真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問その4

2010年10月07日 | 国際・政治
 尖閣諸島(釣魚諸島)沖の漁船衝突事故に関連するニュースでは、どのテレビ局やラジオ局も判で押したように「日本の領海内で起きた」との言葉を入れており、何か日本国民の合意形成を意図しているかのような感じがする。また、尖閣諸島領有そのものの歴史的経過には触れず、日本が平和的・合法的に領有した尖閣諸島を、周辺の海底に石油・天然ガスが大量に存在する可能性が指摘されたことを契機に、中国や台湾が領有を主張しはじめたと繰り返していることも気になるところである。日本の尖閣諸島(釣魚諸島)領有は、日清戦争の圧倒的勝利を確信し、台湾割譲を重要案件の一つとして検討していた時期に、首相伊藤博文が大本営の会議に列席し(明治天皇の特別命令)提出した「……”あらかじめここを軍事占領しておくほうがいい”……」というような戦略意見に基づいて理解されるべきであると思う。古賀辰四郎の魚釣島(釣魚島)における事業の話は、侵略的窃取を隠すための表向きの話であるというわけである。「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋である。
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11 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を9年間うかがいつづけた

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 この後も、日清両国の関係は、日本側から悪化させる一方であり、日本の対清戦争準備は着々と進行した。その間に古賀辰四郎の釣魚島での事業も緒についた。そして、1890年(明治23年)1月13日、沖縄県知事は、内務大臣に、次の伺いを出した。

 「管下八重山群島石垣島ニ接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀ニ付、18年11月5日第384号伺ニ対シ、同年12月5日付ヲ以テ御司
令ノ次第モコレ有候処、右ハ無人島ナルヨリ、是マデ別ニ所轄ヲモ相定メズ、其儘ニ致シ候処、昨今ニ至リ、水産取締リノ必要ヨリ所轄ヲ
相定メラレタキ旨、八重山役所ヨリ伺出デ候次第モコレ有リ、カタガタ此段相伺候也」(前掲『日本外交文書』第23巻、「雑件」)


 沖縄県のこの態度は、85年とまったく反対である。今度は清国との関係は一言もせず、県から積極的に、古賀の事業の取締を理由に、日本領として沖縄県の管轄にされるように願っている。このときの知事は、かつての西村県令が内務省土木局長のままで沖縄県令を兼任していたのとはちがって、このときの知事は、内務省寺社局長から専任の沖縄県知事に転出した丸岡莞爾といい、沖縄に天皇制の国家神道を強要し広めるのに努力した、熱烈な国家主義者である。そういう知事なればこそ、釣魚諸島と清国との関係はあえて無視して、古賀事業取り締りを口実に、ここを日本領に取り込もうと積極的に動いたのであろう。
 ・・・(以下略)
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 しかし上記のような上申や古賀の願い出は、許可されることなく繰り返された後、日清戦争勝利が確実になった1894年12月27日内務省から外務省へ下記のような秘密文書が送られた。「其ノ当時ト今日トハ事情ノ相異候ニ付キ」との理由である。
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12 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った

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  「秘別第133号
 久場島、魚釣島ヘ所轄標杭建設ノ儀別紙甲号ノ通リ沖縄県知事ヨリ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治18年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビタル次第モコレ有リ候ヘドモ、
其ノ当時ト今日トハ事情ノ相異候ニ付キ、別紙閣僚提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也
  明治27年12月27日
                                内務大臣子爵   野村靖
   外務大臣子爵 陸奥宗光殿」

 この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。
「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島、魚釣島ハ、従来無人島ナレドモ、近来ニ至リ該島ヘ向ケ漁業等ヲ試ムル者コレ有リ。之ガ取締リヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄トシ標杭建設致シタキ旨、同県知事ヨリ上申コレ有リ。右ハ同県ノ所轄ト認ムルニ依リ、上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス
 右閣議ヲ請フ」
 
 ・・・
 外務省もこんどは何の異議もなかった。年が明けて1895年(明治28年)1月11日、陸奥外相は野村内相に、「本件ニ関シ本省ニ於テ別段異議コレ無キニ付、御見込ノ通リ御取計相成リ然ルベシト存候」と答えた。ついで同月14日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月21日、内務大臣から、沖縄県知事に、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」と指令した。

 85年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有のたくらみは実現できなかった。90年の沖縄県の申請にも政府は何の返事もしなかった。93年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治18年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。
 明治18年と27年との「事情の相違」とは何か。18年には古賀辰四郎の釣魚島における事業は、まだ始まったばかりか、あるいはまだ計画中であったが、27年にはすでにその事業は発展し、「近来同島ニ向ケ漁業ヲ試ムル者アリ」、政府をしてその取締を感じさせるようになったということであろうか。それも、「事情の相違」の一つといえる。しかし、それが唯一の、あるいは主要な「相異」であるならば、その相異はすでに明治23年にははっきりしている。その相違を理由に、沖縄県が、釣魚島に所轄の標杭をたてたいと上申したのに対して、政府は何らの指令もせずに4年以上もすごした。さらに26年11月に、沖縄県が前と同じ理由で標杭建設を上申したのに対しても、政府は返事をしなかった。その政府が27年12月末になって、そのとき沖縄県から改めて上申があったわけではないのに、突如として1年以上も前の上申書に対する指令という形で、釣魚諸島の領有に着手したのであるから、漁業取締りの必要が生じたということは、9年前の今との「事情の相異」の唯一の点でないのはもとより、主要な点でもありえない。決定的な「相異」は、べつのところになければならない。

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 それは、下記の伊藤博文の戦略意見の中にある。日清戦争勝利の勢いに乗じ、より有利な状況のなかで台湾の割譲を迫るためである。
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 北京進撃は壮快であるが、言うべくして行うべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損なうだけの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよと言う声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい。
 ・・・(以下略)

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