先日朝日新聞は、韓国の弾劾審判で、当時の軍司令官が証言をしたことを、下記のように伝えました。
”郭種根(クァクジョングン)陸軍特殊戦司令官は昨年12月の非情戒厳の際に尹大統領から直接電話を受け、「議決定足数が満たされないようだ。早く国会の扉を壊し、中にいる人員を引きずりだせ」と指示されたと述べた。”
韓国の情勢を踏まえれば、軍司令官が尹大統領を陥れるために、そういう事実をでっち上げることは考えにくいと思います。
また、尹大統領が、国際社会を驚かせるような「非情戒厳」を宣布したこと自体も、戦後のアメリカの欺瞞的な軍政の影響と無関係ではないと私は思います。
だから、今回は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から、当時韓国で、「自民族を裏切った利敵分子」とか「親日売族分子」などと受け止められていたような右派の人たちが、日本の敗戦後まもなく、「韓国民主党」を結成し、アメリカに取り入って、”おのれ財産を守り”、”懲罰を免れ、あわよくば日帝時代この方の社会的影響力をこれから先も持ち続けよう”としたと考えられる部分を抜萃しました。
前回も触れましたが、アメリカは「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」という内容を「カイロ宣言」に入れておきながら、すでに建国されてされていた「朝鮮人民共和国」を受け入れず、逆に否定し、関係者を排除する軍政を敷いて、朝鮮を分断する占領行政を行いました。
その時、アメリカ軍政庁が、どういう人々と手を結んだのか、歴史家ブルース・カミングスは、具体的に、名前まであげて明らかにしています。その大部分が、朝鮮を植民地とする日本と手を結び、かつて「鬼畜米英」の戦争を煽った「親日売族分子」と呼ばれるような人たちであったということ、そして戦後、手のひらを返したように、アメリカの占領行政に協力するようになった人たちであったということを忘れてはならないと思います。
アメリカは、本来戦犯に問い、公職を追放すべき右派の人たちの戦争犯罪に目をつぶり、朝鮮独立を達成しつつあった「朝鮮民主共和国」の推進者達を犯罪者扱いする欺瞞的な占領行政を行ったということもできると思います。
そればかりでなく、アメリカは、戦後の朝鮮に関し、ソ連に分割占領を提案しておきながら、1948年の第三回国連総会を主導し、南の大韓民国のみが国連の認める唯一の正統政府であるとするような「総会決議195号Ⅲ」を採択させているのです。
さらに、その総会決議を背景として、国連軍を組織し、国連を巻き込んで、朝鮮戦争に介入していったということ、そして それがその後の日韓条約に受け継がれていったことを、私たちは忘れてはならないと思います。
膨大な一次資料を駆使し、戦後の朝鮮や朝鮮戦争の内実を明らかにしたブルース・カミングスの「朝鮮戦争の起源」が、韓国社会に大きな衝撃を与えたので、韓国では「禁書」とされたということが、尹大統領につながる韓国保守政党の本質をあらわしているように、私は思います。
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第一部。物語の背景
第三章 革命と反動──1945年8月から9月まで
朝鮮人民共和国(人共)
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9月14日の人共宣言文は次のようにのべている。
日本帝国主義の残存勢力を完全に駆逐すると同時に、われらの自主独立を妨害する外来勢力と、反民主主義的凡ての反動勢力に対する徹底的な闘争を通じて完全な独立国家を建設し、真の民主主義社会の実現を期するものである。
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人民共和国」に対する反対
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韓国民主党は、解放後数ヶ月にして右翼を支える支柱的な存在として浮上し、米軍政の全期間を通じて、最大最強を誇る右翼政党として存続した政党である。韓民党は自らを「愛国者、著名人士、及び各界の知識人」の政党として規定したのであるが、この規定はある程度真実を語るものであると同時に、この集団のエリート意識を示すものである。左翼と中道穏健派はこの集団を資産家と知識人、愛国者と裏切り者、そして「純粋分子」と「不純分子」との混交物だと評した。大衆により容易に受け入れられそうな人物が全面に出されていたが、これはおのれ財産を守り通そうとする地主階級と、日帝支配から民族の独立へと移り変わる過渡期に処して、懲罰を免れ、あわよくば日帝時代この方の社会的影響力をこれから先も持ち続けようとする親日分子らをかばうための風よけだというように、一般からは受け止められていた。後のアメリカ側の資料には、韓民党は「主として大地主と富裕な企業家たち」の政党であると規定されている。韓民党創党大会に参席したあるアメリカ人は、そこに居合わせていた人たちの衣服がきらびやかであった点から、これは「金持ちの徳望家たちの政党であろう」と感じたとの証言を残している。
韓民党は端的に言って、金性洙(キムソンス)と宋鎮禹(ソンジヌ)の支配下にある地主勢力、企業家、そして新聞・雑誌等言論機関の集まりがその主力である。このグループはしばしば湖南財閥の名で呼ばれるものであるが、これは第1章ですでに論じた地主企業家の集団に他ならない。このグループの人々は1920年代にさかのぼり、日本に対しては改良主義的な漸進的抵抗を試みた人々であるが、しかし日中戦争が始まった頃はそのような抵抗意識も枯渇してしまい、それと同時に総督府当局は、日本の朝鮮皇民化政策に協力するよう彼らに強力な圧力を加え始めた。このグループの連中を、自民族を裏切った利敵分子と呼びうるかどうかは、言葉の定義と、見る人の視角如何によるだろうと思う。宋鎮禹ような人物は、恐らく伝統的支配階級としての自らの正当性の根拠を、回復しないえない程度にまで汚してしまったといえないような人物であろう。彼が戦時中、積極的に日本人に協力したという批難もあるが、それについての文献上の証拠はない。一方、彼が示した抵抗の姿勢というのは、せいぜい病と称して表に出なかったという、如何にも無気力で消極的なものであったが、しかしこの程度のものであれ、保守的で伝統的な思考の朝鮮人からすれば、それは彼の地位にふさわしい愛国的な行為であったと見られるたかもしれない。金性洙が1940年代の初め頃から、演説とか寄付を通じて、そして総督府中枢院に身をおくことを通じて、積極的に日本人に協力したことについては疑問の余地がない。にも拘らず、呂運亨(ヨウニョン)は建準の創設に加わってくれるよう、数回にわたって金性洙一派に協力を要請した。公平に言って、彼らが解放後の朝鮮の政治に参与する程度のことであれば、国内外を問わず果敢に日本に抵抗した人たちを含めて、あまり反対はなかったかもしれない。しかし、新しい国造りに彼らが支配的な地位を占めるようなことは到底ありえないこととして猛烈な反対に逢ったであろうことは明らかである。一人の人間が個人として、日本人の圧力に屈したということはとも角として、それらが何ら自分の前非を反省することなく、恰もあたかも過誤は無かったかのように大手をふって解放後の社会でのさばるのは許せないというのが当時の通念であったろう。
韓民党指導層のは中には、否定しえない、しかもより罪科の重い対協力の経歴をもつ人がかなりいた。例えば普成専門学校の教授張徳秀であるが、彼は戦時中、日本の「聖戦」を讃めたたえる数多くの演説を行い、李光洙(イグァンス)、申興雨(シンフンウ):ヒュー・シン)、崔麟(チェリン)、崔南善(チェナムソン)等々、著名な親日売族分子らと共に公開の席上に姿を見せたりしていた。また、京畿道(キョンギエド)の「愛国国民義勇隊」を指導していたようである。1947年暗殺されたとき、彼の狙撃者は、張徳秀の罪状をあばき、彼が日本軍の司令部付き顧問を務め、朝鮮人政治犯や「思想」犯の「再教育」のために運営されていた「大和塾」の指導者であったことを糾弾している。レナード・バーチ〔中尉〕は、恐らく当時の米軍政庁の中で朝鮮の政治情勢に最も通暁していたアメリカ人であったが、彼は張徳秀について次のように述べたことがある。「彼はアメリカの蛮行を口を極めて罵りつつ、衷心から日本人に協力した男であるが、今度は〔1946年〕アメリカ人に衷心から協力している。次に衷心から協力する相手はロシア人だろう」。韓民党のもう一人の指導者金東煥(キムドンファン)は、日本人の戦争努力を鼓舞讃揚する演説と、朝鮮人に対する熱心な動員活動をもって鳴らした人物であるが、程度の差こそあれ、日帝と協力した前非を糾弾されるべき韓民党の重鎮の中には、この他にも白楽濬(ペクナクチュン)、朴容喜(パクヨンヒ)、兪鎮午(ユジノ)、徐相日(そサニル)、李勲求(イフング)等が含まれる。韓民党指導者の凡てが親日協力の汚点を持っているわけではないが、しかし彼らの愛国的経歴は、人民共和国指導層のそれに比べると、全く見劣りするものであった。
富裕な朝鮮人は、そう積極的に公然と日本の皇民化政策に同調しなかった人でさえ、一般大衆の心の中では日本人と結びつけて考えられた。前章で論じたように、多くの朝鮮人にとって、植民地主義と資本主義がいずれも、平穏なそして自足的な伝統的朝鮮の経済と社会を破壊し、崩壊に追い込んでいった日本の侵略を象徴するものであった。日帝程時代は、しばしば屈辱の思いを込めて「資本主義段階」というふうに呼ばれるばかりか、資本家となった朝鮮人自体が機会主義的成り上がり者か、日本人の手先となった卑劣漢のように思われた。従って資本主義は、伝統的思考に浸ったまま、古(イニシエ)の平穏な自足的経済体制を回復しようとする反動主義者からも、また社会問題の解決策を社会主義の中にみつけようとする進歩主義者からも、同時に反対をうけ挟み打ちにされるということになった。社会の一般的風潮がこのようであったことから、資本主義的所有の形態を解放後も引き続き維持しようとする朝鮮人は、大変な困難に直面せざるをえなかった。
韓民党の構成員の中には、産業分野と教育界、それに植民地統治機構の中で枢要な地位を占めていた人々が含まれていた。金度演は朝鮮工業株式会社の取締役をしており、趙炳玉(チョピョオク)、は初期民族主義運動の指導者であったが、1937年から45年まで宝仁(ポイン)〔音訳〕鉱山株式会社の重役を務めていた。閔奎稙(ミンギュシク)は朝鮮屈指の大銀行である朝興銀行の重役であり、金東煥は大東亜株式会社の社主であった。趙鍾国(チョジョンググ)は製薬界の大物であり、金東元(キムドンウォン)は平安商工株式会社の社長、張鉉重(チャンヒョンジュン)は東亜企業を経営していた。教育界の重鎮で、韓民党に名を連ねていたのは、金性洙、 白楽濬、李勲求、白南薫その他である。後述する通り、朝鮮人として日帝の植民地統治機構で高位の職についていたものらも多数、韓民党と密接な関係を結んでいたが、1945年の秋の時点ではその関係を公然と明らかにしなかった。その理由は説明にも及ぶまい。しかし日本人によって任命されていた道や市レベルの顧問役等は、韓民党は大っぴらに党員としてこれを公表した。その中に含まれているのは、李鳳九(イボング)、裵栄春(ペヨンシュン)、千大根(チョンデグン)、鄭順錫(チョンスンソク)、李鍾圭(イジョンギュ)、李鍾駿(イジョンジュン)などである〔以上凡て音訳〕。これらの大部分は地主であった。実際、米軍情報機関が蒐集した個人的なデータと照らし合わせてみれば、韓民党メンバーの圧倒的多数は、地主か、企業家か、或いはさまざまな種類の事業主であった。…