真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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金学順さんの証言①

2020年10月11日 | 国際・政治

 私は、元「従軍慰安婦」であった人たちの証言が、すべて真実であるとは思いません。特に個人的な身の上話に関する部分には、誤解や記憶違い、肉親や関係者への配慮のため、あるいは、個人的に知られたくない事実を覆い隠すための作り話など、さまざまなことが証言に含まれる可能性はあると思います。でも、証言がすべて嘘であるということはあり得ないと思います。

 それは、金学順さんが名乗り出た後、次々に名乗り出る人があらわれたからです。韓国はもちろん、フィリピン、中国、オランダ、インドネシア、台湾などでも名乗り出る人があらわれました。だから、国連人権委員会のクマラスワミ報告書には”それでも徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれ自分自身の目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとは全く考えられない。”とあるのだと思います。
 下記は、『金学順さんの証言─「従軍慰安婦問題」を問う』(解放出版社編)から「第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言」の前半を抜粋したものです。
 「五人が慰安婦とされて」という文章が慰安所の問題として重要だと思うのですが、嘘であると断言できるでしょうか。似たような証言はたくさんあるのです。元「従軍慰安婦」が慰安所に到る経緯は実に様々です。売られたと証言している人もいます。でも、慰安所におけるいわゆる「性奴隷」といわれる実態は、ほぼ共通です。
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            第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言

 あったことは、「あった」というべきです 
 五十年間、私は我慢に我慢を重ねてきました。
 五十年前からずっと心が重苦しく、しかし、いつか私の体験を話すことを胸にひそめてきました。ずっと思っていたことが、日本に来ることで実現したのです。
 昔は女性は家庭を守って男性のうしろからついて行くという時代でしたが、現在はそうではありません。もちろん、みなさんが歴史のことをよくご存知だと思いますが、日本人、韓国人を問わずに、私の体験を知っていただきたく来日しましたので、どうかお聞きください。
 いま話をしようとすると、胸がドキドキします。過去のことが、あまりにもとてつもない事だからです。私の父は日本軍の銃で撃たれて亡くなりました。そして私までひどい目にあったので、「日本」という言葉を聞くだけでも胸が引き裂かれる思いがします。
 今年(1991年)6月、日本政府が従軍慰安婦問題を「知らない」と答弁しましたが、このことが韓国のマスコミでも報道されました。どうしてこうした嘘をいうのでしょうか。現に従軍慰安婦にされた私がここに生きているのですから。
 あったことは「あった」というべきです。
 もし私が、その慰安所から逃げることができずに、いっしょにいた娘さんたちとその場にいたなら、私の存在はもう腐ってなくなってしまっていたでしょう。そして、こうした証言もできなかったでしょう。
 私はいても立ってもいられず、思案に思案を重ねて、やっと名乗り出たのです。私の一生を台無しにしてしまった日本人の前で、どうして私が言えない理由などあるでしょうか。

 韓国にいても新聞などで、同じく従軍慰安婦とされた裵奉奇(ペ・ポンギ)さんが沖縄におられることを知っていました。もし、日本に来たなら、ペ・ポンギさんに必ず会おうと思っていたのです。しかし、10月に亡くなられた記事を韓国で読みました。私はどれだけ泣いたかわかりません。本当に言葉が出ませんでした。ペ・ポンギさんが晩年、人にも会おうとしなかったのは、それだけ心の傷が深かったからではないでしょうか。
 ペ・ポンギさんはなぜ祖国に帰れなかったのでしょうか。恥ずかしくって、子どももいないし、ここで死んでしまおうと思って、一人で死んでいったと思います。
 ペ・ポンギさんを一人で死なせた日本という国は、どうしてきちんとやっていると言えるでしょうか。日本政府はきちんとしたことは何もしていないのではないでしょうか。

 日の丸をみて…
 戦前、日本にいろいろやられたときは、私たちには国がなかったので、何でもかんでもやられたのだと思いましたが、いまは祖国があり、自分の国に足をつけて生きることができます。こうした状況の中で日本人の前に立って語ることができるようになったのです。
 いま、気分がどうのこうのという言葉では語り切れません。今回(1991年12月)、(韓国の)「太平洋戦争犠牲者遺族会」の人といっしょに来たのですが、初めての日本に来るのに体調がおもわしくなく、また気分が悪かったのです。そして、ソウルから日本の飛行機に乗ってきたことに、「何で私は日本に行かなければならないのか。自分たちの国、独立した祖国があるのに…。何んということだ」という思いがしました。
 そして私は機内で「日本の飛行機に乗って日本に行って、私は何をしようとしているのか」と自分自身に問いかけました。そして途中、機内の窓から外を見ますと、赤い日の丸に似たもの(ツルが羽を広げて丸くしている日本航空のマーク)目に入ったのです。
 それを見た瞬間、五十年間の私の人生を滅茶苦茶にした日本にたいする思いが一気にこみあげてきて、胸をしめつけるような感じがしました。軍人たちがどこへ行っても日の丸を掲げて、「天皇陛下万歳」と言いました。日の丸という言葉を聞くだけでも、頭の中が腐ってしまうほど嫌な思いがする体験をしてきたのです。そのことがよみがえり、いまでも日の丸を見ると胸がドキドキするのです。
 皆さんは私の思いがどのような思いなのか、たぶん想像がつかないものだと思います。
 飛行機で日の丸を見て、過去の嫌なことが思い出されて、非常に胸が苦しかったのです。
 従軍慰安婦として犬よりもひどいような仕打ちをされて、あっちこっち引きまわされた私は、日の丸は好きになれません。これから何がおこっても、何があったとしても私のこの思いが解きほぐれることはないと思います。
 また、日本に着いてある部屋に入ったら、畳が敷いてありました。真っ先に目につきました。五十年前の嫌な体験をしたときも、その部屋は畳でした。その嫌な思いが甦ってきました。
 私がこれから話すことは、皆さんのためになるか、わかりません。ただ、私がこうした話をするのは日本を批判したりすることではなく、事実あったそのまま、私が過去に体験したそのままを話したいと思います。

 父は日本軍に撃たれて亡くなる
 私が生まれたのは朝鮮ではありません。いまは中国東北部の吉林省という所です。当時は「満州」といっていました。
 父はキム・ダルヒョンといい、母はアン・キョンドンといいます。
 父は三・一独立運動に参加した独立運動家と聞いています。三・一独立運動後、朝鮮にいると日本軍に捕まり殺されるので、「満州」に逃げて、そこで私が生まれたのです。1924年のことです。ところが私が生まれて100日もたたない間に、父は日本軍に銃で撃たれて亡くなったのです。母から聞いたことです。
 母はピョンヤンで15歳のときに結婚し、私が生まれたのが19歳のときだといいます。父が死んだあと、女手ひとつで生きていきました。
 中国には親類も誰もおらず生活がたいへん苦しいので、仕方なく2歳になった私をつれて朝鮮のピョンヤンに戻って来ました。父が殺されてからは、本当に悲惨な生活でしたが、親戚や母の生家を転々としながら何とか暮らしをたててきました。
 しかしそうした苦しい生活ながらも、母と一緒に住んでいた頃は、楽しかった。いまもその楽しいころが思い出されます。
 母は熱心なキリスト教信者でした。その母に抱かれて2歳のころから教会に通いました。そこで讃美歌を覚え、いまも歌えます。
 6歳のころに学校に入りました。私が入ったのはそこの公立の学校ではありません。
 当時の公立学校はほとんど日本人が通い、公立学校に韓国人が入学するのは難しかったのです。また学校に入って日本語を使っていましたから。
 入学したのはピョンヤンの教会が運営していた学校でした。
 授業料は無料でした。朝鮮の貧しい子どもたちが勉強していました。100人くらいの子どもたちが学んでいたと思います。
 毎日学校に通うのがとても楽しかったです。
 私は走るのが得意でした。クラスで誰よりも早かったです。リレーの選手でもありました。
 しかし、どのくらいの期間、学校に通うかは、自由でした。授業はいまの学校のように、朝から夕方ありました。結局、私は7歳から10歳まで四年間、学校に通ったのです。
 母は当時、靴下を編む工場で働いていましたが、私は学校から帰ると、その糸を巻いたりする手伝いをして、生活を助けました。
 その母がいま生きているのか、亡くなったのかは知りません。自分が中国に行くときに、母が汽車まで送ってきてくれて会ったのが最後でした。ヒョンヤンの駅まで来てくれて、汽車に乗った私を送ってくれました。その後の消息は全く知りません。
 それから半世紀もたちました。

 ピョンヤンで育って
 私たち母子はピョンヤンの中心街から少し離れたところに住んでいました。大同江(テドンガン)が市内を流れていますが、私は普通江(ポトンガン)の方の近くで、普通門(ポトンムン)があるその近くで生活していました。
 いま願っていることは、生きている間に自分の育ったところを一度訪れたいということです。だから解放後に私が赤十字(大韓赤十字社)の老人学校に入ったのもそのためです。「赤十字に入ればピョニャンに行くことが出来て、育ったところが見れるのでは……」と思ったからです。
 しかしまだ実現していません。
 父のことは、母からよく聞きました。しかし、母は夫の死のくやしさを「お前が生まれることで、父が死んだ」と言ったりしました。いきどおりのない怒りを私にぶつけたこともあります。また母がおこったときには、こうもいいました。「夫は私に苦労をかけた」と。
 私の性格や背が高いことなど、父によく似ているようです。ですから母は憎しみを父に似ている私にぶつけがちだったのかもしれません。
 「おまえは父に似て背が高い」と、母はよくいったものです。
 母は、父が死んでからはあっちこっち行ったり来たりして生計をたてました。
 商売しようと思ったのですが、なかなかできないので、農村で農家の手伝いをしたり、織物を織る手伝いをしたり、靴下を編んだり、いろんなことをして生活をたてました。綿の糸をつむぐことも上手でした。
 母は十代の後半、父とともに中国で生活したせいか、中国語がとても上手だったことを覚えています。

 母と別れ養女となる 
 そうこうするうちに、誰かの世話で母が再婚することになりましたが、私はどう考えても母と一緒になった男性を父と呼ぶことができませんでした。そこで家を飛びだしてしまったのです。私が14歳のときです。
 こうして私は一人でお金を稼がねばならなくなったのです。どうやって嫁ごうかと考えた末に、キーセンの修業のできる家の養女になったのです。
 養父がたくさんのお金を出してくれて、歌や踊りを17歳まで、ピョニャンにある学校で三年間習いました。
 生徒は300人いました。踊りとかパンソリ(朝鮮の民俗芸能の一つ)などを習いました。卒業状があれば正式にキーセンになれるのです。
 大同江の川辺には料理屋があり、近くに学校がありました。
 免許がとれると、人力車が料理屋まで連れていってくれます。部屋に案内してもらって、挨拶してお客さんに歌を聞かせたり、踊りを踊ったりするのです。時間単位でいくらということでした。終ると人力車で検番まで送ってもらうのです。
 植民地になるまでは韓国式でしたが、日本軍が入ってきてからは日本式になったといいます。
 学校時代はいつも楽しかった。というのは、私は授業の内容で一を聞くと二がわかるからです。何でも人より早くできるから楽しかったのです。
 いまは私は短い髪型ですが、そのときには髪が腰まであって、編んでリボンでくくっていました。
 勉強は朝の10時から午後2時くらいまでやります。一時間は踊りをやって、一時間はチャンゴを、あとの一時間は時詩をやったりしました。
 私を学校にやってくれた父母の家には、私より先に来てキーセン修業をしておた娘がもう一人いました。一つ年上でした。同じキーセンの学校の同級生として生活しました。
 その娘と一緒に勉強して17歳の時、学校を卒業したのです。
 当時はキーセンも検番の許可を受けないと仕事ができませんでした。しかも、17歳では許可がおりなかったのです。19歳以上でないと許可がおりないんです。
 そこで養父が「どこかに行ってお金を稼がねばならん。ピョニャンでは暮らしていけないから、満州に行こう」と言いました。私も「お金を稼がねば」と思って「満州」に行くことになったのです。
 
 日本憲兵が拘束
 養父と、そして一緒に養父のところからキーセンの学校に通った娘と私の計三人で新義州から「満州」に出発する時、駅でこれまで別れて暮らしていた母と会いました。そのときが母とあった最後です。いまこの歳になって、母のことを知りたいのも勿論ですが、再婚で養父となった人には二人の子どもがいたので、私にきょうだいができたわけです。ある時まで「兄さん」「姉さん」といって育ったんです。
 名前まで覚えています。その兄、姉がどうしているか知りたいのです。
 姉は1歳年上でした。私が15歳のときに結婚しました。姉はいまどうしているのでしょうか。

 「満州」へ行くのは大変でした。私たち三人を乗せた汽車は新義州を出発して、安東(アントン)橋を渡っていきました。そして、中国の地、アントンに到着するのですが、安東橋はとても長く、いまもよく記憶しています。
 中国に入ると、そこは日本軍が監視していて誰でもが行けるところではありませんでした。そうこうするうちに私たちは日本兵に捕まりましたが、養父がどんな手を使ったのか知りませんが、私たちは釈放されて、そこから養父と汽車に乗って北の方に行きました。北に向かってたぶん、三日間は汽車に乗っていたと思います。そして着いたところが北京でした。
 北京は大きな都市ですから、日本軍や日本人の目を逃れて暮らせると思い、住む家をさがしていましたが、ある日、食堂で食事をとろうとしている時、日本軍の将校に見つかってしまいました。その将校は「お前たち、朝鮮人だろう」と尋ねました。あまりにも怖くて、答えることもできずじっとしていました。
 養父も私も、もう一人の娘も「もうこれで最後」と手足がブルブル震えだしました。
 軍人は「お前ら朝鮮人か」とたたみかけました。将校らしい軍人は「この朝鮮人はスパイではないのか」と言うんです。当時日本軍は朝鮮人を見ると「スパイだ」と疑ったのです。将校は長い刀を背中にしょっていたのですが、その刀を抜きつきつけて養父を離れたところに連れて、膝まずかせました。何をいっているのか知りませんが、刀をふりまわしていました。
 その光景をみて怖くって怖くって、ブルブル震えていました。
 私は養父について行こうとしましたが、将校はいっしょにいた若い軍人二人に私たちを連れていけと命令するのがわかりました。そして私たちが抵抗すると、「ついて来ないなら殺す」と脅しました。
 養父は引っ張られてどこかへ行ってわからなくなりました。その時が養父を見た最後でした。残されたのは、私より一つ年上の姉さんと私の二人だけになりました。

 最前線の慰安所へ
 私たちはそのまま軍人につかまって、道ばたに止めてあった軍用トラックに乗せられたのです。先に養父を連れていった将校が戻ってきて、「出発しろ」と命じると、トラックは走り出したのです。
 養父がどこに行ったのかも分からないし、怖くて隅の方に静かに隠れていました。トラックはずっと走り続けました。途中で中国軍の銃撃にもあったことを覚えています。「早く車の下に隠れろ」と言われて、トラックの下に隠れたりもしました。 
 どこか分からないまま、夜になるまでトラックは走り続けました。夜中に村の様な所に着いたようでした。トラックから下りてみると、言葉はよく理解できませんが、日本の兵士が私たちのことを命じて「どこかへ入れてしまえ」と引っ張っていくようでした。
 日本軍が攻めてきたので中国人が全部逃げて、空き家になっていました。そこに入ったのです。真っ暗な家に連れられました。
 部屋の中に閉じ込められて、しばらくしたら光が見えたのです。蝋燭の光のようでした。よく見ると軍服を着た私たちを引っ張ってきた将校のようでした。その将校がついてこいと言って、私の腕を引っ張りました。恐くてブルブル震えていました。
 私は行きたくないので抵抗すると、「なぜ来ないのか」と足で蹴ったり、引っ張ったりしました。さらに抵抗すると「殺してしまう」と言いました。いまでもそのときの怖さ、恐ろしさは生々しく覚えています。
 それから連れていかれたのは、真っ暗な部屋でした。それから起こったことは、自分のくちから恥ずかしくって言うことができません。人間がやることではありません。
 そこで「服を脱げ」と言いました。服を脱ぐことなどどうして出来ますか。ブルブル震えていると、その将校は新しく買って着ていた服をびりびりに破りました。このとき将校に女として口に出来ないことをされてしまいました。そのことを考えると言葉が出ません。どう表現していいかわかりません。
 女として一番最初に体験することを、そんな状況でやられて、とても言葉ではいい表せません。将校は喜んだかも知れませんが、私は女性として一生価値のないものになったのかという、そういう思いがしました。
 将校は「ここでは朝鮮の服を着ることができない。ここでは軍服や中国の服しか着ることができない。明日の朝になれば、お前はここがどういうところかわかるはずだ」と吐き捨てたのです。
 
 本当に口にも出来ないことです。人間なのに、人間であることが考えられない、本当に恥かしくって口に出来ないことです。ひき裂かれた服を抱いて、どれだけ泣いたかわかりません。

 五人が慰安婦とされて
 しばらくして一緒に連れられた姉さんが入ってきました。二人で抱き合って「こんなことがあっていいのか」「二人で死んでしまおうか」「これからどうやって生きようか」「どこに行こうか」と話しながら泣きじゃくりました。泣き疲れるほど泣きました。
 入口には戸のかわりにボロの布がかけてあり、そのボロ布を引き上げてみますと、黄色い軍服がたくさん見えたので、恐ろしくて、そのまま引っ込みました。そして「このまま死んでしまおうか」と果てしなく泣き続けました。
 しかし、言葉では簡単ですが、死ぬことなどできないのです。「死んでは駄目だ」「ここから生きて必ず出ていかないといけない」と思っているいるうちに、やがて外が明るくなりました。
 外では朝鮮語も聞こえたり、日本語も聞こえてやかましくなってきました。夜が明けたのです。朝早く、朝鮮人の女性が入ってきました。「そして、「どうやってこんなところに連れて来られたのか」と私たちに尋ねました。そして「ここには、すでに三人の朝鮮人の女がいる」とも言ってくれました。
 あとからわかったことですが、いずれも従軍慰安婦にされた女性だったのです。
 その姉さんは22歳で「シズエ」とよばれていて一番年上でした。他に19歳の娘が二人いましたが、一人は「サダコ」もう一人は「ミヤコ」と呼ばれていました。その姉さんが言うには「来てしまったからには仕方がない、私たちと一緒に行動しよう。ここからはとても逃げられない」。そして「お前は『アイコ』と呼ぼう。いっしょに連れて来られた1歳年上の姉さんは『エミコと呼ぼう」と名前をつけてくれました。
 次の日からその人たちと、軍隊にいわれるとおりにやらなければなりませんでした。朝鮮人女性は五人で、軍隊全体の相手をさせられたのです。とても逃げられる状況ではありませんでした。逃げようとしても軍の最前線のところで、道すらわかりません。
 門のところには監視する兵がいました。どこの軍隊であったかはぜんぜんわかりません。中隊の規模でしたが、詳しくはわかりません。場所はそのときはわからなかったのですが、あとで軍人たちがいっていたのは「北支の鉄壁鎮(テッペキチン)」というところでした。
 一日何十人も相手にしてました。日によっては数が少ないこともありましたが、軍人の来ない日などありませんでした。最前線だったので、いろんな作戦で昼間に出ていったり、夜に出ていったりするのですが、そういうときは見回りの人しかおらず来る人が少なかっただけです。攻撃が終って一旦戻ってくると、たくさん慰安所に来たのです。
 食事が運ばれれば食べる。服をもってくれば着るという生活でした。軍隊に命じられるままに従わなければならないのです。服装は先ほど言いましたが、軍人が着ていた下着のようなものを着ていました。トラックに乗せてどこかへ行くときは、軍服を着せられたのです。一週間に一回性病にかかっているかどうか検査をしました。


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