関東軍第731部隊の石井四郎は「1945年ー8ー15終戦当時メモ」に、東京から新京に駆けつけた軍司令官が<徹底的爆破焼却>を命じたと記録しているとのことであるが、その軍司令官である当時の参謀本部作戦課朝枝繁春主任本人も、1997年テレビ朝日ザ・スクープの取材に対し、「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と石井に告げたと答えたそうである。
また、その朝枝は新京でソ連軍の捕虜となっているが、シベリアに連行される際軟禁されているハルピンの副市長官舎で、ひそかに関東軍首脳を集め、口裏を合わせる会合を開いている。その時の合意内容は
「かねてソ連より睨まれている防疫給水部 ── 石井部隊のことは必ず調査を受けることになるでしょうし、内実が発覚すれば、国際問題になります。ひいては陛下に………でありますから、あの部隊は統帥系統のものでなく、軍政系のもので、陸軍省医務局の管轄下にあり、参謀本部や出先の関東軍司令部の知ったことではないということに………。ただ、全く知らないといえば、却って疑われる。間接的に聞いたことにして、誰かと訊問されたら、太平洋で死んだ者の名を出すことに……」
ということである。この会合に顔を揃えたのは、「731」青木冨貴子(新潮社)によると、終戦時の関東軍総司令官山田乙三大将、秦彦三郎総参謀長、瀬島龍三参謀ら20名ほどであったという。
したがって、信じ難いことではあるが、下記のような被害者の証言は事実と認めないわけにはいかない。下記の証言は「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)よりの一部抜粋である。同じような悲惨な体験の証言が多数あることを忘れてはならないと思う。
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私が目撃したペスト菌投下【寧波】
細菌戦被害者 何祺綏(ハーチスイ)
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叔父をはじめ次々に14人が死ぬ
1940年10月27日の午後、一機の日本軍機が寧波に飛んで来て、上空をぐるぐる旋回し、何か物を投下しました。その時の様子は、黄色のけむりが撒かれたような感じでしたが、はっきり見えました。投下した物はいったい何なのか、その時は全然分かりませんでした。地上に落ちた物をじっと見てやっと分かりました。それは小麦、小麦の粉、トウモロコシなどの穀物と、ノミがいっぱいでした。それがペスト菌に汚染されたノミだったのです。
当時私の父は開明街に店を開いていました。元泰酒店という酒屋で、この辺りはお店ばかりでした。住居と店はちょっと離れていました。27日にノミが投下されて、29日に隣の豆乳の店の主人夫婦が発病しました。昔は車が無かったから、人力車に乗せて病院に運ばれました。29日にペストを発病して、まもなく亡くなったんです。その後の数日間、死者の数はだんだん増えていきました。
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日本軍は家族を奪い、我が家を没落させた
細菌戦被害者 何英珍(ハーインチェン)
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日本軍国主義者は中国の東北、華北、華中を占領しました。華中の湖南省は日本軍による被害が最も大きかった被災地区の一つです。日本軍は、至る所で、強姦、略奪、殺人、放火といったあらゆる悪事をしました。
常徳ではさらに非人間的な細菌戦を行いました。私の家は細菌戦の被害をこうむった多くの家庭の中のひとつです。平穏無事であった家庭で、20日も経たない内にペストのために6人の命を奪われてしまったのです。飼っていた犬までも難を逃れることはできませんでした。なんと悲惨だったことか。
私の家で最初に日本軍の細菌戦によって殺害された人は兄の妻、つまり私の義理の姉の熊喜仔でした。幼い時から我が家で暮らしてきた彼女は、当時満30歳になろうとしており、三児の母親でした。彼女は毎日あれこれと忙しく働き、子どのの世話をしながら家族全員の生活を営む、良妻賢母の主婦でした。ある朝、朝食が済み後片付けを終えて便所に行こうとした彼女は突然倒れてしまいました。みんなで彼女を助け起こし寝台に寝かせましたが、もはや言葉が話せず、高熱で昏睡状態に陥りました。呼吸が困難になり、首のリンパ腺が腫れ上がったので、みんなはジフテリア(白喉病)に罹ったかと思い、漢方の薬を調合して喉に当てました。しかし、まもなく彼女の顔は紫色に変わり、体にも紫の斑点が現れ、気息奄々の状態になりました。そして、昼近い頃、息を引き取りました。みんなは非常に悲しみました。とくに頼り合って生きてきた兄は泣き潰れました。大人たちの話によると、義姉は二日前から寒気がし、熱があると言って体の不調を訴えていました。でも、体を休めるように勧められても立ち働いていたので、日本軍機が撒布したペスト菌に感染していたのだとは、最初は誰も思いませんでした。
人が死ぬと、中国では普通遺体を棺に入れて土の中に埋葬します。今日のように火葬したら、遺体を焼却し跡を残さないといって、不幸者、大逆罪と思われます。けれど、当時の政府はペスト患者は一律に隔離し、遺体は全て野外に運んで火葬させました。ですから、私たちは火葬されるのを恐れて、義姉が亡くなるとすぐ門を閉ざしました。泣くことさえ大きな声ではできず、深夜になって、小さな舟を借りて家の後ろにある河から、こっそり遺体を運び出し、河の向こうの徳山に埋葬しました。
家で二番目に日本軍の細菌戦によって殺された人は義理の兄、二番目の姉の夫で、名前は朱根保と言い28歳でした。元々彼は私の家で仕事の手伝いをしていて二番目の姉と結婚し、男の子が生まれて我が家の一員となりました。義姉が亡くなってから、彼はその葬式を営んだりしており、体の丈夫な彼が義姉の後を追っていくとは思いもよりませんでした。義姉が亡くなって三日目、朝食が終わって、彼は袋詰めの唐辛子を粉にして販売するため、ベランダ(支柱で支え、水面に張り出して作られた部屋)に担ぎ上がって日干しをしようとしました。しかし、階段口まで行って、突然倒れました。症状は義姉の時とほぼ同じでした。私たちは、気が気でなく、父が中心となって、どうすべきか相談しました。こんな病気だから治療に出してもその甲斐がない無いばかりか、出ていったら最後もう戻ってこれないでしょう。家で十分療養したら、体も丈夫だから、もしかしたら危険な状態から脱し、九死に一生を得ることができるかもしれない。私たちは万にひとつの希望にすがり、側で見守っていました。しかし、みんなの期待とは裏腹に義兄の病状は悪化し、その日の夜亡くなりました。翌日の夜、またこっそりと彼の遺体を運び出し、徳山に埋葬しました。
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家ではまた子ども二人がペストに感染しました。一人は私の可愛い弟・何毛で当時わずか二歳でした。もう一人は亡くなった義姉の次女・何仙桃で、同じくわずか二歳でした。二人は相次いでなくなり、厳家崗に住む母方の祖母の家の近くに埋葬されました。
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父と兄は少しある家財道具を捨てきれず、常徳に残りました。また、江西の郷里に親戚を訪ねていった父の兄と弟に手紙を出し、家で起きた不幸を知らせたので、二人のおじさんは日に夜をついで家に向かいました。ある深夜、二人はこっそり常徳市内に潜り込み、不気味な家に戻りました。
当時の二人の悲しい心境と疲れ切った様子は想像できることでしょう。伯父の何洪発は50歳近くで、叔父の何洪源は40歳過ぎでした。二人は家に戻ると避難することを拒みました。そして、何日も経たない内に、二人はペストに罹り、相次いで亡くなりました。二人の遺体もこっそり運び出され、徳山に埋められました。
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細菌戦被害地の調査は、日中国交正常化まではいろいろな意味で限界があった。1990年代に入ってやっと日中相互の情報を突き合わせた本格的な調査が実施され始めたようである。
●寧波では、1997年9月「侵華日軍細菌戦寧波調査委員会」が設立され、すでに判明しているペスト死亡者106名以外の調査活動が始めらた。コレラによると思われる死亡者が多数発生していることが判明している。
●常徳では、1998年3月侵華日軍731部隊細菌戦受害調査委員会がつくられ、過去の調査を基に各村に入って調査がされ、ペスト感染死亡者は11か村、2425人の名前が報告された。その後の調査では、5000人近くが死亡しているという。
●義烏では、1998年2月「義烏市侵華日軍細菌戦調査委員会」が発足し、9月には義烏市周辺46か村1070人がペストで死んだと名簿を添えて発表した。調査は続行中であるという。
●衢州では、1998年10月「侵華日軍細菌戦受害舎調査班」をつくり、12月までに161人のペスト死者名簿を作成した。この後もさらに大々的な調査を行う予定であるという。
●江山では、1998年3月「江山細菌戦受害調査小組」が組織され、200人以上のコレラによる死者と90人のチフス死亡者が確認されている。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
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