真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ナチスのユダヤ人虐殺とユダヤ人のパレスチナ人虐殺

2023年11月04日 | 国際・政治

 10月7日、パレスチナ暫定自治区ガザのハマスが、イスラエルへの攻撃を開始しました。それを受けてアメリカは、すぐにハマスの攻撃をテロとして非難するとともに、イスラエルに対する軍事支援を発表しました。
 どこかでこうした軍事衝突が起きると、アメリカはいつも今回と同じように、仲間の国や組織を支援し、敵と見なす国や組織を潰そうとする方針をとってきました。法や道義・道徳をもとにして、仲裁することはしてこなかったと思います。
 バイデン大統領は「テロを正当化するいかなる理由もなく、すべての国がこのような残虐な行為に対し、団結しなければならない」と述べて、ハマスを非難し、団結を呼びかけました。でもその前に、イスラエルの不法行為や不法行為に抵抗するパレスチナ人に対する殺人行為を止めるべきであったと思います。確かに、残虐行為は許されませんが、ハマスが、双方に甚大な被害が出ることがわかっているのに、なぜ攻撃を決断したのか、その理由や経緯は無視されてはならないと思います。

 下記は、「イスラエルとパレスチナ 和平への接点をさぐる」立山良司(中公新書941)から抜粋しました。”和平への接点をさぐる”ために、考えなければならないことがわかると思います。
 特に、ダリア・ランダウというユダヤ人女性が、バシール・ヘイリというパレスチナ人男性に宛てた公開書簡は、一般のイスラエル人やパレスチナ人のレベルでは、停戦・和解が可能であることを示しており、示唆に富むものであると思います。

 考えるべきは、 
あなたの家は”所有権が放棄された財産”とみなされたのです。
 とか
ほとんどのイスラエル人は、パレスチナ人が爆弾を仕掛けたり、あるいは石を投げることでさえ、単に占領に反対する抵抗運動とはみなさず、むしろパレスチナの地にユダヤ人国家が存在することを拒否しようとするあなた方の深い意思と見ています。
 というイスラエル側の主張やとらえ方だと思います。私は、改められる必要があると思います。
 そうしないと、ヨーロッパ・キリスト教社会において、ユダヤ人が迫害され続けてきた歴史をくり返すことになるのではないかと思うのです。

 現在、世界中で、イスラエルの無差別な空爆を非難する声が徐々に広まっているように思います。   
 旧約聖書に、イスラエルは神がユダヤ人に与えた「約束の地」であるというようなことが記されているからといって、パレスチナ人が幾世代も住み続けてきたパレスチナの地を、パレスチナ人の了解なく、残虐な方法でイスラエルの地にしようとすることは、許されないからだと思います。

 イスラエル軍が、ガザの病院や難民キャンプを連日空爆し、がれきの下から次々に遺体が見つかっているといいます。また、死傷者の多くが女性や子どもである、と現地の報道機関が伝えています。
 今日も、ヤフーニュースが、ロイター発として、”イスラム組織ハマスが実効支配するパレスチナ自治区ガザの保健省は3日、ガザ市内の病院から出発する救急車の車列がイスラエル軍の攻撃を受けたと発表した。”とのニュースを伝えており、そのニュースに関連して、三牧聖子・同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科准教授が、
「ハマスが使用」といえば、どんな施設へのどんな攻撃も正当化されると考えているのだろうか。ハマス側が「市民を盾にしている」ことは「ハマスを打倒するために市民もろとも攻撃していい」ということでは決してないが、イスラエル当局の頭の中では区別されていないようだ。
 と述べたことも伝えています。また、
さらに、米NYT紙によれば、イスラエル政府関係者は米政府関係者と非公式の会話の中で、米国の広島・長崎への原爆投下に言及し、ハマス掃討のためであれば、市民に大規模な被害をもたらす攻撃も許容されると述べたという。これ以外にも、イスラエルの政治家や軍関係者からは、ガザ市民すべてを潜在的なハマス・ハマス支持者とみなし、丸ごと攻撃対象とみなすような発言が次々と飛び出している。軍事的な合理性のためなら、人道をいくら踏み躙ってもよいという考えは、2度の世界大戦を経て、戦争の悲惨さを緩和させるために人類が発展させてきた国際法や文明の流れに、完全に逆らうものだ。”    
 とありました。
 先日取り上げた、イスラエルの立法府、クネセトの元議員である、モシェ・フェイグリン氏がアルジャリーラのインタビューで語ったという
Moshe Feiglin, Israeli politician and former Knesset member, said in an interview with Aljazeera that the only solution is the “complete destruction of Gaza, before invading it… Destruction like Dresden and Hiroshima, without a nuclear weapon.”
 も、同じような主張だと思います。
 イスラエルは、パレスチナ人を恐怖に陥れ、難民として逃亡させる方針で、残虐行為をくり返しているように思います。
 だから私は、モシェ・フェイグリン氏ネタニヤフ首相などが所属するイスラエルの政党リクードは、テロ組織のような気がします。
 現在くり返されているイスラエルの空爆は、ナチス・ドイツのホロコーストにも似た戦争犯罪であり、ふたたびユダヤ人に対する憎しみを拡大させ、差別や迫害を招くおそれさえある行為だ、と私は思うのです。

 上川外相がそんなイスラエルを訪れ、コーヘン外相と会談したとの報道がありました。でも、一番大事な空爆を直ちにやめるようにという話はしなかったようで、”ハマスの攻撃はテロ”とし、”イスラエル国民との連帯”の意を伝えたと報道されました。ハマスの攻撃はテロであると非難するのに、イスラエル軍の病院や難民キャンプの空爆について何の非難もしないのは、どういうことかと思いました。
 ”会談の詳しい内容は明らかになっていませんが、両外相はイスラエルには国際法に基づき、自国や自国民を守る権利があるという認識を共有したものとみられます。”と報道されています。イスラエルにはあっても、ハマスには、自国や自国民を守る権利はない、ということを宣言しているように思えます。
 下記は、「イスラエルとパレスチナ 和平への接点をさぐる」立山良司(中公新書941)からプロローグのなかの「一通の手紙」と「せめぎ合う主張」を抜萃しました。
 政治家や軍人と違って、一般市民は、平和を望み、仲よくしたいのだということがわかるように思います。
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                           プロローグ
               
                                                     一通の手紙
 親愛なるバシールへ
 思いもしなかったような不思議なきっかけで、私たちが知り合いになってから、もう20年になります。今、私はあなたが追放されたそうだと聞きました。これがあなたへの私の最後の連絡になるかもしれません。だから私はこの手紙を公開書簡とすることにしました。最初に私たちの出会いから思い起こしてみましょう。
 六日戦争(1967年6月の第三次中東戦争)直後、あなたは他の2人の人と一緒にラムレのあなたの生家を見にやって来ましたね。これが私にとって初めてのパレスチナ人との出会いでした。あなたの家族がこの家から退去させられた直後の1948年以来、私と私の家族はずっとこの家に住んでいたのです。1948年当時、あなたは6歳、私は1歳でした。私たち一家は他の5万人のブルガリア系ユダヤ人と一緒に、誕生したばかりの国イスラエルに移民して来ました。あなたの家は”所有権が放棄された財産”とみなされたのです。
 あなたが最初に私たちを訪ねてきたあと、私はラマッラーのあなたの家に遊びに行きました。ラマッラーでは大歓迎を受け、私たちは何時間も話し、すっかり友達になりました。しかし、私たちの政治的な見方は完全に違っていました。私達はそれぞれが属する民族の苦しみが作り出したレンズをとうしてお互いを見ていたのです。
 でも、私の見方に幾分かの変化が生まれ始めました。忘れもしません。ある日、あなたのお父さんがあなたの兄弟といっしょに、私のラムレの家に訪ねて来られました。あの時、お父さんは既に歳をとっていらして、目が不自由でした。お父さんは家のごつごつした石にさわってました。それから「裏庭にはまだレモンの木がありますか」と聞かれました。私達はお父さんをたわわに実をつけたレモンの木の所へお連れしました。その木は何十年も前に、あなたのお父さんが植えられた木だったのです。お父さんは木をなでながら黙って立っていらっしゃいました。頬には涙が流れ落ちていました。
 何年もたって、あなたのお父さんが亡くなったあと、私はあなたのお母さんからこんな話を聞きました。お父さんは何か心配事があって眠れない夜はいつでも、もうすっかりしぼんでしまったレモンの実を手に握りしめて、アパートの中をゆっくり歩き回っていらしたと。そのレモンの実こそ、あなたのお父さんが私達の家に来られた時、私の父が差し上げたものだったのです。
 あなたに会って以来、この家は私達だけのものではない、という気持ちが私の心の中に芽生えてきました。こんなにも沢山の実を結び、私たちを喜ばせてくれたレモンの木は、他の人の心の中にも生き続けていたのです。
 バシール、あなたはハバシュ(パレスチナ解放人民戦線議長ジョージ・ハバシュのこと)を支持し、この地における私達の民族の自決権を否定しています。ほとんどのイスラエル人は、パレスチナ人が爆弾を仕掛けたり、あるいは石を投げることでさえ、単に占領に反対する抵抗運動とはみなさず、むしろパレスチナの地にユダヤ人国家が存在することを拒否しようとするあなた方の深い意思と見ています。
 私はパレスチナ人とイスラエル人の双方に、力の行使は基本的なレベルでは紛争を何も解決しないのだということを訴えたいのです。この紛争はどちらの側も勝つことのない戦争であり。どちらかの民族が民族解放を達成し、他方が民族解放を達成できない、という戦争ではありません。
 アッラー・マアク── 神があなたとともにありますように。

                                               せめぎ合う主張

 この手紙は、1988年1月、イスラエルの英字紙『エルサレムポスト』に掲載された、ダリア・ランダウというユダヤ人女性からバシール・ヘイリというパレスチナ人男性に宛てた公開書簡の一部である。
 手紙にあるように、ユダヤ人女性ダリア・ランダウは1948年、彼女が1歳のとき、ブルガリアから新生国家イスラエルに移住し、ラムレの家に住み始めた。その家こそ、1948年まで、この手紙の相手のパレスチナ人バシール・ヘイリとその家族が住んでいた家だった。ラムレは、テルアビブとエルサレムの中ほどに位置し、もともとはパレスチナ人の町だった。1948年のイスラエル建国以来、イスラエル領内に組み込まれ、ユダヤ人の町となった。
 バシール・ヘイリとその一家は、イスラエル建国をめぐる第一次中東戦争の最中、ラムレの家を追われ難民となり、ヨルダン川西岸の町ラマッラーへ移り住んだ。1967年の第三次中東戦争でヨルダン川西岸がイスラエルの占領下に入ると、占領地住民はほぼ自由にイスラエル国内へいけるようになった。バシール・ヘイリも第三次中東戦争直後、今はダリア・ランダウが住む彼の生家を訪ねたのである。「思いもしなかったような不思議なきっかけ」で、二人は友人となった。しかし、手紙にあるように、バシール・ヘイリはイスラエルに対し「テロ活動」を行ったという理由で1988年1月、イスラエル占領地から南レバノンへ追放された。
 バシール・ヘイリへ宛てたダリア・ランダウの手紙は、我々に多くのことを考えさせる。
 ユダヤ人は過去2000年にわたりディアスポラ(離散状態)の中で生き続けてきた。ディアスポラのユダヤ人を支えたのはユダヤ教であり、パレスチナの地への思慕の念だった。ユダヤ人はパレスチナを「イスラエルの地」と呼ぶ。旧約聖書によれば、神がユダヤ人に与えた「約束の地」であった。ユダヤ人はヨーロッパ・キリスト教社会の中にあって際限のない迫害に苦しんだ。ユダヤ人に対する迫害が頂点に達したのが、ナチによるホロコーストだった。ナチはユダヤ人問題の「最終的解決」として、ユダヤ民族の物理的抹殺をはかったのである。

 迫害の歴史を生きてきたユダヤ人は近代いたり、他の民族と同じように民族主義の思想を学んだ。19世紀後半に開花したユダヤ民族主義は「イスラエルの地」にユダヤ人の国を再建しようとするシオニズム運動となり、1948年、イスラエル建国となって結実した。ナチによるホロコーストの灰儘の中から新たな民族の出発を願ったユダヤ人にとって、イスラエル建国は心底からの喜びだったに違いない。ブルガリアから移住してきたダリア・ランダウ一家もそんなユダヤ人だったのだろう。彼らにとってイスラエルは庇護と、政治的・社会的・経済的自由と権利を与えてくれる唯一のユダヤ人の国だった。

 以来40年、イスラエルはユダヤ人の国として発展してきた。米国などからの援助にかなり依存しているものの、経済的にも飛躍的な発展を遂げた。国内を見るかぎり、政治的な自由は保障され、社会保障も他に類を見ないほど充実している。
 だが、しかし、これまで述べてきたことは、歴史の一方の側面にしかすぎない。シオニズム運動がユダヤ国家建設を目指した「イスラエルの地」(パレスチナの地)は、決して無人の荒野ではなかった。過去何十世代にもわたりパレス人が連綿として生き続けてきた場所であり、彼らにとって唯一の故郷だった。シオニズム運動が活発化した頃と相前後して、パレスチナ人はアラブ民族主義運動を担い、アラブ民族の政治的独立を目指す運動を開始した。しかし、彼らの民族主義運動はシオニズム運動のゆえに特異な形態をとった。単にパレスチナの独立を目指すだけでなく、パレスチナの地の所有権の正当性をシオニズム運動と争わなければならなかったからである。

 イスラエル建国はパレスチナ人にとって大きな敗北だった。パレスチナ人は本来自分達がすべてを占めるべきだと考えていたパレスチナの地の半分以上を失った。何十万というパレスチナ人が故郷の町や村を追われ、難民となった。バシール・ヘイリ一家も1948年、ラムレから追わ難民となった。その生家には、全く面識のないユダヤ人一家が移り住んだのである。故郷を奪われたパレスチナ人の立場からすれば、イスラエル建国によってパレスチナ人はパレスチナの地に対する自分たちの正当な権利を奪われたのである。パレスチナ人の多くはパレスチナの地におけるユダヤ人国家の存在を否定した。
 ユダヤ人とパレスチナ人の主張はいずれも、パレスチナの地(イスラエルの地)への歴史的、民族的、さらには宗教的結び付きに基づいている。ユダヤ人は旧約聖書に原則的な根拠を求め、ホロコーストを頂点とする迫害体験を自らの主張の基本的な契機としている。一方、パレスチナ人は過去何十世代にもわたりパレスチナの地に生き続けてきた歴史的事実に、自らの主張の正当性を求めてきた。さらにパレスチナ人から見れば、ホロコーストに代表されるユダヤ人への迫害はヨーロッパ・キリスト教社会における出来事であり、ユダヤ人に同情はしてもパレスチナの将来とは無関係であった。

 パレスチナ人の否定にもかかわらず、イスラエルの存在は確固としたものとなってきた。1967年以降は、東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区を占領下に置いた。軍事的にもイスラエルは圧倒的に強い立場にある。それでもなおイスラエルは強い苛立ちを抱いている。ダリア・ランダウが述べているように、40年にたった今でもなお、自分たちの国がパレスチナ人によって認められていないという苛立ちである。この苛立ちは増幅されたセキュリティの意識と結びついて、パレスチナ人やアラブ全体に対する根強い不信感や恐怖心となっている。

 他方。パレスチナ人にとって、イスラエルは少年ダビデの前に立ちはだかる巨人ゴリアテ以上の存在である。イスラエルは近代的な装備を持ち、圧倒的な力によってパレスチナ人を抑圧し、その存在すら否定しようとしている。だからゴリアテに対抗しなければならない。対抗しない限り、いつか故郷のパレスチナの地へ帰り、パレスチナ人の独立国を建設しようとする自分たちの民族の目標、「パレスチナの大義」は永久に達成されない、とパレスチナ人は確信している。
 パレスチナをめぐる双方の主張はせめぎ合ったまま、平行線をたどり続けてきた。
ーーー
 ・・・
 1987年12月、イスラエルの占領下にある西岸とガザでは、アラビア語で「インティファーダ」と呼ばれるパレスチナ住民による大衆蜂起が始まった。西岸・ガザの町や村、難民キャンプでは毎日のようにパレスチナ住民とイスラエル軍とが衝突し、死傷者が出ている。20年以上にわたりイスラエルの占領下に置かれ、政治的、社会的な権利を奪われてきたパレスチナ住民の意識がついに臨界点に達し、ほとんど無防備のまま、重装備したイスラエル軍に立ち向かい始めたのがインティファーダである。 

コメント (2)
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