憲永派の排除により決着することになるが、当時のアメリカ軍政庁の公式記録でも、その北からの指令を裏づける裏付け状況証拠は無いとされていた。
 ただ、12月28日から1月1日の5日間、ソウルの各新聞は右派の臨時政府派と左派の人民共和国派が「反託の大義のために合作するだろう」と報道をつづけており、1月1日のホッジ中将の金九非難の翌日、この臨時政府派と人民共和国派の左右合作の話し合いは立ち消えとなった。また1月2日、北朝鮮を訪問していた朴憲永が南朝鮮に帰還したともされた。さらに翌日の1月3日、人民共和国の機関誌は、モスクワ協定に対する支持声明を発表する経緯となったとみられた。これに続いて、他の左翼新聞も人民共和国派のこの立場を支持するような展開となった。

 この左派による態度急変が契機となって、それ以後、信託統治運動は、全面的に右翼勢力がイニシアティヴをとることになった。それは、反ソ、反共愛国運動の形で行われることになった。
 それ以後、この問題に対する「反託」か「受託」かが政治的踏み絵となって行った。また、これが親米即時独立か親ソ他国統治かの歪められた扇動、宣伝のために、青年グループなどによるテロリズムが左右の間で頻繁に起こり、これをコントロールすることは事実上不可能になった。また、反託より受託への突然の路線変換により、左翼に対する大衆の支持は一時的に低下した。
 さらに1946年1月15日のサンフランシスコ放送は、ニューヨークタイムズのソウル特派員報道を引用して、「朝鮮共産党責任秘書朴憲永が朝鮮に対するソ連一国の信託統治を絶対に支持し、5年後に朝鮮がソ連に編入されることを希望した」とのセンセーショナルな報道を行った。これは1月5日、共産党の指導者朴憲永が内外の記者団を前に聞いた記者会見での内容を、ニューヨークタイムズのジョンストン記者がなぜか全く反対の内容に誤報したものだが、これは左翼の信用を失墜させようとしていた右翼の絶好の宣伝材料になった。ホッジ中将は、あえてジョンストン記者に訂正記事を書かせることを拒絶した。こうして、後にホッジ自身が「いつの間にか信託統治、ソ連の支配、共産主義はすべて同義語となった」という扇動と流言に揺れる社会情勢となった。
 また他方では、当時の五大政党である国民党、韓国民主党、人民党、共産党、新韓民族党(党首権東鎮、副党首呉世昌12月14日右翼的小党22を統合したもの)の会談が開かれた。
 1月8日、「朝鮮の自由独立を保障し民主主義発展を援助するというモスクワ協定の精神と意図は全面的に支持するが、信託制は将来樹立されるべき朝鮮政府によって解決されるべきである」との共同声明を発表した。だが1月12日、右派主催の反託国民大会が左派と衝突するにおよんで、五党会談は完全に決裂した。左派の人民共和国中央委員会の提案による右派の大韓民国臨時政府派との統一工作 
も挫折した。
 こうして信託統治制問題をめぐって激しく表面化し、動揺した南朝鮮政情も、結局左右両派の対立を決定化させるだけに終った。このモスクワ協定に対する対応と、以後の激動が、解放後全朝鮮の政治的分水嶺となり、その結果、南北朝鮮政情は、不十分な情報あるいは意図的な扇動宣伝に激しく揺れて、衝突とテロ的行為が頻発し、そして左右両派に修復不能なまでに二極化していくことになった。
 この信託統治案に対する北朝鮮とおよび南朝鮮左派と南朝鮮右派の賛否が、このような妥協の余地なくはっきりと対立したことは、統一国家樹立のための国民的合意の可能性を消去するものであり、それ以後の朝鮮独立問題の道程に横たわる大きな暗礁となった。

 

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