真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカによる朝鮮分断支配とウクライナ戦争

2022年10月12日 | 国際・政治

 ロシア本土とクリミア半島を結ぶ橋の爆破によて、ウクライナ戦争が一段とエスカレートし、死傷者が一層増えています。にもかかわらず、ゼレンスキー大統領は、”ウクライナを脅すことはできない。代わりにさらに団結した”と述べ、徹底抗戦の決意を示したといいます。全く報道されませんが、ウクライナの人たちは、そうした主張をどのように受け止めているのか、気になります。
 また、バイデン大統領は、CNNのインタビューで、”ロシアのプーチン大統領が核兵器を使用するとは思わない”と述べたといいます。

 プーチン大統領は、”予備兵や軍事的な専門性を持つ一部のロシア国民を動員する”と発表したとき、”欧米諸国が核の脅威をちらつかせている”と訴え、”ロシア本土とウクライナの親ロシア派地域の安全が脅かされた場合は、ロシアが持つすべての武器の使用も辞さない”と核兵器の使用を示唆しつつ、”これは、はったりではない”と明言しているのに、”ロシアのプーチン大統領が核兵器を使用するとは思わない”というのは、あまりに無責任ではないかと思います。
 立場が逆であれば、アメリカは躊躇することなく、核兵器を使うのではないかとさえ思います。

 また、ゼレンスキー大統領にとっては、クリミアの奪還は、ウクライナの人びとの命よりも大事なのか、と疑問に思います。
 クリミアの人たちは、今回のルハンシク州、ドネツク州、ヘルソン州、ザポリージャ州の4州と同じように「住民投票」でロシア編入を決めたのであって、ロシアが力づくで無理矢理併合したというのは、ちょっと違うのではないかと思います。また、どの程度の人が、クリミアのウクライナ復帰を望んでいるのかということも考える必要がある思います。ウクライナが、4州の「住民投票」やクリミアの「住民投票」の結果を認めないということであれば、戦争で奪還するのではなく、きちんと法的に争う必要があるのではないでしょうか。逆に諸事情あって、ロシアから離脱することを住民投票できめた地域が出た場合、それも認めないということでいいのでしょうか。私は、一定の条件が満たされれば、プーチン大統領がいうように「住民の自決権」は尊重されるべきだろうと思います。

 クリミア奪還を主張するゼレンスキー大統領は、”クリミアで侵略者がいない晴れやかな未来を目指している”と述べ、、ウクライナ大統領府は、”これが始まりだ、違法なものは全て破壊されなければならない”と主張したとのことですが、ロシアが核兵器を使うことも覚悟の上の主張でしょうか。親露派の人が多いクリミアで、”晴れやかな未来” が可能でしょうか。 

 もしかしたら、バイデン大統領も、ロシアが核兵器を使用したら、ロシアをさらに孤立化させ、弱体化させることができるので、ロシアの核兵器使用を恐れず、ウクライナに徹底抗戦を働きかけているのではないか、と疑います。

 そう考えるのは、アメリカが、第二次世界大戦後、さまざまな平和のための国際法や国際組織を無視して、他国と戦争したり、他国の紛争に武力介入したりしてきた多くの事実があるからです。アメリカは、戦争中や武力介入をしている時は、巧みな情報操作やプロパガンダによって、真実を隠しますが、時が経つと歴史家や研究者が、さまざまな証言や資料を集め、真実を明らかにします。それらを手に取ると、アメリカの野蛮性が、よくわかります。

 ウクライナ戦争に関しては、日本政府のみならず、日本の主要メディアが、アメリカの情報操作やプロパガンダを少しも疑うことなく報道し続けていると思います。
 なぜなら、プーチン大統領が、”ウクライナでの軍事作戦を開始する”と述べ、軍を進めた2月24日以後のことしか語られていないからです。ウクライナ戦争の話を、「ロシアのウクライナ侵攻」から始めることが、戦争の原因を隠蔽し、ロシアだけを悪者にする報道にしてしまっていると思います。
 2014年、のオレンジ革命といわれる政変がどのようなものであったのか、ということや、その政変にアメリカがどのように関わっていたのかということ、さらに、オレンジ革命以降、アメリカやNATO諸国が、ウクライナに対してどのようなことをしてきたのかということなどを、主要メディアは、ほとんど報道しません。
 また、ウクライナ戦争によって、悲惨な状態に置かれているウクライナの人たちを取り上げた記事やテレビ報道はしばしば目にしたり耳にしたりします。でも、それが停戦・和解の方向ではなく、ロシアを悪とし、アメリカのオースティン米国防長官が主張したロシアの「弱体化」を目的とする方向で取り上げられているように思います。

 さらに見逃せないのは、2014年、のオレンジ革命以降、ウクライナ南東部のドンバス地方で親露派の人たちが、どういう攻撃を受け、どのような対立・紛争が続いていたのかという報道がほとんどないことです。1万人以上の人たちが亡くなったと言われているのにです。

 原発の廃止を決め、ロシアとノルドストリームの計画を進めていたドイツのメルケル首相の携帯電話が、アメリカ国家安全保障局( National Security Agency:NSA)によって盗聴されていたというような事実とウクライナ戦争の関わりなども、きちんと調べて報道しないと、アメリカが主導するウクライナ戦争の醜い実態は、ほとんどわからないと思います。 

 下記に抜萃したアメリカの朝鮮分断支配の実態を踏まえれば、同じようなことがウクライナでくり返されていることがよくわかると思います。

 アメリカに亡命していて李承晩は、「国内的足場」ほとんど持っていなかったのに、大統領となりました。そして、権力個人集中的体制を構築するために、強引に「大統領責任制」を決定しました。議会と立法府の権限を極めて小さなものに限定し、独裁的な政治ができるようにしたのです。現に、国の存立を左右する重大な問題で、国会の多数意見を無視しました。
 そして、それを支えたのがアメリカです。下記に抜萃した文章に
もともと新生韓国政府は、左派と民族主義右派のボイコットにも拘らず、アメリカの対ソ政策の為に、米軍政庁が警察、軍予備隊的組織による左派狩りを大々的に行いながら、5・10単独選挙を強行した結果生まれた。そして李承晩を中心とする一部右翼勢力による政権樹立が為された。
 とあります。力づくであったことが分かります。

 さらに、済州島では、反政府勢力に対する徹底的な地域封鎖、壊滅作戦が実施され、”死者は15,000ないし20,000だが、一般に33,000とされている”というような悲劇が起こっています(済州島四・三事件)。
 韓国軍第十四連隊や第四連隊も、反政府勢力の側について反乱を起こしたということですから、新政府の弾圧がいかに朝鮮の人たちの思いを無視した野蛮ものであったかが分かると思います。それがアメリカの占領政策によるものであったことを見逃すことはできません。民主主義や自由主義を掲げる国のやることではないのです。

 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から「第四章 南北政権の樹立と一般情勢」の一部を抜萃しました。(縦書きを横書きに変えているため、数字の一部は変更しています。)

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               第四章 南北政権の樹立と一般情勢

               第二節 韓国の四十八年の内政状況

 (一) 大統領権力と議会権力
 1948年5月10日に行われた選挙の結果として構成された韓国の国会では、どちらも同様に右翼の政党であったが、李承晩大統領の与党ともいえる韓国独立促成国民会派の議員に対して、野党の立場にある韓国民主党が第一党となっていた。
 一般的には南朝鮮右翼政党は、それぞれの利害から離合集散と分裂反発を相互に繰り返し、必ずしも統一的な連帯が形成されていた訳ではなかったのだが、それまでの李承晩大統領と韓国民主党との関係には、ある程度の共同戦線的な関係が維持されていたとされた。
 すなわち、国内的足場をまったく持っていなかったアメリカ亡命帰りの李承晩と、旧時代の既得権益層有産階級を支持母体とするが、解放後社会における民族主義運動に対する正統性と指導者を欠いていた韓国民主党系人士たちとは、相互の協力を必要とする状況と条件があった。これは、アメリカ軍政庁時代を通して、ともに親米反共と保守の立場の一致からおおむね維持された関係であった。しかし、この関係は、とくに1948年8月15日の大韓民国政府樹立前後の時期に、その矛盾と内部対立が露呈されることになる。
 
 すなわち、李承晩大統領は1948年8月15日、公式に韓国の権力を握ることになったが、その際に彼は大統領中心によるいわば権力個人集中的体制を構築しようとした。これは、新政府における権力基盤を確保しようとしていた韓国民主党の利害に反することであった。
 その両者の立場は、すでに韓国民主党で占められていた憲法起草委員会が、その基本構想として大統領を象徴として祭り上げる責任内閣制の憲法を起草したのに対して、李承晩議長が猛烈に反対して、一夜のうちに大統領責任制に改められた時期から先鋭化し出していた。そのわずかな期間で検討され可決された憲法の条文には、民主主義の原則と自由が明記されてはいたが、要するに新憲法は強力な大統領制を規定していた。それは、議会と立法府の権限が極めて小さく、また首相である国務総理の立場も大統領の補佐官程度の権力しか持ち得ないものであった。

 この大統領責任制の憲法草案は、7月12日の国会承認を経て17日、公布されたが、この大統領個人への権力集中に反対して、以後も韓国民主党はひきつづき内閣責任制への改憲をつねに主張し続ける政権となっていた。また、新政府樹立にさいしての閣僚などの配分において、以後韓国政界の主導権をとろうとしていた韓国民主党勢力の意図に反して、李承晩大統領は国務総理に北朝鮮から越南してきた朝鮮民主党(北朝鮮からの越南者政党)の李允栄を指名した。すなわち、南朝鮮右翼政党各派は、新しく成立した大韓民国政界の与党的立場となり、その権力を目前とする段階に至って、各派の思惑と利害が大きく相違する経緯となった。
 そのため、韓国民主党が第一党である国会はまず、李大統領が48年7月24日に就任宣誓式を行い、初代国務総理に指名した李允栄を指名したが、この李允栄の承認を再度にわたって拒否し、政府に対する強硬な態度をしめした。このような、新政府における憲法起草における内閣責任制かあるいは大統領責任制か、また新政府におけるポスト配分の不満が契機となり、韓国民主党は李承晩大統領人事への反対、頭首金性綬洙の入閣拒否の方針をとり、大統領への権力集中を排除し、韓国民主党が第一党である国会が力を持ち得る責任内閣制への改憲案を執拗に推進することになったのである。

 (二) 大統領中心制と多数派野党
 
すなわち、李大統領は大韓民国樹立当初から、国会に安定多数の勢力をもっていないうらみがあったのである。しかも、韓国の憲法は大統領中心主義をとり、政府は大統領にたいして責任を負う。つまり、政府が議会に対して責任を負う責任内閣制ではなかった。また、行政府、司法府、立法府の三権の構成においても、司法府の独立性は判事の任命権が行政府の権限とされるように、当初から希薄であった。また、首相である国務総理の任命と、最高裁判所である大法院判事の任命だけが立法府の承認を必要とし、国務総理その他の閣僚の罷免は大統領の意志一つで決定されるような制度であった。
 これに対して、韓国国会としては、国務会議(内閣)の計画を可決しない権限を持つだけであったのである。また、国会は大統領の拒否権を越えて法案を可決する権限が規定上はあったのだが、韓国の大統領は「法律と同様の効力を持つ命令を出す」非常大権を与えられていた。すなわち、韓国国会は表面的には立法府としての権限を持つ形式とはなっていたが、行政府を抑制することではほとんど効果がなかったとされた。
 
 このように憲法の規定する大統領中心制による韓国行政府、司法、立法府三者の関係には制度的にも不備があり、またそれを補う関係者の政治的熟練と協調がみられなかったために、以後、李承晩大統領と韓国国会の間には、つねに対立的な情況が展開されることがまま見られるようになった。すなわち、少数与党である政府と、野党が多数派を占める国会との対立が生じると、それがそのまま未解決で持ち越される傾向があった。これは、新政府樹立後の韓国政情の混乱の構造的な原因の一つともなったとされた。

 たとえば、ついで同年8月23日、親日派粛清のため国会内に設けられた反民族行為特別調査委員会は、新政府内の交通部長官閔熙植、法制処長兪鎮午、商工部次官任文桓の3名が対日協力者に該当すると発表して、その退陣を要求した。そのため、政情の安定を希望する李大統領と対立した。
 また、翌9月11日、調印されたアメリカ政府と韓国政府との間の財政および財産に関する最初の取り決めの承認を政府から要請された国会では、その審議の際、韓国の自主性を唱える一部議員の反対を生じた。同18日に行われた表決は賛成78反対28という極めて不調な結果となり、しかも反対派議員26名は退場して表決に加わらなかった。さらに10月13日の国会においては、現在開催中の第3回国連総会が、47年11月14日の第2回総会決議に従って、占領軍の撤退条項を急速、正常に実行するよう要望するとの緊急動議が提出された。そして、これを直ちに表決するべきか否かの論議で議場が混乱した。提案者に対してこれを共産党の謀略と叫ぶ議員もあり、結局審議を一時保留するということで落着した。

 (三) 済州島の騒乱
 1948年8月15日に樹立された新大韓民国政府の内部も議会との対立が表面化しだし、その当初から波瀾含みであったが、南朝鮮社会、新しく韓国社会となった朝鮮半島南部地域においても、社会情勢は激しく動揺し、左右両派の対立関係は一層拡大していた。
 もともと新生韓国政府は、左派と民族主義右派のボイコットにも拘らず、アメリカの対ソ政策の為に、米軍政庁が警察、軍予備隊的組織による左派狩りを大々的に行いながら、5・10単独選挙を強行した結果生まれた。そして李承晩を中心とする一部右翼勢力による政権樹立が為された。
 この単独政府の樹立は、いかなる形であれ左翼や革命分子とくにソ連の影響を恐れる保守派の指導者あるいは富裕層、旧日帝時代旧悪の追求を恐れる階層の利益にはかなったが、しかし、市民の大半は、即時統一を強く欲していた。だが、南北朝鮮一般市民の拘らないところで決定された、南北分断する敵対両政府の現実化、朝鮮の恒久的分断への不穏な状況を前にして 南北協商派のみならず、一般市民を巻き込む広範な、そして、激しい抵抗が繰り広げられた。
 それまでも南朝鮮(新韓国)の農村地帯の民衆は、解放後の数ヶ月は、それぞれ人民委員会を中心とする行政機構を組織し、それが米軍政庁の警察、軍予備隊組織、右翼青年団のために、だが、潰されては組織するという事が続けられていた。この種の地方の自治組織に対して、アメリカ占領軍は、共産主義的・親ソ的だとして敵対的だった。右派勢力も、勿論、それを壊滅させようとした。
 アメリカ軍の南朝鮮占領当初から1年間にわたる地方での弾圧の末に、ついに1946年秋には、南朝鮮地帯の相当広範な地域で、大規模な蜂起が起こっていた。その目的は、米軍政庁のホッジ中将が認めている通り、蜂起市民の主たる要求は人民委員会の復活であった。この米の収穫期の大決起が鎮圧されると、ソウルだけでなく、郡などの地方レベルでの国家権力の支配が強固になり、それまでの人民委員会の自治は、その後ほとんど不可能になった。だが、厳しい弾圧により、多数の死者、逮捕収監者が出たにも拘らず、以後も、この人民委員会支持勢力は強い勢力を秘かに保ち、また1947年には南朝鮮の左翼の大半は南朝鮮労働党の党員となっていた。この党は、南朝鮮独自の党だったが、慶尚道、全羅道出身者が多かった。その47年夏、そして秋と、激しい抵抗と、それへの逮捕、拷問、収監あるいは警察・軍予備隊による組織的弾圧・虐殺事件が続き、左派も山岳地帯でのゲリラ戦を行い、その鎮圧掃討に軍・警察・右翼青年団組織が動員され、双方が銃火を交え、互いにテロと破壊を行う、左派と右派の衝突が果てしなく繰り返された。
 そして、1948年の初めになって、南での単独選挙の実施が決まると、左派が根強い南西部(全羅道)および済州島において、単独選挙に反対する抵抗が、一気に激化した。
 とくに激しい抵抗と弾圧の結果、その政治対立による被害をこうむったのが、済州島であった。1948年初めまでこの島を自治支配していたのは、45年8月に結成された人民委員会だった。南朝鮮各道では既に政治的弾圧によって人民委員会組織は表だっては消滅し、そのメンバーも逮捕拘束されるか地下に潜行していたが、済州島は半島の南岸の沖に浮かぶ火山島であるため、まだソウルの米軍政庁、軍政警察、軍予備隊の圧力は緩かった。そのため、済州島の人民委員会への民衆の支持も固く、その影響力は強かった。ホッジ中将も済州島を「コミンテルンの影響を受けない人民委員会が秩序正しく真の意味の自治体」と呼んだこともあったが、単独選挙反対の気運による政治的緊張が強い48年4月、島に派遣されていた警察と西北青年団(北朝鮮追放あるいは脱出者の反共右翼青年団)の島民虐殺事件を契機として、民衆蜂起が勃発した。
 それは武装闘争になり、やがてゲリラ戦争に発展した。ゲリラは「人民軍」と呼ばれ、兵力は3000~4000だったが、統一的な中央司令部は無く、それぞれの地域のゲリラ部隊同士のつながりも無い発生的なものだった。彼等は山にこもり、沿岸道路や村々を襲撃し、48年6月初めには、島の内陸部の村のほとんどはゲリラに支配されるようになった。
 これに対して、ソウルの政治組織は、その大半が日帝下の朝鮮人警察官や補助警察官だった警察部隊と、北から亡命してきた人間で組織されたテロリスト的な反共青年団を大量に送り込んだ。このアメリカ軍事顧問と共に派遣された警察、警察隊(軍予備隊)、武装右翼青年団は、島に恐怖政治を展開した。そのゲリラ掃討、徹底的な地域封鎖、壊滅作戦も厳しく、1949年4月までに島の家屋の2万戸が破壊され、焼き払われ、全島民の三分の一にあたる10万人が、政府軍の守る海岸沿いの村々に収容された。この4月末のアメリカ大使館の報告では「全面的なゲリラ掃討作戦は、……4月に事実上完了した。島の秩序は回復した。ゲリラと同調者の殆どは殺されるか、捕虜になるか、転向した」と述べる。このアメリカ筋の資料では、死者は15,000ないし20,000だが、一般に33,000とされている。その正確な数字は今日でも不明であり、あるいは島民の30万人の三分の一が失われたともされている。

 (四) 麗水・順天の軍隊反乱事件
 そして、新韓国政府が誕生して10週間もたたない1948年10月19日夜、大きな社会的騒乱が発生した。すなわち、済州島の民衆暴動の討伐のために全羅南道の半島南端の麗水港に集結していた韓国軍第十四連隊が反乱を起こした。その勢力は2500名とされ、同地方所在の反政府分子と合流して警察を襲い麗水から北上して10月20日、順天を占領し、さらに光州方面に向かうという韓国正規軍の組織的反乱となった。麗水市民の多数が赤旗をふり、スローガンを叫んで市中を行進。10月20日の大衆集会で人民委員会の復活が宣言された。また、この反乱は警察に対する民衆の反感にあおられて拡大し、反乱部隊は麗水、順天において刑務所を開いて政治犯を釈放し、北朝鮮の旗をかかげ、人民裁判を行って警察官、旧親日民族分子、右翼政党団体の指導者などを数百人を処刑した。また、この鎮圧に向かった韓国軍第四連隊が、この反乱部隊に同調し合流して、一層、事態は悪化する経過ともなった。

 この反乱部隊が討伐に赴く予定であった済州島の騒擾は、すでに同年48年4月初旬、南朝鮮の単独選挙に対する反対運動として大衆が蜂起して以来のものだった。同島ではかねて警察の権力乱用、西北青年団などの右翼青年団の越軌行為が極めて甚だしかったため、一般島民のこれに対する反感が強く、反政府感情を広く醸成させていた。その為蜂起組織は、相当に島民の同情と支持を得ていたといわれた。韓国軍、警察はその鎮圧に努力した結果、済州島の治安は一時回復していた。だが、同48年秋の10月に至って再び騒擾が激化したため、政府軍の増援部隊が送られることになった。だが、その増援部隊内の左派分子は、麗水港で乗船を前にして、討伐の無意義を宣伝し、反乱を起こすよう扇動したのだった。
 政府は直ちに戒厳令をしいた。さらに、軍、警察隊を派遣して反乱軍の北進を防ぎ、鎮圧に努めた。その結果、38度線に向かった反乱部隊の主力は慶尚南道の智異山方面に逃げ込み、順天、北城、筏橋、光陽、麗水などの反乱部隊占領地区はやがて回復され、鎮静した。しかし、麗水などにおいては、一般市民、婦人、子供までが武器をとり、政府の討伐軍に抵抗したといわれる。また、それを鎮圧する警察、韓国軍の一般民衆に対する行動には、相当に常軌を逸した行為が多発し、相当数の市民が死亡。警察・政府軍兵士は反乱に協力した疑いが少しでもある者は、捕虜、民間人を問わずすべて射殺した。そのため、軍隊と一般民衆の間に、かなりの不安と恐怖のタネがまかれたとされた。
 この反乱事件は1週間後の10月27日までには鎮圧されたが、この武装蜂起事件が契機となって、済州島の暴動が再燃したのをはじめ、共産ゲリラの主根拠地である智異山を中心として、各地において民衆の暴動が発生するようになった。また、江原道の五台山地区においては、またゲリラ部隊が活動をはじめた。済州島の蜂起民衆は、依然討伐隊と対峙状態をつづけたが、その他の地区の暴動はもっぱら警察を襲撃し、部落の徴発を行う程度のものだった。
 これらの民衆、部隊反乱は、北側の策動によるものというより、過去3年間の抑圧への反抗、社会正義の実現、旧親日分子の追放、単独政府反対等を求める自然発生的な暴動だった。


  

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