イスラエル軍による常軌を逸した無差別なガザ爆撃や、病院、難民キャンプ、学校等に対する攻撃の思想的背景は、アシュケナジームを中心とするユダヤ人の「大イスラエル主義」にあると思います。
「大イスラエル主義」に基づくイスラエル軍の戦略は、パレスチナ人を恐怖に陥れ、パニック状態にして「イスラエルの地」からパレスチナ人を追い出そうということだろうと思います。それが、イスラエルの政治家や軍人などの発言で察せられると思います。でも、国際機関は動きません。
半年ほど前、国際刑事裁判所(ICC)は、ロシアのプーチン大統領が、占領地からの子どもの連れ去りに関与したとして戦争犯罪容疑で逮捕状を出しました。でもいまだに、連れ去りの目的や実態は、専門家と言われる人たちの憶測やごく一部の人の証言だけで、全体像が明らかにされたとはいえないと思います、虐殺されたというような報道もありません。でも逮捕状は出されたのです。
ところが、今、イスラエルのガザ空爆や地上侵攻による攻撃で、毎日、毎日パレスチナの子どもたちが死んでおり、明らかな戦争犯罪がくり返されているのに、 国際刑事裁判所は、ネタニヤフ首相に逮捕状を出す気配はありません。また、国際社会が、ロシアに課したような厳しい経済制裁をイスラエルに課す動きもありません。
私は、そこに欧米諸国、特にイスラエルと「特別な関係」にある、アメリカの戦略に基づく世界支配の姿を見ます。
イスラエル建国は、今からおよそ75年前の1948年5月14日で、第二次世界大戦後のことです。その時、すでに国際連合が設立されていました。国際連合憲章は、1945年10月24日に発効しているのです。そして、国際司法裁判所規程は国連憲章と不可分の一体をなすものとされました。
だから、国際法に基づけば、プーチン大統領よりも、むしろネタニヤフ首相に逮捕状が出されるべきだろうと思います。
国際機関や国際社会が、国際法を無視しているイスラエルに法的に対応しないのは、圧倒的な軍事力と経済力を背景に、巧みな対外政策や外交政策を展開するアメリカの力が、いろいろなかたちで働いているからだろう、と私は思います。
イスラエルの独立も、法的には考えられないかたちでなされたと思います。
本来、「パレスチナの地」に移住したユダヤ人が、国家として独立するためには、パレスチナ人との合意がなければならなかったと思います。
でも、イギリスの「フセイン・マクマホン協定」と「バルフォア宣言」の外交的矛盾もさることながら、アメリカの意向で少数派のユダヤ人に約6割、多数派のアラブ人に約4割を割り当てるという「国連パレスチナ分割決議」もひどいものだったと思います。
イスラエルが、その国連の分割決議さえ守らなかったという事実を見逃してはならないと思います。だから、土地を追われた多くのパレスチナ人は、土地や家を手離して難民となってしまったのです。常識では考えられないことです。
それだけではありません。イスラエルの一部ユダヤ人は、「イスラエルの支配がイスラエルの地全域に及ぶべきだ」というのです。そして、そうした考えを持つメナヘム・ベギンの率いた「ヘルート」の流れを汲むのが、現在のネタニヤフ首相が主導する政党「リクード」です。
先日取り上げましたが、ユダヤ人武装組織イルグンは、パレスチナ人を恐怖に陥れ、パニック状態にして逃亡させる方針で、村民254人の虐殺をしたといいます。その武装組織イルグンの指導者が、のちのイスラエル首相「ベギン」なのです。だからこのとき、ベギンはイギリス政府によって”テロリスト”の烙印を押された”お尋ね者”だったということです。
そうした「ヘルート」の「大イスラエル主義」が、いま「リクード」に受け継がれていることは、イスラエルの政治家や軍人の言動によって明らかだと思います。
先日、イスラエルのネタニヤフ首相は、不当な支配に抵抗するハマスの奇襲攻撃を受けて、「血まみれの怪物を根絶やしにする準備できている」と語り、大規模侵攻に踏み切りました。そして、捕虜に関する交渉はせず、「勝利まで戦う」と語り、「反撃を中止することはない」などと主張しました。
また、国連のグテーレス事務総長の、ハマスの軍事行動は「何もない状況で急に起こったわけではない」との事実に基づく発言に対して、イスラエルのエルダン国連大使は、理解を求める努力を何もすることなく、一方的に事務総長の辞任を要求し、イスラエルのコーヘン外相も「(グテーレス氏は)恥を知れ」との強硬な発言をしています。常識では考えられない対応だと思います。
また、イスラエルの立法府、クネセトの元議員である、モシェ・フェイグリン氏は、中東のメディア、アルジャリーラのインタビューで、この問題の唯一の解決は、ガザの完全な破壊(complete destruction of Gaza)であると言っています。核兵器なしで、ドレスデンや広島のように破壊すること(Destruction like Dresden and Hiroshima, without a nuclear weapon )だと言っているのです(https://twitter.com/i/status/1717574138200572310)。
フェイグリン氏は、”核兵器を使わずに”とつけ加えていますが、イスラエルの閣僚、エルサレム問題・遺産相のエリヤフ氏は、パレスチナ自治区ガザに対して、原爆を使うことも「一つの選択肢」と述べたとの報道もありました。
こうした発言をする人は、ほとんど村民虐殺を実行したベギンの「ヘルート」の流れを汲む現在の「リクード」のメンバーであることを見逃してはならないと思います。
さらに、オスロ合意を無視したり、ヨルダン川西岸地区で分離壁の建設を進めたアリエル・シャロンもリクードの人です。
「リクード」を主導するネタニヤフ首相は、モシェ・フェイグリン氏のような考え方でパレスチナを攻撃しているのだと思います。ネタニヤフ首相は、「停戦はしない」とはっきり言っています。「停戦はイスラエルの降伏を意味する」などとも言っているのです。捕虜の人命は後回しようです。
だから私は ネタニヤフ首相の言う「ハマスの殲滅」は、世界の人々を欺く目標で、ほんとうは、イスラエルからパレスチナ人を追い出すために、一方的な戦争を続け、徹底的にガザの破壊を進めているのだと推察します。話し合って、共存する道を探ろうとはしていないと思います。
先日、イスラエルの政治家や軍関係者からは、ガザ市民すべてを潜在的なハマス・ハマス支持者とみなし、丸ごと攻撃対象とみなすような発言が、次々と飛び出したとの報道もありました。見逃すことができない主張だと思います。
それが、ヨーロッパから移住したユダヤ人「アシュケナジーム」の「大イスラエル主義」の考え方だということです
「大イスラエル主義」の考え方は、「ハマス殲滅のため」であれば、市民に大規模な被害をもたらす病院や学校や難民キャンプの爆撃も許されるということだと思います。そして「ハマス殲滅」を表向きの目標として掲げつつ、徹底的な爆撃、破壊によって、パレスチナ人の日常生活再建を不可能にし、イスラエルから追い出す戦略なのだろうと思います。
国際社会が止めることができなければ、人類の将来はあまりに暗いと思います。
下記は、「イスラエルとパレスチナ 和平への接点をさぐる」立山良司(中公新書941)から「大イスラエル主義とリクード」を抜萃しました。
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第7章 岐路に立つイスラエル
大イスラエル主義とリクード
シオニズムの基本的な原理は、「イスラエルの地」にユダヤ人の国を再建することにあった。「イスラエルの地」とは旧約聖書で神がユダヤ人に与えると約束した「約束の地」であり、かつてユダヤ人の王国が築かれたところでもある。第一次中東戦争<イスラエル独立戦争>で、イスラエルはパレスチナ国連分割決議で割り与えられた「ユダヤ国家」の領域より広い地域を支配化に収めたが、東エルサレムやヨルダン川西岸など「イスラエルの地」の核心部分は手に入らなかった。そのことはそれなりに大きな失望をシオニストにもたらしたが、多くの人はそれはそれで仕方がない、と考えていた。むしろ誰もが誕生したばかりの国を守り育てるのに忙しかった。
こんな中で、唯一「イスラエルの支配がイスラエルの地全域に及ぶべきだ」と主張し続ける大イスラエル主義政党があった。メナヘム・ベギンの率いる「ヘルート」(後の「リクード」)である。「ヘルート」とはヘブライ語で「自由」を意味しているが、ベギンらは党名「ヘルート」に「ユダヤ人の自由はイスラエルの地全域にユダヤ人の支配が及んだときに初めて実現される」という意味を込めていた。しかし当時、ヘルートの主張は「荒唐無稽な主張」としてイスラエル国内でも無視され続けた。
1967年の第三次中東戦争はそれまでの状況を一変した。「イスラエルの地」のほぼ全域が、わずか数日の間にイスラエルの支配下に入ってしまった。中でも、東エルサレムの旧市街地を含むヨルダン川西岸は、「イスラエルの地」の核心的な部分である。イスラエルの人々は東エルサレム旧市街地の「嘆きの壁」や、ヘブロンにあるユダヤ人の祖(同時にアラブ人の祖でもあるが)アブラハムらの墓に行っては、狂喜しかつ涙した。狂喜し、涙をすることで、宗教的な、あるいは民族主義的な精神が人々の間で急速に高まった。戦後のイスラエル内では誰もが、「イスラエルの地」とユダヤ人の「宗教的」「民族的」「歴史的」な結びつきを熱っぽく語り始めた。
第三次中東戦争直後のイスラエルに生まれたこの新しい精神状況は、大イスラエル主義を主張する右派や「イスラエルの地」とユダヤ人との宗教的な結びつきを重視する宗教勢力はもちろん、左派の活動家やキブツ運動家までをも巻き込んだ広範囲なものだった。ヘブロンを訪れたある左派の活動家は、その訪問をきっかけに、ヘブロンとユダヤ人と結び付ける強い民族的な精神が、自分自身の中に沸き上がってくるのを強く感じとったという。そのまま彼は、「ヘブロンとテルアビブのどちらかを棄てろといわれれば、私は躊躇なくテルアビブを捨てる」といって、新しく結成された大イスラエル主義運動グループの中心的な活動家に”転向”した。
べギンとその政党「ヘルート」が主張していた大イスラエル主義は「荒唐無稽」な主張ではなく、現にイスラエルが支配している領土に関する「現実的な主張」となった。それより前の1965年に、他の非労働党系政党と合併し、党勢を拡大していた「ヘルート」は、第三次中東戦争直後からイスラエル内に次々と誕生した大イスラエル主義を掲げる各種グループの強い支持を受けるようになった。勢いに乗った「ヘルート」は1973年、大イスラエル主義を掲げる他の小政党を糾合し新しい選挙リスト「リクード」(「連合」の意)を結成。労働党政権の対応の誤りから第四次中東戦争でイスラエルが苦戦したこともあり、また労働党長期政権に反感を抱き始めた。セファルディ(アジア・アフリカ系ユダヤ人)票をも集め、議席数を伸ばし続けた。そしてついに1977年の第9回クネセト選挙で、それまで絶対優位を誇っていた労働党破り、政権の座についたのである。
1977年から1984年までの間、リクード政権はイスラエルだけでなく中東和平問題全般、パレスチナ問題の将来の行方に大きな影響を及ぼす二つの政策を実行した。一つはエジプトとの和平を達成、シナイ半島全域をエジプトに返還したことである。しかし、エジプトとの和平とワンセットになっていたキャンプ・デービッド合意のもう一つの取り決め、西岸・ガザの最終的な地位を交渉によって決定すると合意した「中東和平のための枠組み」の方は、自治交渉もまとまらないまま棚上げ状態となった。大イスラエル主義を掲げるリクードの主張からして、米国やエジプトが期待したように、安全保障上必要な若干の地域を除く西岸・ガザの大部分から撤退することはあり得なかった。むしろ政権にあった七年間に、西岸・ガザで次々に入植地を建設した(1977年から1983年までの7年間に建設された入植地は、それまでの4倍の97にのぼった)。
次いでエジプトとの和平が達成され。南部方面の脅威から解放されたイスラエルは、レバノンへ侵攻した。85ページで述べたように、当時ベギンらは、レバノン戦争でPLOの軍事力壊滅だけでなく、より遠大な目標を抱いていたが、それは達成できなかった。逆に泥沼化するレバノンに足を取られ、国内経済は年率400%を超える超インフレにあえいだ。それでもリクードが1984年のクネスト選挙で政権への足掛かりを失わなかったことは、すでに見た通りである。